第62話 リトル・クレイン

「席を外します」


「待って。ここにいて」


 イザベラがビンセントの袖を掴む。

 逃げ場を絶たれてしまった。嫌な予感しかしない。


「固くならなくていいよ、楽にして」


「はぁ、しかし」


 ジェフリーが微笑む。じつに穏やかな笑顔だ。逃げたい。


「いいからいいから。……そうそう、聞いてるかい? エリックと同棲してたローズ、最近家に戻ったよ」


「何ですって!」


 マーガレットが目を丸くしてテーブルを叩く。


「い、今知りましたわ、そんな事! ど、同棲って何ですの!」


「…………」


 ビンセントはブーツの爪先を擦り合わせた。

 水虫である。

 不衛生な塹壕生活が長かったため、ほとんどの兵士が罹患している。

 カスタネの温泉が効くということだから、後で試してみる事にした。

 とてもキヌクイムシを自分に試す気にはならない。


「同棲というか、エリックの家に無理矢理転がり込んだんだ。エリックも困っただろうね」


「イザベラ、あなたは? 知っていましたの?」


「知らないわ、興味ないもん。でもちょっと待って、エリックと付き合っていたのはレイラではなかったの?」


 ジェフリーは指を折りながら、何かを数えた。


「ええと、レイラ、ドリー、メイ、ノーラ、エミー、マイラと来てローズかな。その後ドリス……だったっけ?」


 イザベラはいかにもやる気のない目で頬杖をついた。


「だったっけ、じゃないでしょ。ドリスと付き合っていたのはあなたよ、ジェフリー」


「そうですわよ! ドリスとはどうなったんですの?」


 ジェフリーはバツが悪そうに頭をかく。


「いやあ、色々あってね……僕が悪かったんだけど、結局ドリスとエリックが付き合う事になってさ」


 マーガレットがねっとりとした視線をジェフリーに向けた。

 彼女がオレンジジュースのコップを持つときに、つい脇に目が行ってしまう。

 制服のジャケットを脱ぐと、下はノースリーブなのだ。アリクアムはじつにけしからん国である。


「…………」


 凝視しては感づかれる恐れがある。コップに意識が集中しているであろう瞬間を狙って視界に収める。


「ねえ、ジェフリー。『僕が悪かった』って、何ですの?」


「そうね。その辺詳しく聞きたいわ」


 マーガレットにイザベラも乗っかった。


「ええと……ミニーと会ってるの、ばれちゃって……」


「最悪ね」


「最悪ですわ」


 二人とも呆れ顔で溜息をつく。


「!?」


 先ほどから話している間中、イザベラは気だるげにスプーンを弄んでいた。

 溜息と同時にスプーンが首からくにゃりと曲がったのだ。

 いったい、どうやったのだろうか?

