第五章 踊るカスタネ
第78話 秘密のバリスタ
カスタネの保養所、ビンセントたちの部屋。
カーターは読書に夢中で、サラはお昼寝中だ。
イザベラが身を乗り出す。
「ねぇ、ブルース。紅茶とコーヒー、どっちが良い? それともサイダーにする?」
イザベラはノリノリのようだが、正直を言えば大人しくして欲しかった。
ククピタ村での活躍が噂になっており、『イザベラ・チェンバレン・ファンクラブ』が結成されたという。
なお、マーガレットには既に数年前から同様の団体が発足しているらしい。
「お茶くらい、俺が淹れますよ」
「じゃあ私も行く」
しかし、ビンセントはイザベラを押し留める。
本音を言えば、上の人を使うのは、どうしても気が引ける。それだけだ。それだけだったのだが……。
「ね、ねえブルース!」
イザベラが顔を青くしている。今にも泣きそうだ。
「はい」
「ごめん……怒った……?」
「いいえ? どうしたんですか、いきなり」
イザベラは肩を落とし、膝を閉じて上目遣いでビンセントを見る。
「だって……いきなりマーガレットについて行かせたり、雨の中歩かせたり……」
雨など降っただろうか。思い出そうとしているうちに、イザベラは俯いてしまった。
「……一方的にウンコマン扱いしたり、ほかにも色々……」
時系列がおかしいが、何となく思い当たる節が無いではない。
確かに過去にそういった事はあったような気がする。
しかし、今にして思えば些末な事である。
地元にいる妹を思い出す。昔、ビンセントが妹のおやつを食べてしまった時、妹は泣き出したが、次第にまったく関係ない、過去に妹のおもちゃを失くしてしまった件で怒りだしたものである。
あの時はどれだけ謝っても泣き止むことはなかった。
「俺は気にしていませんよ。……その、コーヒーをお願いします」
「ほ、ほんと!? わかったわ、すぐに淹れてくるねっ!」
勢いよくイザベラは部屋を出ていく。バタバタと遠ざかる足音は、一瞬で離れていった。
「面倒くさい女だなぁ、相棒?」
カーターは、我関せずとベッドに寝転んで本を読んでいる。
筋トレをしていない姿は、随分と久しぶりだ。
「面倒?」
「だって、そうじゃねえか。結局、お前さんに気を遣わせてるんだぜ?」
視線は本に向けたままだ。表紙には『オレはノンケなのに、あんな男にときめいちゃう・第八巻』とある。
裏表紙には図書館の管理シールが貼られていた。
枕元にはもう一冊『女の子なのにいきなりお姉さまにキスされちゃって、その日から男に興味が無くなりました。・下巻』がある。
完全に意味不明だ。
しかし、枕元の本には少し興味がある。良いセンスだ。
「そりゃあ面倒っちゃ面倒だけど。……あの人は、とても優しい人だよ」
少なくとも、イザベラはビンセントに暴力を振るわず、人格否定もしない。
最近様子が変だが、目の敵にされているわけではないようだし、何よりもビンセントの好みド真ん中の美女だ。多少のご機嫌取りなど物の数ではない。
「トラバースとは違うってか?」
その名を聞いた時、思わず眉間に皺が寄った。
「……なぜその名を?」
「前にウィンドミルに聞いたぜ。あいつ何でも調べられるのな。すまねぇ、……嫌な事思い出させちまったかな……」
トラバース中尉。リーチェで戦死した、かつてのビンセントの上官である。
「……もう忘れたよ。今が一番良いからね」
カーターが微笑んだ。
「ああ、それで良い。忘れるのが一番だぜ。口だけじゃなくて、本当にな」
◆ ◆ ◆
「美味しくな~れ……デュフフ……」
イザベラは異様な笑い顔を浮かべながらコーヒーを淹れていた。
家や官舎にいた頃は使用人が、旅を始めてからはビンセントやカーターが淹れてくれていたので、イザベラ自身にコーヒーを淹れた経験は無い。
そのため、ミルを使って粉にすることを知らず、豆のまま入れるという致命的過ぎる間違いを犯した。
