第42話 人でなしの恋 その一

 しびれて、体が動かない。

 イザベラの視界に最初に映ったのは、ベッドの天蓋。ダブルサイズと思われる。

 壁際には交差されて掛けられた二本の剣と、古びたフルプレート・アーマー。


 そして、ベッドサイドのスツールに腰掛けるオルク。


「……わ、わらしを……ろうするつもりだ」


 私をどうするつもりだ、と言いたかったが、ろれつが回らない。涎が垂れていく。


「おはよう、イザベラ。ベッドは気に入ってもらえたかな? 本当はもっと君の寝顔を眺めていたかったんだけど」


 何やら訳の分からないことを言っている。

 オルクは立ち上がり、ベッドに腰を下ろした。高級ベッドはきしむ音もない。


 イザベラはオルクを睨みつける。自由に動くのは目だけだった。

 オルクの手が、イザベラの髪を撫でた。悪寒が走る。


「綺麗な髪だね。まるで天使みたいだ。柔らかくて、艶やかで」


 そのまま鼻先に持っていき、目を閉じて息を吸い込んだ。


「……いい匂いだ」


 イザベラの胃から、酸味のある液体が上がってくる感覚。本当に気持ち悪かった。


「あんな別れ方は、僕としても不本意だったんだ。あの時の事、許してくれる?」


「……?」


 オルクと最後に会ったのは、おそらく王立学院の最後の授業があった日。

 おそらくというのは、イザベラ自身は全く覚えていないからだ。

 視界の隅でチラチラと動いていたような気はする。別れ方も何も、会話すらしていない。


「ん……? 綺麗な顔が汚れているよ」


 オルクはイザベラの頬に伝う涎に気付くと指先で拭い、そのまま指を舐めた。

 全身に鳥肌が立つ。


 ――気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い!


「や……やめろ……こんなことをして、……ただで……済むと――」


「何も言わなくていい。僕らの間に、もう言葉なんていらないからね。ああ、でも声はいくら出しても大丈夫。この部屋は完全な防音で、誰にも邪魔はされないよ」


 オルクの手が、イザベラの顎をくい、と持ち合上げ、真っ直ぐに見つめてきた。


 ――嫌な予感がする。


「あ……う……」


 薬品の影響か、魔法陣を形成できない。

 魔法が使えない!

 やがてオルクは歪んだ笑みを浮かべ、顔を近づけてきた。


「ひっ!」


 不気味な粘着質の舌がイザベラの頬を撫で、唾液が糸を引く。

 全身に鳥肌が立つのがわかる。心の中は恐怖と嫌悪感で一杯だ。動かない身体に鞭打って、どうにか口を動かす。


「くっ……ころ……せ……!」


 ――気持ち悪い。気持ち悪い! 気持ち悪い!!

 ――嫌だ。嫌だ! 嫌だ!!

 ――誰か、誰か!誰か!!


 涙が流れ落ちた。




 ふと、瞼の裏に浮かんだのはサラの姿。

 イザベラを見て、驚き、そして悲しそうな、同時に蔑んだ表情を浮かべる。

 カーターの姿が現れ、両手でその目を塞ぐ。

 ――そうだ、それでいい。子供に見せられる光景ではない。

 ビンセントの姿。とても悲しそうな、死んだような目をして、闇の中へ歩いていく。

 振り返ってイザベラを見る。悲しそうでいて、それでいて一瞬だけ、ほんの一瞬だけその目に炎が宿る。そして、すぐにいつも通りの目に戻った。


 ――そうだ、ビンセントならば掘られても耐え抜くだろう。たぶん。




「……心まで……屈服させられると思うな……この外道が!」


 しかし身体は動かない。


「大丈夫だよ、夜は長いんだ」


 オルクの唇が三日月のように吊り上がる。


「もう喋れるってことは、薬が足りなかったかな」


 オルクは薬瓶を取り出すと、ハンカチに垂らす。


「まあいいや。こっちの薬もあるんだ。すごくエッチな気分になるよ」


「やめ――」


 有無を言わさずハンカチはイザベラの顔に押し付けられた。

 息を止める。吸い込まないように。

 三十秒……六十秒……


「吸い込めば楽しくなるのに」


 九十秒……

 そろそろ、限界だ。


 その時、窓ガラスが砕け、何かが寝室に転がり込んできた。


 窓の外に生えている木の枝から見て、おそらくここは三階だ。一体どうやって? しかし、そんな事はどうでもいい。

 今ので気を取られたのか、ハンカチが外れた。思い切り息を吸い込む。


「たすけて!」


 それだけ言うのが精一杯だ。

 そしてすぐにイザベラは悔いた。騎士たる自分が助けてとは何事だ。

 細かなガラスの破片をこぼしながら、震えながらフラフラと立ち上がった男は、ブルース・ビンセント。額から、いや体中が血まみれだ。

 イザベラの目に光が灯った。


「恋人同士の逢瀬の場に土足で乱入とは、非常識だな」


「ぐええっ……」


 返事の代わりに、ビンセントは口から血を吐いた。どれだけ無茶をやったのだろうか。

 ビンセントは倒れなかった。イザベラに向き直る。


「怪我は……ありませんか、イザベラさん……」


 ビンセントはニヤリと笑った。


「ここは夫婦の寝室だぞ? プライベートな場所なのだ。平民が、いや他人が入っていい場所ではない。出て行け」


「それは……困りますね……」


 本当に嫌だった。怖かった。誰かに助けてほしかった。

 自分自身が騎士であることも忘れて祈った。そして、助けに来てくれた。

 

 息を整えながらビンセントは続ける。血だらけの、震える指でイザベラを指差した。


「ほら、今……聞きましたか……? たすけて、って。……確かに言いましたよ……命令されましたからね、従う義務が……あります」


 厳密にいえばイザベラは王立学院から研修中、ビンセントは陸軍の所属である。

 指揮系統が異なるので必ずしも命令に従う必要はないのだが、その境界は現場レベルでは曖昧だ。

 だが、今はそんな事はどうでも良い。


 自分を助けに来たはずの男はすでにボロボロで、脚は震え、壁に身を預けてどうにか立っている有様だ。


「イザベラさん……帰りましょう……サラさんとカーターが待ってますよ……」


 ビンセントがイザベラに手を伸ばす。

 その手はガラスの破片で血まみれだ。イザベラはその手を掴もうとした。

 しかし、手はろくに動いてくれない。


「やむを得んな」


 オルクがパチンと指を鳴らすと、壁際に飾られたフルプレート・アーマーが動き出した。ゴーレムらしい。


「やれやれ、お人形遊びですか……」

 

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