第36話 兄貴とオレの優雅なる日々

「あ、兄貴いーーーーッ!!」


 カーターの目からは、滝のように涙が流れていた。

 小説を読んで泣くなど、久しぶりだ。


 カーターは本を閉じる。少し、余韻に浸りたかった。

 熱中していたせいで、すっかり冷えたコーヒーに口をつける。なお、このコーヒーは本物の豆から淹れたものだ。


「これこそ、純愛ってやつだな! 胸がきゅんっ、となるぜ!」

 

 カーターの大胸筋がピクピクと震えた。

 緻密な情景描写は、おそらく実在の場所……もっと言えば、このトマトス湖をモデルにしているようだ。

 この近所でカーター自身が実際に見た風景がいくつも登場する。

 それに、女性作家らしい繊細な心理描写。『恋愛小説』としての出来は素晴らしいと、素直にカーターは思った。


「う~ん、でもわからねぇことがあるな。主人公は男だし、兄貴ってキャラも当然男。女が全然出て来ねぇのに、砂糖菓子みたいな甘いストーリー。……イザベラさん、わかります?」


 女性向けの作品は女性に意見を聞くのが良いだろう。

 カーターは窓辺に立つイザベラに視線を向けるが、返事はない。様子が変だ。


「イザベラさ……ちょ、ちょっと! ダメですって!」


 ブチブチと音を立て、カーテンが千切れかかっていた。

 金具の部分だけではなく、生地の部分も握力によって破れそうだ。


「ああーっ! すっげぇ高そうなのに! 金無いんすよ! オレら!」


 窓の外には、湖に浮かぶ一艘のボート。乗っているのはビンセントとジャスミンだ。

 何か気の利いたジョークでも言ったのか、ジャスミンは笑っている。とても楽しそうだ。

 ビンセントの顔は後ろ姿で見えない。


「カーター」


「は……ハヒッ?」


 カーターは、その時のイザベラの顔を忘れることはないだろう。

 その生涯を通して、失禁していないかと実際に股間を確認したのは初である。運良くトイレに行ったばかりで、無事であった。

 無敵のカーター・ボールドウィンが、初めて恐怖らしい恐怖を覚えたのだ。


「その本、面白くないだろう。散歩に行くぞ。来い」


 口調そのものは、いつもと変わりない。

 しかし、身にまとう雰囲気があまりにも禍々しい。黒い炎が見えそうだ。


「は……はい……」


 イザベラに手を引かれ、カーターは震えながらコテージを後にする。


 サラがただ一人、豆菓子を齧る音だけが響いていた。


「わたしの護衛はどうしたー、ばかものー」


 ◇ ◇ ◇


 イザベラはどっしりと湖畔のベンチに腰を降ろした。

 湖は、鏡のように波一つ無い。


「座れ」


 イザベラはバン、と乱暴にベンチを叩く。本人は優しく叩いているつもりらしい。


「は、はひ……」


 カーターは恐る恐る腰を降ろした。イザベラにちらりと視線を向ける。


「あわわ……」


 頭からすうっと血液が下がっていくのがわかる。

 恐ろしい。表情そのものは一見普段と変わらないが、相当におかんむりだ。

 それだけはわかる。

 わからない者がいたら、それはもう半ば人間を辞めているだろう。


 ……いや、あるいは。あの男なら気がつかないかもしれない。ジャスミンとボートに揺られるあの男なら。


「…………」


 しかし、それは本人が悪いわけではない。

 あんな地獄リーチェでいちいち他人の感情に目を向けていては、生きていられないからだ。

 休むことなく、常に浴びせられる悪意と敵意にもいつしか慣れ、どうしても他人の気持ちに鈍感になる。


 そうでなければ戦争などやっていられない。いちいち撃つ相手のことを考えていては、戦いにならないからだ。割り切るしか無い。

 特に輜重兵のカーターと違い、ビンセントは前線で戦う歩兵だ。カーターも何度か戦闘に参加しているが、ビンセントほどではない。


「何だ? そんな顔をして」


「な、何でもないッス!」


「もっと近づけ」


 カーターは背中に冷たいものを感じた。

 それでもどうにか距離を詰める。

 イザベラはフッと軽く溜息を付き、手に持った包みを開けた。

 中身はさっきの店で売っていた菓子だ。


「食べるか? 美味いぞ」


「ひっ……ひただきまふ……!」