 これは推測だが、詠唱はおろか魔法陣すら省略して魔力を一点に集中し、スプーンを折ったのではないだろうか。

 しかし、マーガレットとジェフリーは興味を示さない。

 魔法使いにしてみれば、特に珍しい事ではないらしい。


「マーガレット。あなただってキースに言い寄られていたでしょ」


「冗談じゃありませんわ、あんな男! いきなりホテルに行こうとするとか、何ですの、あのバカは! そもそもわたくしは――」


「あ、キースなら今度結婚するってさ」


 マーガレットはオレンジジュースを飲んでいたが、すでに空だ。

 前に転がっていたストローの袋を取り、水を一滴垂らしてみる。


「…………」


 蛇腹状になったストローの袋がうねうねと動き出した。

 しかし、インパクトではスプーン曲げに劣る。


「あのキースが!? 一体誰ですの、そんな奇特な女は!?」


「おやおや、なんだかんだ気になるかい? マーガレット」


 ニヤニヤとジェフリーが笑う。


「誰が気にしていますの!」


 奥隣のテーブルには誰かの弟だろうか、小さな男の子が座っていた。

 もちろん貴族の子らしく、身なりは良い。不意に目が合う。


「…………」


 ビンセントはポケットから銅貨を取り出すと、男の子によく見せる。


「……?」


 男の子は首をかしげる。

 ビンセントは銅貨を、あっという間に銀貨二枚にして見せた。


「すっげーっ! もう一回!」


 どうやら受けたらしい。

 しかし、手品は同じネタを二度見せてはならない。

 タネとしてはひどく単純だが、お金を増やす魔法など存在しないので魔法使い相手でも効果があるようだ。


「エリックだって――」


「ジェフリーの彼女は――」


 とっとと帰りたいというのがビンセントの正直な気持ちであった。

 他人の色恋話が面白いのはわからないではない。

 しかし、その恋物語の登場人物はそのほとんどが赤の他人であり、顔も知らない。


 何より彼らが王立学院に行っていた時分、ビンセントはリーチェで怒号に耐えながら塹壕掘りである。

 周りが男ばかりでは愛も恋も無いものだ。

 学校に行っていた頃も、平民向けの学校は男女別である。


 羨ましくないといえば嘘になる。しかし彼らは貴族、ビンセントは平民であり、前提が違う。

 絹のハンカチとティッシュペーパーほどに違う。

 恋愛などしょせん他人事。あるいは絵空事なのだ。


「…………」


 話は弾んでいる。なんだか楽しそうだ。

 しかし、内容がよくわからない。聞こえない訳ではないが、理解できない。


「でも、エリックは結局――」


「そうそう、最短で別れたのは――」


「付き合ってから最初のデートで――」


「ジャスミンが彼氏と――」


 違う。脳が理解を拒否している。


「イザベラ、君だってオルクに言い寄られて――」


 ジェフリーの口から出たのは、どこかで聞いた名前だ。

 お人形同好会のエースにして、未来のボディビルダー。

 ただし、現時点ではまだヒョロガリで筋肉はビンセントと大差ない。


「私の前で二度とその名を口にしないで。汚らわしい!」


 イザベラが眉間にしわを寄せ、テーブルを乱暴に叩く。


「でも、イザベラ密かに一部で人気出てきているんだよ? あまりにも剣と魔法が強かったから、みんな遠慮してただけでさ」


「あなた、結局オルクとも付き合わなかったそうですわね。確かにハンサムとは言えませんけど、あなたに言い寄る男なんて他にいませんわ」


「私は変態人形マニアに興味はないの。それに、あれでボディビルを始めるとか、バカじゃないの」


「おほほ、すごい嫌いようですわね」


「興味ないって言ったわ」


 あからさまに不機嫌である。イザベラの剣幕にマーガレットもジェフリーも黙った。

 気まずい空気が流れているらしい。

 オルクには馬車の立ち往生から助けてもらったり、食事に招待されたりと、必ずしも仲が悪かった訳ではなさそうである。

 やはり屋敷での一件がオルクの株価をどん底に落としたらしい。


「オルクと何かあったんですの?」


「無いわよ! 最悪な奴よ、あいつは! あなたたちも知っているでしょう!」


 マーガレットが溜息をつく。


「確かに……そうですわね。平民のスタッフが何人も毒牙に掛かって辞めていきましたもの。でも領地を継いで、少しは人間的に成長したんではありませんの?」


「新しい領主が外に出たら娘を隠せ。これがボルドックの掟だそうよ」


 イザベラの言葉にマーガレットが頭を抱えると、ジェフリーがフォローに入る。


「で、でも相手が平民である限り、罪にはならな――」


 イザベラがテーブルを強く叩いた。ジェフリーを睨みつける。


「……本気で言っているの?」


 エイプル王国の法律上、貴族が平民に意味もなく危害を加える事は想定されていない。

 その場合、必ず何らかの理由があるとされ、貴族が罪に問われる事はまずない。

 わかりやすく言えば、貴族は平民に何をしても良いという事である。

 殺人、強盗、強姦……平民に対しては全てが許される。

 平民にしてみれば理不尽この上ない。


 もちろん、多くの貴族は『高貴なる義務ノブレス・オブ・リージュ』を掲げ、平民への狼藉は忌むべきものとされる。

 少なくとも、明るみに出る事はない。

 いったいどれだけの悲劇が隠れているか、調査すら行われていないのが現状である。


「そ、そうだ。君はどうなんだい? ええと、ビンセント君」


 ジェフリーがビンセントに話を振ると、イザベラが勢いよく立ち上がった。


「そ、そうよ! あ、あなたはどうなのよ、ブルースッ!」


 ビンセントはペーパーナプキンで作っていた『クレイン』をテーブルに置いた。

 サラから教わったもので、正方形の紙を既定の順序で折るだけで立体が作れるのだ。すごい。


「……俺ですか?」


「そ、そうよ! 私たちの話を聞くばかりで、黙っていてはずるいじゃない! は、話して! 話しなさい!」


「そんなこと言われましても、特に」


 イザベラの目が何やらぐるぐるしている。少し怖い。


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