第44話 人でなしの恋 その三
イザベラは、いつかの会話を思い出していた。
雨が上がって、しばらく経った頃、馬車の荷台で。
カーターは御者席だった。
あの時、ビンセントは靴を脱ぎ、足をこすり合わせては溜息をついていた。
『どうした、水虫か?』
『はぁ、そうです』
『伝染ったら困る。あまり近付くなよ』
『……すいません』
ほんの軽口だった。いつもの、ほんの軽口のつもりだったのだ。
サラが手を伸ばしてビンセントの頭を撫でる。
『よしよしー、あんまり気にするなー。イザベラには悪気はなかったんだよー。許してやれよー』
『わかってます。気にしてはいません』
イザベラは急に不安になった。
たしかに口は悪かったかもしれないが、そこまで酷いことを言ったつもりはない。
『イザベラさんよぉ』
御者席のカーターが、こちらを見ないまま言った。
低く、ゆっくりとした……諭すような口調だった。
『一番困るのは、雨っすよ。頑丈なブーツなのに、どんどん水が染み込んできやがる。オレはまだマシっすけどね。リーチェの塹壕に、水虫に罹っていない兵隊なんて、いませんや』
『…………!』
『水虫なんざ、まだマシっすよ。つま先を――』
『カーター、やめろ』
珍しくビンセントが声を荒げた。
『俺は大丈夫だったんだ。日頃のケアの賜物だよ』
ビンセントは自分のブーツを掲げる。
顔が映るほど、ピカピカに磨かれていた。
ビンセントはイザベラに笑顔を向ける。
『さ、イザベラさんも靴を出してください。おしゃれは足元から、って言いますからね』
ビンセントは手を差し出した。右手にはブラシが握られている。
『さぁ』
『う……うん、頼む』
ビンセントは、慣れた手つきで靴を磨き始めた。
ものの数分で、顔が映るほどピカピカだ。
怒ってくれても、良かったのだ。
誰にでも触れられたくない話題はある。イザベラとて例外ではない。
ほんの一年前まで――
◇ ◇ ◇
バケツを叩くような音で、イザベラは現実に帰る。
「硬いな……!」
ビンセントは手近にあった燭台をゴーレムに叩き込んだが、効果は全くないようだ。
ゴーレムは生物ではないので、痛みも疲れも感じない。
ダメージを与え弱らせるという発想では倒せないのだ。おそらくライフルも効果は薄い。
通常、ゴーレムは大量生産が前提で、脆い石膏等で作られる。
高度な魔法使いであれば土塊から造ることも可能だというが、おそらくオルクにはできないはずだ。
マジックアイテムを使って一度に多数制御するのが普通で、動きも鈍く、単調。
そのため数次第で魔法無しでも戦えなくはない。
しかし、このゴーレムは鋼鉄で出来ている上に、完全にオルクの意のままに動く。
事実、掴みかかっては投げ飛ばされ、殴りかかっては拳から血を流していた。
どうにか立ち上がったビンセントの顎を甲冑ゴーレムが顎を殴りつけ、ふらついた所を蹴り上げた。身体が宙を舞って落ちる。
「ま……まだだ……!」
それでも呼吸を整えながら立ち上がる。
全身は小刻みに震え、まるで生まれたての子鹿のようだ。
オルクはスツールに掛けたまま頬杖をつく。
「しぶといやつだ」
「……慣れてますんで」
もう、何度目かもわからない。
立ち上がって血を吐き捨てると、悪態をついた。
「……眺めて楽しめば良いものを……お人形さんで遊ぶのは良いですがね、……大人になったら人に隠れて楽しむものですよ……そういう趣味は……」
お人形遊びとはよく言ったものだ。
イザベラはふと、王立学院を思い出す。
断片的な情報が次々と頭の中で組みあがっていく。彼は決して同級生や先輩には関わろうとはしなかった。後輩の下級貴族や平民としか関わらなかったのだ。
しかし、いつからかイザベラに絡むようになっていた。
それはいつからか。『修行』の効果が現れだした頃からだ。それ以前は見向きもしなかったくせに、だ。
「イザベラ、ちょっと待っててくれるかい? 今、邪魔者は追い出すから」
そう言ったオルクに、ビンセントは歪んだ笑みを向けた。
「まあ、俺も実を言うとお人形は嫌いじゃないんですけどね……俺を見下さないし、他の男と付き合わないし、不釣り合いに高い収入や身分を要求する事もない。でも子爵様、……残念ながらイザベラさんは人間です」
「よくもまあ、まだ減らず口を叩く元気があるものだ。なぜそこまでして立ち上がる?」
オルクは腕を組んだままビンセントに問いかけた。
「ふふふ……」
イザベラも気が付いた。
オルクが欲しいのは恋人ではなく、自分の望み通りに動くお人形。
彼の望む言葉を、望む行為を望みの時に与えてくれる存在だ。
残念ながら人間同士の付き合いではそんな事はありえないし、そんな女性も居ないだろう。哀れな男だ。
しかし哀れだろうがなんだろうが、オルクは明らかにビンセントよりも強い。
銃を持たない平民と魔法使いでは、勝負は火を見るより明らかだ。
仮に銃があったとして、領主を殺す訳には行かないだろう。
ビンセントの顔は青アザだらけで、血みどろの顔はあちこちが腫れ上がっており、もはや元の顔とは別人と言ってよい。
左目は特に酷く、腫れ上がったコブでほとんど隠れている。
イザベラは正視するに堪えられず、思わず目を伏せた。
――気絶でもしてくれれば、これから先を見られなくて済む。
口元の血を拭い、ビンセントは不敵な笑みを浮かべる。
「どんな辛くても……終わりが見えれば……耐えられるものですよ……」
終わり。終わりとは何だろうか。
嫌な想像が脳裏をよぎる。
――まさか?
「ほう……?」
甲冑ゴーレムがビンセントを殴り倒し、背中を踏みつける。
「ぐっ……」
オルクは壁に掛けられた剣を取ると、鞘から抜いた。鋼が鈍く光る。
「ならば望みを叶えてやる。お前は夫婦の寝室を血とガラス片で汚した罪を償わねばならない」
オルクがビンセントに近づいていく。本当に殺すつもりだ。
「や……やめて!」
イザベラはすぐにでもオルクに飛び掛かりたかった。しかし、身体は動いてくれない。
ふと、屋敷に来る前に馬車から見た光景を思い出す。
雨に濡れても、ビンセントは決して文句も不満も言わず、歩き続けた。
「あの時だって……」
あの時に雨具を渡さなかった事を後悔した。気分的にはあの時と似ている。
雨粒が理不尽な暴力に変わったというだけだ。
言ってくれれば雨具を渡した。座席を詰めて一緒に乗っても良かった。
しかしビンセントは何も言わない。言ってくれない。
それが、さも当たり前であるかのように。
「ごめん……なさい……」
ビンセントたちは平民の歩兵であるから、濡れ鼠、泥まみれで当たり前。
そんな風にイザベラが考えていると思われるのは嫌だった。
言い訳をしたかった。弁解させて欲しかった。死んでしまえばそれも叶わない。
涙が止まらない。
どうしてそこまで耐えるのか。
イザベラは必死に口を動かした。
「や……やめて! オルク! 殺さないで! ブルースを助けて! 私の事は好きにしていいから!」
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