第69話 カスタネ海戦

 サラはイザベラの付き添いという名目で、貴族用の浴場に連れて来ている。

 こちらにはシャンプーとボディーソープが備え付けられているが、平民向けの風呂にはない。

 サラは身体と髪を洗い終え、今は浴槽の中だ。黄色いアヒルの玩具で遊んでいる。


「めーんたんくぶろー。せんぼうきょうしんどよーそろー」


 イザベラの不満はマーガレットだ。


「駄目。お断り。無理。イヤ。他を当たって」


「できるならそうしていますわ」


 イザベラが言っても、マーガレットは引き下がらない。

 宿の温泉。

 入浴は二十四時間可能だ。

 夕刻ではあるが、他に人影はない。

 なお、基本的に入浴は朝起きた直後にするのが伝統だが、現在では平民を中心に夜寝る前の入浴をする者も増えているという。


「いいじゃありませんの。たかが兵士の一人くらい貸してくださっても。そんな危険な依頼とは思えませんわ」


 マーガレットはスポンジで身体を擦る。全身が泡に包まれているが、ここまでの泡立ちを誇るのは高級ボディソープだけだ。

 平民向けの安い石鹸ではこうは行かない。


「危険じゃないなら一人で行けば!」


 イザベラは手桶の湯を頭からかぶる。

 石鹸の泡が排水溝に吸い込まれていく。


「薄情ですわね、か弱い乙女を、山賊が出るかもしれない山道を一人で行かせるなんて」


「そんな依頼を受けるからよ! 何よ冒険者って! 時代遅れも甚だしいわ!」


「そこが良いのですわ。浪漫! ケレン味!」


 イザベラは温泉に肩まで浸かる。

 マーガレットも追うようにして隣に掛けた。


「はいはい、イザベラ・チェンバレンは親友をたった一人で魑魅魍魎が闊歩する森の中へ放り込む、血も涙もない冷血女ですわ、あなたがこんな女だと知ったら、彼はどう思うかしらね? 嫌われちゃうんじゃない?」


