第56話 弾道交差点

「宿のあてがあるなら早く言ってください。四軒も回ってしまいましたよ」


「ご、……ごめんなさい……その、だって……」


 膝を抱えるイザベラは、俯いて目を合わせない。

 王立学院の保養所は、少なくともカスタネで一番高いホテルと同等か、あるいはそれ以上の規模である。


「学生さんにこんなもんいるのかねェ?」


 カーターが呆れたように頭の後ろで手を組んだ。


「どっちにしろ、ここがダメなら俺達は野宿だ。せめて二人だけでも泊まれればいいけど……」


 杞憂であった。

 基本的には王立学院の学生、すなわち貴族が使う施設である。

 当然、お付きの使用人のことが考慮されているのだ。


 白髪の禿げあがった管理人は、鍵を持ってビンセント達を三階の部屋に案内する。


「こちらの部屋をお使いください、チェンバレン様。使用人の方は、隣の控室を使ってくださいね。殺風景な部屋で申し訳ございませんが」


 管理人はイザベラに深々と頭を下げる。


 ◇ ◇ ◇


 部屋割りはビンセントとカーター、サラで一室。イザベラが一室だ。

 控室は基本的に、いかにもな使用人の部屋であり設備等は最低限。

 部屋には簡素なベッドが三つ。キャビネットにはカスタネの簡単な絵地図が置いてある。

 この部屋は西側にあり、晴れていれば西日が入るだろう。しかし、空は今にも雨が降りだしそうだ。


「ううぅ~ん……だめだー」


 サラは顔を真赤にして腕立て伏せをしようとしたが、結局一度もできなかった。

 座り込んで呼吸を整えている。


「カーターは、なんでそんなにホイホイできるんだよー」


「徐々に慣らしていけば良いんスよ! 無理は禁物っす!」


 カーターは毎分五十回もの腕立て伏せが行えるらしい。ビンセントにはとても無理だ。


「カスタネといえば温泉だ! 温泉は良いぞ~! 筋肉の成長にも良いし、傷の治りを早めてくれるッ!」


 ビンセントは荷物を確認したが、換えの下着がない。

 取りに行く事を言うと、カーターは目を細めた。


「ぼーっとするなよ、まあ今日は仕方ないか。オレは先に土産屋でも覗くかな」


「わたしも行くー」


 カーターはタオルを肩に、ドアに手を掛けると、こちらを見ないままポツリと言った。


「相棒、過去は過去だ」


「俺が気にしているとでも言いたいのか?」


「気にしていないようには見えないぜ。筋肉の微妙な動きとか、そういうのでわかるんだ」


 ビンセントの胸がざわつく。

 カーターはこちらに向き直り、ボディビルのフロントなんとかというポーズをとる。


「まぁ、ウソなんだけどな!」


 カーターは親指を立ててニコリと笑う。磨き上げられた歯が光った。


「大切なのは、今! そして未来だ! ハッハッハ! トゥ!」


 カーターはでんぐり返ししながら出て行き、サラはその後をトコトコと付いていく。

 ポージングにもでんぐり返しにも意味は全くない。場を和ませるための彼なりの気遣いだ。


「……俺に、未来があるとでも?」


 それでも、多少は気分が軽くなる。

 もっと食え、だの筋トレしろ、だの、そういった脳筋な発言も、時に理にかなっていたりするものだ。


「……腹筋でもするか」


 しばらくの間、ビンセントは腹筋運動をしてみた。


 ◇ ◇ ◇


 ロビーには先ほどの管理人が座る受付カウンターと売店のほか、食堂も併設され、食事のほか酒類も供される。


 でかでかと目立つ大浴場への入り口は、楕円の上に縦の波線を三本置いたシンボルマークの『のれん』。

 この温泉を表すマークは三十年ほど前から使われるようになり、現在では世界中で使われている。 


 とはいえ大浴場と食堂は貴族専用となっており、お付きの使用人は地下のボイラー室隣の浴場と食堂を使うことになっていた。

 そのことは管理人から厳に注意されている。

 

