第40話 雨にぬれても その二
雨は降り続く。
天気のせいもあって外出している人はあまりいないが、キャリッジを見た人は例外なく隠れるようにその場から離れていく。
ビンセントに対する態度からある程度想像は付いていたが、オルクは領主としてあまり快く思われてはいないようだ。
時々、雷鳴が轟いた。
オルクの屋敷は田園地帯の中にあり、周りは高い塀で囲まれている。
三階建ての屋敷は、独身のオルクと使用人が使うにはいささか広すぎるようで、部屋がかなり余っていた。
「すげぇ……」
廊下には、石像がずらりと並んでいる。筋肉質でありながらスマートで、それでいてバランスのとれた男性の裸身像だ。
意外にも博識なカーターが解説する。
「これは『バック・ダブルバイセップス』。こっちは『サイド・トライセップス』だ」
「へぇ。詳しいんだな」
ポーズに名前があるらしい。
「常識だぜ、相棒。お前も大会に出るなら『基本ポーズ』くらいは覚えておけ」
「何の大会だよ」
いずれも古代文明の遺跡から発掘された彫像にインスパイアされた物のように思える。
個人の屋敷に並べるにしては数が多く、さながら偶像の神殿を思わせた。
空き部屋だった使用人室にビンセントたちは通された。使用人室は半地下にあり、実質的に屋敷は四階建てとして使える。
目線の高さにある地面に、雨だれが跳ねていた。
必要最低限の家具があるだけで殺風景な部屋だが、ここにも石像が一つ置かれている。
「いや~、ひどい雨だったな」
タオルで頭を拭きながらカーターが言う。
「塹壕じゃないだけましさ。こうして建物に入れるとか最高だな」
言いながら、ビンセントもタオルで髪を拭く。
泥まみれで雨に打たれながら眠ったのでは、眠った内に入らない。
「ところで、なんでサラさんがいるんだ?」
カーターの疑問ももっともだ。使用人室はビンセントとカーターのほかに、なぜかサラもいる。
「あいつ、わたしの事に気が付かなかったからなー。ちょうど良いからイザベラのメイドって事にしたんだー。おまえらは護衛と荷物持ちだぞー」
「お姫様がメイドとか、こりゃあ最高の冗談だ!」
サラはワンピースの裾をちょこんとつまみ、お辞儀をする。
「イザベラ様のメイドのセーラです。お見知りおきを。『アブドミナル・アンド・サイ』には興味ありませんの。ごめんあそばせ」
カーターは腹を抱えて笑い出した。普段のサラとはまるで違う。
「ギャハハ! は、……腹が痛え! 相棒、何とか言ってくれ!」
「すまん、何が面白いかわからん」
仕方がないので話題を逸らす。
「オルク子爵……でしたっけ? 彼はどんな人物なんですか?」
カーターも笑うのをやめて真剣な顔になる。
「そう、それっすよ。イザベラさんの知り合いだそうですが」
サラは腕組みをして、足元に視線を移した。
「それなんだけどなー。あまり良い話は聞かないんだよなー」
オルクは一人でいることが多く、イザベラとはあまり話したことはないという。
しかし、何がきっかけかわからないが、一時期からよくイザベラに絡んでいた。
「イザベラは少しウザがってたみたいだけどなー」
エイブラハム・オルク子爵は王立学院で優秀な成績を残したものの、奇行が目立った。
「奇行?」
ビンセントが聞くと、サラは答えにくそうに答えた。
「……平民いじめ、だってさー」
同級生や先輩の貴族には腰が低いが、後輩や学院のスタッフにはやけに高圧的だったという。
それだけならまだわからないではない。基本的に貴族に対して平民が持つイメージはそういうものだ。
問題は、彼の在学中、王立学院の女学生や運営に携わる女性スタッフが何人も学校を辞めて去って行ったことにある。
「これは噂なんだけどなー。オルクに手籠めにされて泣いて逃げたって話なんだよなー」
ビンセントとカーターは息をのんだ。
「でも、そんな事してたら退学じゃないっすか?」
カーターの疑問はもっともだ。サラは溜息をついた。
「ボルドックは炭鉱地帯でなー。エイプル王国の国内需要の一割を賄ってたんだー」