彼女にとって、お茶など自分で淹れるものではなかったのだ。
「あ……あれ?」
出てきたのはごく薄い色水。
僅かに匂いはするものの、イザベラのイメージするコーヒーとはかけ離れたものだった。
「何してるんだ、お前は」
イザベラが振り向くと、不機嫌そうな馴染みの顔があった。
「あら、エリック。見ての通りコーヒーを淹れているの。でも、なぜか上手く行かない……」
エリックは呆れたような顔で溜息を付き、髪をかき上げた。
「バカか、お前は。豆は挽いて粉にするくらい常識だろ。お付きの兵士にやらせろ、奴らの仕事が増えるだけだ」
「ダメ。私がやるの」
「……ちっ。ルシアは居ないな。見つかると面倒だ」
エリックは軽く周囲を見渡すと、棚からミルを取り出し、豆を入れハンドルを回す。
「こうやって豆を粉にするんだよ、よく見てやがれ」
「そういえば、ブルースもそんな道具を使っていたっけ……」
ゴリゴリと響く音。周囲に良い匂いが漂い出す。
ハンドルを回しながらエリックはイザベラを見た。
「ブルース? ああ、ビンセントはそんな名前だったか。……あいつのためか?」
「そうよ。彼、コーヒーが好きなの」
エリックは視線をミルに落とした。
「ベラ。……エルフの掟って、知ってるか?」
エルフは、美貌と長命、長い耳で知られる亜人だ。
森の奥に住み、人間との接触を避け続けている。
この中央大陸には居ないが、東大陸にはまだ千人ほどが生き残り、居留地で独自の文化を形成しているのだ。
観光客向けに土産物を販売したり、伝統の踊りを披露したりして現金収入を得ているというが、写真で見たことがあるだけだ。
なおエルフはヒトの亜種であり、人間との完全な交配が可能である。
しかし、混血は殆ど居ない。掟があるのだ。
「ええと、人間と結ばれてはならない、だったかしら。あと、私をベラと呼ばないで、忌々しい」
「わかったわかった。話は戻るが、それには理由があってな。エルフの寿命は長いから、すぐに死んじまう人間と結婚すると、すぐに相手が死んで悲しい思いをするから、だそうだ……」
エリックは粉をドリッパーにセットし、お湯をゆっくりと注ぐ。コーヒーの芳醇な香りが辺りを包んでいく。
「……それがどうしたの? 私にエルフの知り合いなんて、いないわ」
「たとえ話だ。あいつは……平民の兵士だ。機関銃のことは知ってるか?」
イザベラは息をのんだ。ブラシカ山脈を越えると、そこはリーチェだ。
機関銃が猛威を振るい、あっという間に死体の山を築き上げた。
そして、その死体の山はほとんどが平民である。
「……エリック。あなた……」
掌に爪を立てる。
「ブルースがすぐに死ぬとでも言いたいの!?」
エリックは手を止めた。
「可能性の話だ。そういう事だって――」
「うるさいバカ! 黙ってよ!」
イザベラの気迫に、エリックもしばし黙る。エリックの顔から表情が消えた。
「そう思うなら、ヤツはここに置いていくべきだ。ウィンドミル監察官が来るんだろう?」
「なぜそれを――」
「監察官は、俺に会いに来るんだ。王女の件でな。……ほらよ、コーヒー入ったぜ」
◇ ◇ ◇
「この香り、この味……素晴らしいですよ! 一体どうやったんですか? 同じ豆を使っているのに、この差は一体……」
ビンセントはコーヒーの味を褒めてくれたが、イザベラの心境は複雑であった。
カーターも目を細めた。
「こいつぁ美味ぇや。イザベラさん、喫茶店の経営でも始めたら?」
ビンセントは遠い目をして、呟いた。
「こんなコーヒー、飲んだことない……美味すぎる……! 死んだ戦友も、コーヒーが好きで……アイツにも……飲ませたかった……」
イザベラは、決して彼らの目を見ることはなかった。ここまで大げさな事になるとは思ってもみなかったのだ。
「た、たまたまよ、偶然上手くいったのよ!」
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