 ビンセントは馬車から下着を取り出す。

 ロビーに戻ると、そこにはイザベラが立っていた。


「あ、あのねブルース……」


 顔を伏がちにして、上目遣いでビンセントにちらちらと視線を向ける。


「どうしたんですか、イザベラさん」


 極力いつも通りに振舞うように心がけるものの、どうにも嫌な予感がする。


「い……今まで黙っていたけど……その、私は……じつは……その……いわゆる……なんというか」


 どう転んでも良い話には思えなかった。

 こういう時、大体は嫌な話になるものだ。しかし、逃げたとしてもあまり良い結果にはならないだろう。


「さっきの殿方の話ですか?」


 言いにくい話題なら、こちらから話を振ったほうが良い。嫌な話なら早く済ませたいからだ。


「……う、うん……」


 予想通りである。


「素敵な方でしたね。ずいぶんと仲がよろしいようですが」


 気を付けてはいたつもりだ。しかし、どうしても語気が少し荒くなってしまう。

 イザベラは肩をすくめた。


「そ、……それなんだけど……」


 早くしろと言いたかったが、ビンセントはそれだけは誰にも言うまいと決めている。


 リーチェ時代、塹壕掘りをはじめ、あらゆる作業で毎日必ず怒鳴られた言葉が『早くしろ』である。

 決して手を抜いていた訳ではないし、全力で作業に当たった。しかし、根本的に人手が足りず、更に現状を無視したスケジュールが組まれているのだから遅れは当然であった。

 更にその後、鉄拳制裁がオプションで付く。


 最も嫌いな男と同じ台詞を言いたくはない。何があっても人に『早くしろ』と言わない事を誓った。


 しかし、これでは埒が明かない。この場に留まり続けるのも苦しくなってきた。


「俺の事はお気になさらず。ご自分の気持ちに素直になるのが一番ですよ。では」


「ま、待って! 私は、私は――」



 イザベラが言い淀んでいるうちに、宿の入り口ドアが開き、客が入ってきた。イザベラの目が丸くなる。


「……なんで……?」


 ビンセントが振り返ると、若い男女の二人連れである。


「……ドリル?」


 思わず口に出てしまい、思わず口をつむぐ。相手は貴族だ。


「何か言いまして?」


 女が怪訝な視線を向けてくる。


「いえ、何でもありません。失礼しました」


「人違いですわね。わたくしはドリルではありませんわ」


 聞こえていたようだ。しかし、名前だと思われたのは幸いである。

 彼女の髪は先に行くに従って細くなる縦ロールのパーマネントが当てられていた。

 刺さりそうだ! とは口が裂けても言えない。


 もう一人、男が穏やかに微笑みながら声をかけてくる。


「あれぇ? イザベラ、君も来てたのかい」


「ジェフリー、カスタネは交通の要衝。誰に遭っても不思議はありませんわ。あなたと会ったのも偶然ですもの。……お久しぶりね、イザベラ」


 二人ともイザベラの知り合いのようである。


 女の服装は鮮やかなパープルの、フリル付きのスカートにジャケット。

 たしか、中立国アリクアムの魔法女学院の制服だった気がする。

 デザインが可愛らしいので、エイプルでも人気があるのだ。

 妹が持っていたファッション雑誌に載っていたのを思い出した。


 男の方はビンセントと同年代だが、背は低く声は高め。

 王立学院の制服を着ているが、同じ服のフィッツジェラルドのような粗暴さは無い。ニコニコと穏やかな優男である。


「ジェフリーにマーガレット? どうしてここに……」


「私がいつ保養所に来ようと勝手ですわ。学院にまだ籍はありますもの」


 女は腕組みをしたままイザベラを睨みつける。


「お久しぶりね、イザベラ・チェンバレン」


 イザベラは女と男に交互に目をやる。

 何やら因縁がありそうな様子だ。 


「ど、どうして……」



「僕はジェフリー・ロッドフォード。彼女はマーガレット・ウィンターソンだよ。アリクアム留学から帰ったばかり。僕ら三人、王立学院の同期なんだ」


 マーガレット・ウィンターソン。ビンセントはこの名前をどこかで知っている。嫌な予感がした。


 困惑した様子のイザベラを横目に、男がニコニコとビンセントに右手を差し出した。

 恐る恐るビンセントはジェフリーの手を取る。貴族と握手など、通常はあり得ない。


「ブルース・ビンセント陸軍一等兵です……」


「よろしくね」


 ロッドフォードは力強く握り返してきた。


「…………」


 マーガレットが、ビンセントを覗き込んだ。

 栗色の巻き毛が揺れる。


「ま、当てつけはコイツでいいか……無害そうですものね」


「えっ」


「ねぇあなた。なんだか、とっても良い目をしていますわね」


「はあ、恐縮です……」


 先に何か気にかかることを言っていたが、そんな事を言われたのは初めてであった。ビンセントは息を呑む。

 胸は小さめだが、それはあくまでもイザベラと比べての話であり、スタイルは非常に良い。


「あとで、話さない?」


「はぁ」


 マーガレットはエメラルドのような吊り目がちの瞳を向けてくる。見るからに強気そうだ。


「おい、マーガレット」


 語気を荒げたイザベラが一歩踏み出し、何か言いかけた時であった。

 厄介な事は続くものである。


「ふぃ~、いい湯だったぜ」


 大浴場入り口からタオルで頭を拭きながら男が出てきた。


「……ああ? なんでみんな居るんだ?」


 混乱した様子のイザベラに追い打ちをかけるように、現れたのはエリック・フィッツジェラルドである。

 ビンセント達は彼と同じ宿に泊まってしまったのだ。

 ここは学院の保養所であるからして、少し考えればこうなることはわかりそうなものである。

 しかし、どうやらそこまで考えが回らなかったらしい。


 不愉快な思いをするのは避けられず、ビンセントはとっとと部屋に帰って飲めない酒を煽りたいとすら思っていた。


「あああああ! もう、何で!?」


 イザベラの叫びがロビーに響く。他の客の視線が集まった。

 彼女は順番にと三人に目をやると、不意にビンセントの手を掴んで駆け出した。


「ちょ、ちょっと待ってください!」


「いいから来て!」


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