第59話 令嬢は笑わない

 宿の裏庭。一階廊下の、窓の真下である。

 しゃがみこんだサラは、サイダーの空き瓶に入れた水をアリの巣に垂らした。


「おおー、すごいなー」


 アリの巣は大混乱で、数十、数百匹のアリが大混乱に陥った。動く速さが普段の何倍にもなって、移動も無秩序なものに変わった。

 しかし、大部分が混乱に陥っているにも関わらず、いつも通りに行動している者がいた。

 水などお構いなしに、エサを担いでは巣穴に入っていく。

 サラは飽きもせず、アリの巣を眺め続けた。


「……おしっこかけたら、もっとすごいかなー?」


 ワンピースをめくって下着に手を掛けたところで、ビンセントが現れた。


「やめてください、こんな所でおしっこするのは」


「だってー、効いてないやつもいるんだぞー」


「は? ……ああ、アリの巣ですか」


 ビンセントもサラの隣にしゃがむ。

 混乱は収まり、巣は平静を取り戻しつつあった。


「ブルースー、知ってるかー? アリって二割は全然働かないでサボってるんだぞー」


「へえ、そうなんですか」


 働かない二割はビンセント自身かもしれない。

 勇敢に突撃をかました者は、ほとんどが死んだ。


「で、サボったやつと働いてるやつを分けると、やっぱりそれぞれのグループで二割がサボって八割が働くんだー」


 気になることを言う。何かの例え、ではないだろう。

 単純に、目の前のアリの話だ。

 ビンセントは再びアリの巣に目を落とした。


「サラさんは物知りですね。……お、こいつ水浸しなのに構わず、でっかいエサ運んでますよ。カーターみたいなやつだ」


 そのアリは、自身の何倍もの大きさの芋虫を運んでいた。水浸しの地面にも関わらず、泥をかき分けて力強く進んでいく。


「力持ちで細かい事気にしないもんなー」


 二人はしばし、肩を並べてアリの巣を眺めた。


「……おしっこはやめてください。塹壕に化学兵器を撃ちこんじゃ、可哀相だ。もっとも……それでも生き残るやつは生き残るでしょうけど」


「わかったよー、仕方がないなー」


 ビンセントは、自分の胸に手を当てた。リーチェ戦線で化学兵器がクレイシクによって初めて投入されたのは、一年前のこと。

 甚大な被害が発生したが、報復にエイプルも同様のガス弾を撃ち込んだので、おあいこだ。

 当初は催涙ガスが使われたが、やがてびらん性のガスが使われるようになり、被害は更に拡大した。

 防毒マスクは役に立たず、ゴム製の防護服すら侵食する。リーチェに雑草すら生えていないのはそのためだ。

 リーチェではそれほど大量には使われなかったが、オルス帝国とピネプル共和国の戦いでは何の躊躇もなく大量使用されているという。

 ビンセントが半身だけで済んだのは、運が良かったとしか言いようがない。どうやって助かったのか、今もわからない。

 気がつけば、いつの間にか尊大だったカーターに礼を言われ、以後彼はビンセントを『相棒』と呼ぶようになった。


「…………」


 そして、サラに言うつもりはないが、化学兵器もジョージ王の発明である。

 あまりの威力にジョージ王自身が恐れおののき、即座に解毒剤を開発したうえ、厳重に封印したという。

 それがなぜ、クレイシクによって使われたかは謎だ。

 ジョージの死は、エイプル軍にもその枷を外す結果となった。




「じゃあ、俺はこれで」


 立ち上がろうとするビンセントを、サラは引っ張って止めた。


「どうしました?」


「しーっ」


 口の前で人差し指を立てる。ビンセントは真剣な顔つきに変わり、しゃがんだ姿勢で動きを止めた。

 廊下から声が聞こえる。窓が開いているのだ。


「こんな所に呼び出して、何の御用かしら? エリック」


 マーガレットの声だ。エリックと話している。


「話を始める前に……」


「……ありがと」


 サラが首を傾げた。

 何をしていたのか、ここからは見えない。

 しばらくして、エリックは話を続ける。


「マーガレット。俺とお前の婚約は無かったことにする」


「えっ……?」


 サラとビンセントは目を見開いた。思わず目が合う。


「聞こえなかったか? 婚約は破棄する」


「…………理由を聞いても、良いかしら」


「お前のためだ」


 状況が飲み込めない。この二人が婚約など、初耳である。また、そんな間柄にも見えなかった。 


「もともと家の都合で、俺たちの意思と無関係に決められた話だろう」


「……そうですわね。あまり意識しなかったし、知っている人もいませんわ。あのイザベラですらね」


「俺もお前も、もっと自由に生きるべきだ。誰しも人を愛する自由があるんだからな」


「確かにそうね。わたくしも恋愛と結婚は別、と思っていたけど……あなたの言う事、間違っていませんわ」


 しばしの沈黙。


「幸せになってくれ。じゃあな」


 エリックの足音が遠ざかる。


「…………」


「…………」


 サラとビンセントは目配せする。

『まだだ。まだそこにいる! 動くな!』と目だけで通じ合う。

 えらい所に出くわしたものである。お陰で動くこともできない。


 息を殺す。深く、静かに。


 一秒が一分にも感じる緊迫感。


「そこのアリさんたち」


「チー、チー」


 サラが歯の間から音を出す。マーガレットは構わず続けた。


「わたくしに変な同情など不要ですわ。もともとこの縁談は乗り気じゃなかったんですの」


「…………」


 額から汗が流れる。

 サラは、歯の間から音を出し続けていた。


「なにせ、エリックは本当に酷い女ったらしですもの。酷いんですのよ? わたくしの家のメイドと、わたくしが留学中にねんごろになっていたりね。もちろんクビにしましたわ」


「マ……マイラさんですか?」


 カスタネに来て、すぐに入った食堂でぶつかった女性が、確かそんな名前だったはずだ。

 やけに荒れていたが、このためだったようだ。


「ご存知でしたの? どこで聞いたのかしら。とにかく、この事は内密にお願いね。恥ですもの。では、ごきげんよう」


 マーガレットの足音が遠ざかって行く。

 サラは、いまだに歯の間から音を出している。


「チー、チー」


「サラさん、アリは鳴きません……」


「とんでもない所に出くわしてしまったなー。わたしだって、貴族の娘が男から一方的に婚約破棄されるのに出くわすなんて、初めてだぞー? 歴史的瞬間だなー!」


 何やら興奮しているようだが、表情それ自体はほとんど変化がない。

 僅かに頬が紅潮しているだけだ。


「何だかんだで、サラさんも女の子ですね」


「子供扱いしおってー。不敬罪だぞー」


 サラは口を尖らせ、そっぽを向いてしまった。


「……王族専用じゃなかったのかよー」

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