第63話 夕焼けに消えた

 よくある話だ。


 近所に住んでいるお姉さん。

 名前は、アナ。


 明るくて、優しくて、世話好きで。男の子たちはみんな彼女が大好きだったし、女の子たちも頼りにしていた。

 ブルース・ビンセント少年とて例外ではない。

 彼女はビンセントの初恋の相手だった。


 その日はよく晴れた秋の日で、商店街の裏手にある土手にビンセントは来ていた。

 他にひと気はない。ここに来る者は稀で、町を見下ろす土手はお気に入りの場所だった。

 何か嫌なことがあった時、あるいは何かに悩んだ時、ここで一人で考え事をしたりする。


 その日何があったかは、すでに記憶の彼方に去っている。

 おそらく、あまり良いことではなかっただろう。

 その後の出来事に記憶はすっかり上書きされていた。

 些細なことかもしれない。しかし、その後の人生を変えた重要な記憶だ。



 夕暮れ。

 沈みゆく夕日が空を赤く染める。

 夕日から目を逸らし、ビンセントは寝転んで暮れゆく空を見ていた。


『こんな所に来ている人がいるなんてね』


 視界の上の方から飛び出したのは、アナの顔。ビンセントを覗き込んでいた。

 風に長い髪が揺れている。


『ここに来るのなんて、私くらいだと思ってたよ。……お気に入りなんだ、ここ』


 アナは隣に腰を下ろした。

 ビンセントも起き上がり、二人は肩を並べた。

 何も言わず、二人は眼下の町を眺める。


 ビンセントの胸の内は、しきりに飛び交う噂で埋め尽くされていた。

 確かめたい。今すぐに。

 当のアナ本人に、直接……。


 秋の風が渡っていき、コスモスの花が揺れていた。

 しかし気持ちに反して、口は動いてくれなかった。


 ――アナと居るこの時が、永遠であればよいのに。


 そう、心から願った。

 せめてもう少しだけ、隣に彼女を感じていたかった。

 その日の空はどこまでも高く、そして青かった。


 しかし、永遠などはない。やがてアナが立ち上がった。


『……もう行かなきゃ。』


 背中を向ける彼女に、手を伸ばした。だが、手は空を切るばかり。


『……待って!』


 やっと、口が動いた。動いてくれた。彼女が振り返る。


『俺、アナのことが――』


『おおーーいッ!!』


 ――好きです。


 しかし、言葉は風に舞って散り、誰の耳にも届かない。


 ビンセントの声にかぶせて響いたのは、別の男の声だった。

 短く刈り込んだ髪の中から汗が光る。


 アナと別れたという、噂の彼。


『……ごめんな。俺が……俺が悪かった。もう一度やり直そう! 俺は今でもお前を愛しているんだ!』


 また、コスモスが揺れた。

 彼女の瞳が濡れ、涙の雫が風に乗って光る。


『………………ばか』


 二人はしばしの間見つめ合うと、傍らのビンセントに気付き、バツが悪そうに頭を掻いた。


『ははは、恥ずかしい所見せちまったな』


『いや別に…………良かったね』


 こうしてビンセント少年の初恋は終わりを告げた。



 ◇ ◇ ◇



 程なくして戦争が始まった。

 色々複雑な事情があったようだが、明確な理由を説明できる者はいない。

 ジョージ王の暗殺がきっかけだった事は間違いないが、それだけでは説明は付かないのだ。

 政治学者の間でも意見が分かれ、定説はない。


 エイプル王国は徴兵制を採用しており、二十歳から三十歳までの間に二年間の従軍が義務付けられている。

 黙っていても、いつかは軍へ入るのだ。

 当時のビンセントの年齢では当然、兵役義務は無い。


 戦火は瞬く間に拡大し、多くの男たちが戦場へ向かった。

 戦況は芳しくなく、小国であるエイプル王国は苦戦を強いられた。


 教室。教師が黒板を背に、唾を飛ばして熱弁を振るう。


『――然るに、真の愛国者たる諸君。君たちはもう子供ではない! 一人前の男だ。そして、この国は建国以来の未曽有の危機に直面している! 諸君らには命に代えても守りたい誰かがいるだろう! しかし年齢ゆえに兵役に就く事も出来ず、歯がゆい思いをしてきた事だろうが、このたび志願兵制度が創設された! 年齢を問わず軍務に付く事が可能となったのだ!』