 震える手で菓子を口に運ぶ。

 まるで味がしない。元々は砂糖たっぷりの菓子なのかもしれないが、甘みというものをまるで感じられない。

 何よりも、口の中がカラカラだ。こんな砂糖菓子を食べたら唾液がたくさん出るはずだ。にも関わらず口腔内の水分が急速に失われていく。


「美味いか?」


「は……はひ……」


 脂汗がさらに頬を伝う。


「そうか。もっと食え」


「んほぉ」


 イザベラはカーターの口に菓子を押し込んだ。

 なのに、彼女のものすごく鋭い視線は湖上のボートに向いたまま。


 ――助けてくれ。


 カーターの心の声は誰にも届かない。

 悲鳴を噛み殺す。

 わかっていた。だが、おそらくイザベラは無自覚だろう。


 ――これが、『ヤキモチ』と『当てつけ』だ。いや~、さすが相棒だぜ! イザベラさんも素直じゃねぇなぁ! 素直にならないと、ジャスミンさんに取られちまうぜ?


 ……などと本音を口に出したら、きっとカーターの体は火だるまにされてしまうだろう。

 イザベラは相当な意地っ張りだ。決して認めようとはしないはずである。


 ビンセントにとって戦場なれの弊害は他にもある。聴力の低下だ。

 先ほど読んだ本に大事なセリフを「えっ? 何だって?」と聞き返す場面があった。

 作中では男同士だが、男女に置き換えてもあまり問題ない構成である。

 例えビンセントに思いを寄せる人物が、蚊の鳴くような声で『好き』とか言っても耳には届かないだろう。


 日常生活に支障はないようだが、長年銃を使いすぎたせいでビンセントの聴力は悪化している。


 とことん色恋沙汰に向かない男である。ちんこ未使用は必然と言えよう。


「きれいな湖ね。こうしているとまるで、デートみたいじゃない?」


「そ、そうっすね! ハハハ……」


 イザベラが急に口調を変えた。


 ――相棒に見せつけようってか? 無意味っつーか、逆効果、逆効果! バカじゃねーの?


 と、普段のカーターなら言っていただろう。しかし、イザベラは間違いなく激怒する。山火事不可避だ。


 カーターが冷や汗を流していると、背後でがさりと茂みが揺れた。


 思わず振り返る。


 そこには――


 ◆ ◆ ◆


「……私のことは、あなたの好きにしていい。何でもするわ。どんな事でも、あなたの望み通りにする」


 揺れるボートの上。

 湖に波はない。揺れているのは漕手の動揺のためだ。


「きゃっ!」


「だ、大丈夫ですか?」


 ビンセントの胸に倒れ込んだジャスミンが濡れる瞳で見上げる。


「これだけお願いしても……ダメ? やっぱり、私じゃ、魅力ない……?」


 ビンセントは肩を落とした。


「いえ、そんな事は全くもってありませんが」


 さり気なく下半身のポジションを修正する。

 丈の長い上着で良かった。正直、今のセリフはグッと来た。

 しかし、そうも言っていられない。


「お願い……ブルース君……」


「……とにかく一度見せてください。一時の感情に流されては、取り返しが付きませんよ」


 ジャスミンは俯く。

 握りしめた拳に、幾つもの涙の雫が垂れた。


「……ごめんなさい」


 ボートを桟橋に付け、隣のコテージへ。

 こちらが本来、ジャスミンが使っている別荘だ。ビンセントたちが通されたのは客用である。

 造りは似たようなものだが、若干簡素化されている。やはり見栄があるらしい。


 二棟もあってどうするのだと思ったが、確かにプライバシーは保たれるだろう。

 リゾートで開放的な気分になれば、そういった配慮が必要になる事もある。らしい。

 ちんこは未使用である。


 ジャスミンと並んで二階の寝室へ。

 ドアノブに手をかける。


「……開けますよ」


 ジャスミンは頷く。

 ドアを開き、ビンセントは寝室へ入った。

 そのまま窓際にあるベッドに向かう。無駄にダブルサイズだ。

 自然の中で朝の光で目覚めるために、天蓋が無いモデルである。


「…………」


 ビンセントは息を呑んだ。

 傍らにジャスミンが立つ。


「……私……私……もう……!」

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