石炭は重要な戦略物資である。
大陸戦争の勃発で需要は増大し、領主であるオルク家には莫大な利益がもたらされた。
「つまり、もしサカルマで借金を払えなかったら、ボルドックに送られていたわけか……」
「そういうことだなー」
ビンセントは背筋が寒くなった。サイラス・ハンゲイトが居てくれたからこそ、炭鉱送りにならずに済んだのだ。
イザベラも娼婦にならずに済んだ。これは非常に大きい。
とはいえ、請求金額自体がモーズリーの陰謀という説も捨てきれない。
「ワガママなガキに、金と権力を与えちまった、って事っすか……」
多少素行に問題があったところで、学校側も目を瞑ろうと考えたことも想像に難くない。
事実、オルクに直接被害に遭った者の声は上層部に届いていない。
この問題で最も厄介なところは、そういった事情をオルク本人が認識していた事である。
「ちょっと待ってください、そんな危険人物の世話になって、大丈夫なんですか?」
サラは眉間に皺を寄せる。
「お前がすぐ壊れるような馬車買うからこうなったんだぞー」
「す……すいません……」
返す言葉もない。
「まあ、オルクだって、伯爵令嬢でしかも近衛騎士を手籠めにしようとは思わないさー、あんまり心配するなー」
◇ ◇ ◇
「…………」
ビンセントは頭を抱えた。
ジャスミンがお礼に、とくれた本が理解できないのだ。
「あの、俺は女の子同士がキャッキャウフフしている作品のほうが好きなんですけど……たまにベロチューくらいの」
「軟弱な事言うんじゃねぇッ! 最後まで読みやがれ!」
「…………」
カーターは怒鳴り、サラは寝たふりをしている。
サラの読書命令は急ぎではない。空いた時間に適当に読めば良い、とのことだった。
しかしカーターがご丁寧にも本を油紙に包んで常にポケットに入れており、ビンセントに読破を強要したのである。
マーガレット・ウィンターソンという作家の『兄貴とオレの優雅なる日々』には、女性キャラクターが全く登場しない。
これではまるで妹の好きな……
ノックの音が響く。
「はいよッ!」
カーターが返事をすると、ドアが開いた。
ピュウ、とカーターの口笛が響く。
「……こいつぁ見違えたぜ! なあ、相棒?」
「あ、ああ……」
立っていたのはドレス姿のイザベラ。
ブルーグレイを基調にフリルで彩られ、肩と背中が大きく露出しているデザインだ。髪はアップにセットされ、羽飾りのついた髪留めを付けている。
そして、その過剰ともいえる華美さが違和感なく、完全に馴染んでいた。
「すっげーな! イザベラさん、まるで絵本のお姫様じゃねーか!」
「悪かったなー。ぶー」
対して本物のお姫様は、薄手のミニ丈ワンピースにサンダル履きという平民スタイル。お行儀悪く背中を丸めてあぐらをかいているため、パンツが露出している。
本物のお姫様を前に言うのだから、カーターとてなかなか太い神経といえよう。
まるでも何もイザベラとて伯爵令嬢であるから、お姫様といえばお姫様である。
「借り物だが、この手の服は最近着ていなくてな。変じゃないか? ……ビンセント」
なぜかビンセントを名指しする。
「いいえ、変どころか、すごく綺麗です」
素直に思ったままを言うと、なぜかイザベラは紅潮した。
「そ、そうか? 家に帰ればもっとたくさん――」
イザベラは言い淀むと、顔を伏せた。
「……いや。私は制服とジャージがあれば、じゅうぶんだ……」
服飾に多大な金をつぎ込むことを、華美で贅沢だと恥じているのだろうか。
しかし、金というのは持っているだけでは駄目なのだ。
金は経済の血液。血液が止まれば、国そのものが死んでしまう。
金を持っている者は使う義務がある。そうしなければ、庶民はますます困窮するばかりなのだ。
とはいえ、それは家で普段の生活をしていればこそ。
先の見えない旅の途中では、やはり節約が何よりも大切だ。
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