 机を並べて学んだ友も、一人、また一人と志願兵として戦場へ赴く。


 ビンセントは志願するつもりなど無かった。殺すのも殺されるのもご免だった。

 しかし、いつの間にか……学校には戦場へ赴くのが当たり前のような空気が蔓延していた。


 志願しないものは臆病者。

 志願しないものは卑怯者。

 志願しないものは悪者。


 だから何をやっても良い。悪者をやっつけるのは正義なのだから。



 嫌がらせが始まった。

 学用品を隠されたり、弁当を捨てられたり。他にも色々。

 しかし、そんなことは瑣末なことだ。


『どうしたんだ、レベッカ』


 ある日、妹が自室の机で泣いていた。

 理由を問おうとすると、何も言わずに部屋を飛び出した。


 机の上に開かれたノートには、筆舌に尽くしがたい罵詈雑言が殴り書きされていた。


 それだけでは済まない。

 ビンセントの家は自営業だが、薪の定期配達を解約する家が相次いだのだ。

 ガスの普及で年々売り上げが下がっているとはいえ、このペースは異常だった。

 このままでは経済的に困窮する。


 ――俺が軍に志願すれば、こんな嫌がらせはすぐに止む。


 しかし、両親は決して何も言おうとしなかった。

 家に帰ると、いつもどおり優しく出迎えてくれ、温かい食事と言葉を与えてくれた。

 何事も無かったかのように。



 ……優しさが、痛かった。



 ビンセントは軍に志願した。皮肉にも、教師に言われたそのままの理由で。

 その教師自身が志願することなど決して無いのに。

 銃後で教鞭を取ることもまた戦いなのだ、とは彼の弁だ。

 確かにそうだが、彼はビンセントの人生に責任を取ってくれる訳ではない。


 しかし、こんな後ろ向きな気持ちでは戦えない。

 だから自分に暗示をかけた。


 いつかはこのムーサの町にも戦火が及ぶかもしれない。家族とアナの住む町を、愛する故郷を戦場にさせはしない。

 町を守る。家族を守る。好きな人を守る。


 見よ、解約していった家が次々とまた申し込んでくるではないか。

 それどころか、軍向けの薪の納品が決まったのだ。


 ◇ ◇ ◇


 旅立ちの日、ムーサの駅。


 汽笛が鳴り響き、ビンセントたちを乗せた汽車が動き始めた。

 町の人がハンカチや帽子を振って見送る。

 その中にはもちろん、両親と妹もいた。

 家族も笑顔で見送ってくれたのだ。もちろん笑顔で手を振り返す。


『いってらっしゃーい!』


『行ってきます!』


 家族と町の人は、汽車が見えなくなるまで手を振り続けた。


 しかしビンセントは知っている。

 夜中に母が、息子を行かせたくないと子供のように泣きながら夫の胸に縋り付いていたことを。

 息子に心配をかけまいと、笑顔で送り出そうとしていたことを。

 


『じゃあみんな、年末にでもまた会おうぜ!』


 初秋に始まったこの戦争は、年内には終わるだろう。

 心躍る冒険、思い出を作ろう。

 そんな気分で行く者も多かった。

 民衆だけではない。政府も、軍上層部すらもそう思っていた。


 しかし、戦争は全ての人の予想を裏切って長期化した。

 驚きの四年である。

 これでもエイプル王国は比較的損害が軽いほうだというのだから、人類というのは愚かすぎる。


 果てしなく続く人格否定と土木作業。

 命を刈り取る作業と化した戦い。

 そして、思い出すも憚られる悪行の数々。


 そんな地獄のような日々にも慣れた頃、故郷からの手紙はアナの結婚を知らせてきた。


 よくある話だ。

 いつの時代も、どこの町でも、誰にでも。

 人が生きている限り、よくある話なのだ。


 こうして、エイプル軍が誇る戦闘マシーンが誕生する。

 敵とはいえ、人を殺して眉一つ動かさない化け物だ。

 殺されないためには、殺すしかない。良心の呵責を感じる余裕など無かった。


 機関銃や戦闘車両の登場で機械化された戦場だが、人の心がいの一番に機械化されたのである。



 ――愛など無い。ゆえに恋もしない。



 ◇ ◇ ◇



 だから、ビンセントは言う。


「特にないです」


「ホント!? ホントに本当? 隠してない?」


 嘘ではない。本当に何も無いのだから。


 しかし、イザベラは何故か表情が明るい。

 何が嬉しいのか、理解に苦しむ。


 少しだけ、距離を感じた。


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