第45話 人でなしの恋 その四
『お前の代わりなんて、いくらでもいるんだからな』
殴られながらも、ビンセントの脳裏にかつての上官の姿が浮かんだ。
吐き捨てるように上官は去っていく。
ビンセントは敬礼の姿勢を崩さず、それを見送る。
階級は少尉で、爵位は男爵。彼は典型的な地方の下級貴族だった。
部下からの評価は最悪だったが、彼の上官からの評価は上々で、同僚の評判も悪くない。
事実、現場指揮官としては決して劣った男ではなかった。
彼は中間管理職であり、自分より上の相手には腰が低いのは社会人として当然といえば当然だが、そのぶん下に怒鳴り散らす不安定な男であった。
上司と部下として、それなりに長い時間を過ごしたことで、こちらの人間性も相手はわかっている。
彼は、それを事あるごとに否定してくれた。
責任からくるストレスもあっただろう。
その点は同情する。
しかし、それを下に当たり散らすのは勘弁してほしかった。こちらには八つ当たりできる部下がいないのだ。
もっとも、仮にそんな事をしては大嫌いな彼の同類になってしまう。
◇ ◇ ◇
「お願い! ブルースを助けて!」
意識が一瞬飛んでいたらしい。
イザベラの叫びを聞いたビンセントは現実に帰る。
ビンセントは、イザベラの顔から思わず目を逸らせた。見ていられない。
虚ろな目で、ぐしゃぐしゃの顔で、涙をボロボロ流している。
なのに口元だけは歪んで『笑顔らしき何か』を作っていた。
媚びを売る表情だ。見ていて何やら無性に腹が立つ。
「あ~あ……」
しかし、イザベラにそんな表情をさせてしまったのは他ならぬビンセントである。
あとで謝るしかない。
――あとで、があればだが。
何よりも発言内容が問題だ。トマトス湖の一件を思い出す。
あの時ジャスミンは、自身の身を差し出してでも、ビンセントに恋人の安楽死を依頼した。
「そんな事……軽々しく言っちゃ、……さすがに駄目ですよ。……撤回してください」
肋骨が何本か折れているかもしれない。
喋るだけでも猛烈な激痛が走った。
「ううぅ……お願い……オルク……剣を収めてよォ……」
オルクはイザベラを見ると、満面の笑みを浮かべた。イザベラとは別の意味で嫌悪感を抑えられない、吐き気を催す狂気に満ちた笑顔だ。
「やっと気持ちが通じたんだね、イザベラ……!」
これはまずい。ビンセントは唇を噛む。
そもそも最初からビンセントにオルクとまともに戦うという選択肢は無かった。何をどう考えても勝ち目がない。
殺すだけなら本当に簡単なのに、だ。
ポケットの中の『奥の手』を使えば一発である。
死んだところで誰も悲しまないだろうが、相手はこのボルドックの領主である。
どうやら仕事はきっちりこなしているらしいので、逆にやりにくい。
それでも、どうにかして時間を稼がなければならない。
鉄拳制裁には慣れているので、ある程度ダメージを減らす術は心得ているものの、痛いものは痛い。
鎮痛剤があっても無痛にはならないのだ。
それでもそろそろ限界らしい。
状況は最悪な上、ビンセントのダメージも相当なものである。
回復魔法を宛にしているとはいえ、それが無ければ最短でも三カ月は入院、その後のリハビリテーションに半年は必要だろう。
腕を上げようとしてみる。しかし、右肩はすでに言う事をきかない。
左手は……どうにか動く。
「僕も君と同じ気持ちさ! 愛してるよ、イザベラ……」
油断かあるいは余裕か、背中ががら空きだ。
「待てよ……!」
ビンセントは左手を伸ばし、オルクの足首を掴む。
「邪魔だ!」
オルクの剣がビンセントの左腕を貫いた。
「ぐああぁ!」
言葉にならない叫びが響く。
「もう……もうやめてぇ……」
イザベラが泣き続ける。涙で顔もぐしゃぐしゃだ。
さすがに可哀相だ。このオルクという男は、女のほとにこんな顔をさせて何とも思わないのだろうか。
あるいは、むしろこういった表情にグッと来たりするのかもしれない。
「…………」
良い趣味だ。こんな状況でなければ語り明かしたい。
芝居や、路地裏で密かに営業している未成年者立ち入り禁止の映画館での上映作品なら、まだわからないではない。
しかし目の前の実際の人間が相手にそう思うようでは褒められた話ではない。異常である。
しかし、どちらにせよまだまだ時間を稼がなければならない。
――ここまでやって無駄になるのはもったいない。それこそ骨折り損だ。まだ負ける訳にはいかない。
思わず苦笑いしてしまう。
大陸戦争で果てしない死闘を続けているオルス帝国とピネプル共和国も、今のビンセントと同じように考えた。
そして、ひたすら、ひたすら、ひたすら、ひたすら前線に兵を投入し続け、歴史上類を見ない死体の山を築き上げたのだ。
……今もなお。
エイプル王国の被害など、両国に比べれば無いも同然だ。
「トラバース隊長……」
ビンセントの脳裏には、いつの間にかオルクを通してリーチェで自分の上官だった男の顔が浮かんでいた。
彼自身は砲撃で吹き飛び、もはや永遠に会うことは無い。ネチネチとした陰湿な仕返しすら、もはやできないのだ。
せめてオルクに嫌がらせをして邪魔してやる。そして、一秒でも時間を稼ぐ……。
ビンセントは口の中に未だ残る、砕かれた親知らずの破片を吹き付けた。
以前、イザベラを覗いて殴られた時に緩んでいたのだ。
虫歯があったので丁度よい。
破片はオルクの耳元をかすめた。
ちょうど吹き出物でもあったのだろう、小さな血豆を作る。
「…………」
オルクは耳に軽く触れると、ビンセントに向き直った。
無言でビンセントを踏みつける。何度も。何度も。何度も。
額には血管が浮かび、顔は真っ赤だ。相当効いたらしい。ひと泡吹かせてやったようで、胸がすっとする。
「効かないな! そんな蹴りは」
煽るように言ってみると、蹴りはますます激しくなった。
「ほざくな虫ケラッ!」
「効かないと言ってるだろ……こんなの……ただ痛いだけだ」
オルクはビンセントがどんな人間かなど知る由もないのだから、見た目で分かりやすいステータスでしか叩けない。
否定するべきビンセントの人格を知らないのだ。
長期に渡って共に過ごさなければならないのなら話は別だが、これでは効果も半減以下、大したことはない。
ただ、痛いだけ。
「小さいやつだ……哀れだな、子爵さんよ……」
ビンセントは思わず嘲笑した。急に目の前の男がちっぽけな存在に思えた。
ようは癇癪を起した子供を相手にするのと同じだ。
「……なっ、なんだその目は……!」
オルクの表情に困惑の色が浮かぶ。
「これで……気が……済んだかよ……?」
上官でもない、先任でもない、ぽっと出のオルクに何がわかる。何を否定できる。知らないものは壊せない。
「もうお終わりかよ……? 領主サマ」
言う事を聞かない右手で、どうにか剣を引き抜き、軽い音を立てて剣が転がる。
ビンセントはもう一度立ち上がった。
「何でだよ……たかが平民のくせに! なんで立ち上がるんだよ……!」
ビンセントはオルクを睨みつける。
「イザベラさんを返してもらう。良いな?」
甲冑ゴーレムの動きが鈍った。
オルクとダイレクトに連動しているので、動揺のほどが伺える。
その甲斐あってかどうやら間に合った。
間に合ったのだ。
ドアノブが爆音とともに砕け散る。
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