「な……」


 イザベラは視線をそらす。


「そ……そんな事、ないもん」


「貸して?」


「嫌っ!」


 マーガレットは、水面から左腕を出すと、右腕で撫でる。

 カスタネの温泉は、美肌に効くと評判だ。

 水滴が腕を伝った。


「自信無いのぉ? ブルースの目がわたくしに向くのが、そんなに怖いのぉ?」


「ち……違う! そんな訳ないもん!」


 イザベラは鼻まで湯に潜った。ブクブクと泡を出すのは、あまりお行儀が良くないかもしれない。


「じゃあ貸して。あなたの護衛は、あの筋肉がいれば充分でしょ? 彼、強そうじゃない?」


「だったらカーターを連れていけば良いじゃない! 彼かなり強いし、女子供には優しいし、その上魔法も使えるわ!」


「嫌よ、暑苦しい。目を離したら筋トレとかしてそうじゃない」


「そりゃあ、するけど……」


「あっ……本当にするの……」


 確かにビンセントは同年代のくせに実戦経験が豊富であり、加えて上官の命令を素直に聞くタイプだ。お目付け役には申し分ないと言える。


 決して『ヒャッハーッ!』などと叫んで巨大な銃を乱射することはない。

 無論、『オレを見てくれェェェェッ!』などと筋肉を誇示したり、『オウィエ(ス)!』と歯が光る事もない。

 鏡の前で一時間もポージングを研究したりしないし、他人に筋トレを強要などもってのほかだ。


 子供好きで女性には紳士的だが、確かにあの男は面倒くさい。

 なまじ変な所で常識人であり、実力があるので始末が悪い。頭は良い。でもバカだ。

 マーガレットのためを思うのであれば、確かにビンセントのほうが適任である。


「そもそも、あの筋肉はワイセツ物陳列の罪で牢の中ですわ。すぐに出るでしょうけどね、出発には間に合いませんの」


「……あのバカ」


 カーターは休暇中であり、現時点ではまだ脱走兵ではないが、時間の問題である。


「あ~あ、情けない。さしずめ、ほかの貴族に相手にされないあなたが、平民相手にちやほやされて威張り散らしたいだけなんでしょうけど」


「そ、そんな事ない……」


 断じてない。しかし、サラの事を隠してマーガレットに事実を説明することは困難だ。


「本当~?」


「ほ、本当よ!」


 イザベラは口ごもる。話すわけには行かない。

 それに、信用しない訳ではないが、ウィンドミルたちがビンセントをどう扱うか不透明な部分もある。

 余計な突っ込みを入れられないに越したことはない。


「そもそも彼、脱走兵でしょう?」


「!!」


 イザベラの動きが止まった。

 ビンセントの指揮権は、本来であれば陸軍にある。

 イザベラが無理を言って連れてきたのがそもそもの出会いだ。

 ウィンドミルが手を回してくれているとはいえ、現場の衛兵が新政府側に付けばビンセントはただの脱走兵だ。

 脱走は重罪。死刑になってもおかしくない。


「ご安心なすって。このわたくしが、マーガレット・ウィンターソンが! 逮捕されたブルース・ビンセント一等兵を既に解放しているのですわ! おほほほほほほ!!」


「……えっ?」


 初耳である。

 ビンセントと別れたわずかの間に、彼は逮捕されていたらしい。


 マーガレットの父、ウィンターソン伯爵は、国内の治安を司る衛兵隊の最高責任者だ。

 娘を溺愛しており、アリクアムへの留学も万が一の事を考えての疎開らしい。

 あまり褒められた話ではないが、マーガレットの言う事なら聞いてくれてもおかしくない。


「マギーッ……!!」


「なんですの? ……きゃっ!」


 イザベラは思わずマーガレットに抱き着いた。抱き着かずにはいられなかった。

 彼女がカスタネにいたのは、僥倖としか言いようがない。

 心からの感謝をこめて、言葉を絞り出す。


「……ありがとう」


「おほほ、たやすい事ですわ。だから、貸して?」


 それとこれとは別問題と言いたいところだが、ここまでしてもらってはやむを得ない。


「……いいわ。ただし、本人がウンと言えば、だけど」


 マーガレットはニンマリとした笑みを浮かべる。

 何か良からぬことを考えるときは、いつもこの表情だ。


「じゃあ、ブルース・ビンセント一等兵をお借りしますわ、イザベラ」


 さすがに釘を刺しておく必要がある。

 イザベラはマーガレットを睨みつけた。


「……ちょっとだけよ! 危ない目に遭わせないでよ! あと、エッチなこととかしたら、だめよ!」


「あら、怖い。でもご心配なく、危険な依頼ではないと言ったはずですわ。もちろん……」


「ひゃうっ!」


 マーガレットの両手がイザベラの胸を掴む。むにゅりと脂肪の塊が指の間からはみ出した。


「彼にこんなことされたら、さすがにわかりませんわ!」


 マーガレットの指が艶かしく動く。


「や、やめてよぉ……」


「きいーっ! 悔しい! なんですの、この脂肪の塊は! 去年までは全身がこうだったのに、ここだけキレイに残すなんて! さぞや男子たちの視線を集めるようになったでしょうねッ!」


 マーガレットがニヤついた視線が全身に絡みつく。


「お……お願い……本当にやめて……それから、この事はブルースたちには内緒にして……」


 動きが一瞬止まり、マーガレットの手が離れた。


「何故ですの? たったの一年で体重を元の四割にしたなんて、快挙ですわ! 快挙! 四割減、じゃなくて四割にした、なんて! 健康に害がないか心配するレベルですわ。何ともないんですの?」


「平気よ。いつも調子が良いわ」


「なら良いのではなくて?」


「だって、彼は昔の私を知らないもん。恥ずかしい……」


「……あっそ。ノロケは一人でお願いしますわ。イザベラは困った人ですわねー、セーラちゃーん」


「もくひょう、ぜんぽうのドラム缶ー。二番、てー」


 サラはイザベラの顔に向けて、アヒルの口からぴゅう、とお湯を吹き出す。


「おほほ、撃沈お見事ですわ、セーラ艦長」


「お胸ぺったんこ同盟の勝利だー」


 こうしてカスタネ海戦は終結した。


 ◆ ◆ ◆



「認識票の魔法を解けだとー?」


「はい、ククピタに行くことになりまして。首がもげると死んでしまいます」


 ビンセントたちの部屋。イザベラも一緒だ。

 サラにかけられた『奴隷の首輪』の魔法は、サラとビンセントが三百メートル以上離れると自動的に鎖が締まり、首を落としてしまう。

 他にも、術者が死亡したり貞操を破られたりした場合に発動する。任意での発動も可能だ。

 サラは腕を組むと考える素振りをした。やはり、まだ信用されていないのだろうか。


「『奴隷の首輪』? そんなの知らないぞー? 何の話だー?」


「えっ」


「このわたしが、そんな国際条約で禁じられた非人道的な魔法を臣下に使うもんかー。ばかだなー」


「えっ」


「三百メートル離れてみろよー。何ともないからさー」


「は、はぁ……」



 イザベラは椅子に掛けている。

 下を向いて小刻みに体を揺すり、その顔は苛立ちを全く隠しきれていない。


「……まったく……本の貸し借りじゃあるまいし、あのくそビッチごときに何でブルースを……二人っきりですって? 絶対エロいこと企んでるに決まってる……恩を盾に取って卑怯な……絶対寝取るつもりだ、絶対そうだ……どうしよう、どうしよう……」


 爪を噛み、ブツブツと小声で呟いていたのでよく聞こえない。


「何を言ってるんですか?」


「何でもない」


 イザベラはふっと笑みをこぼした。


「何にせよ、ブルースはもう脱走兵じゃないわ。軍法会議も営倉もない。……よかったわね」


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