第29話 地上より永遠に その二

「…………ふぅ」


 イザベラは溜息をつく。

 初めての経験だったが、この開放感は悪くない。そうでも思わなければやっていられないのも事実である。


 闇市の屋台は見たこともない飲食物で溢れており、それは楽しいものだった。

 しかし、原価を抑えるためか、あらゆる物が『言葉通り水増し』されている。


「……ふん。ボッタクリね。衛兵どもに捕まるがいいわ」


 かつて、火薬の原料となる硝酸カリウムは便所の土から作られていた。


 貴族が銃を嫌うのはそのためだ。


 現在では結晶石の鉱山が発見され、そこから安定的に供給される。

 そのため便所の土で作られる方法は衰退していたが、当時の名残として便所以外で用を足すことは、身分を問わず禁忌とされていた。

 現在では水洗便所の普及が進み、ますますその意義は薄れている。


「はぁ……貴族の私が、こんな所で……」


 思わず溜息が漏れる。


 壁も、天井もない。

 貴族のすることではなかったが、周りには一切の人口建築物が存在しない原初の世界。

 貴族も平民も、敵も味方も、人も獣も、ここでは何の意味も為さない。


 この光景は人類の誕生以前からここにあり、いずれ人類が全て居なくなった後も、ここに残り続けるだろう。


 我々は何処から来たのか。

 我々とは何か。

 我々は何処へ行くのか。


 エイプル神話によれば、かつて人間は神に選ばれ、ここではない異世界から異界の門をくぐってこの世界に住み着いたという。

 神話には真実が隠されているというが、この問に答えなど無い。


 すべての人が、己自身の心で見つけなければならないのだ。


 万物流転と人は言う。


 変わらないものなど、何一つありはしない。この問の答えですら、例外ではない。


 しかし、それはあくまでも限られた生命しか持たない人間の尺度で見た、狭い世界でしかないのだ。


「…………」


 小鳥のさえずりが耳に心地よい。

 流れる風がある。緑の匂いがある。

 穏やかな木漏れ日が、世界を優しく包んでいた。

 全ては大自然の生み出した、完全なる世界。


 ここであらゆる生命は、生まれ、力の限り生き、そして死んでいく。

 ヒトもまた、大自然によって生み出された世界の一部なのだ。


 エサを咥えた親鳥が巣に降り立つと、雛たちは競い合ってピィ、ピィとひたすらにエサをねだる。

 一羽に与えると、親鳥は次のエサを探して飛び立った。

 親鳥は自分が食べるエサよりも、雛たちの分を優先する。

 ヒトも鳥も、そこにある愛は何ら変わる事はない。


 地面に目を落とすと、セミの死骸をアリが引き摺っていく。セミは地底で六年もの歳月を過ごし、地上に出た後の寿命はせいぜい二週間程度だという。


 ほんの、ほんの二週間。気を抜けば、あっという間に過ぎ去ってしまう一瞬だ。

 その一瞬の時のために、そのためだけに、彼らはひたすらに永い永い時を、一切の光が差さない暗闇の地底で、雌伏の時を過ごすのだ。


 短い夏の一時を、力の限り、生命の限り鳴き続け、生命を未来へと繋いでいく。

 死してなお、その屍はほかの生命の糧となり、また別の生命を活かしていく。


 これもまた、数多の錬金術師が求め続けた『永遠の生命』の一つの答えかもしれない。


 色鮮やかな蝶が、一足早く咲いたコスモスの花に止まった。しばし休んだ後、そよ風に揺れる花から、無限の大空へと飛び立っていく。


「……空が……蒼い……」


 イザベラの双眸は、木々の隙間から覗く青空に呑み込まれた。


 いつの日か、人類もいずれあの大空を駆ける日が来るかもしれない。

 それも、そう遠くない時に。

 そうすれば、今は見上げているあの雲を、逆に見下ろす日が来るだろう。


 雨だ、晴れだというのは所詮、地上の話にすぎない。雲の上は、常に晴れている。

 永遠の晴れが続くのだ。


 いや、永遠というのは語弊がある。


 大地に降り注いだ雨は、川となって流れ、海に至る。

 太陽の光で熱せられて水蒸気となり、やがて大空で雲となり、雨となって大地に還る。


 世界もまた、生きているのだ。人間など思いもよらない悠久の時を生きる、巨大な生命体だ。


 そして、そんな世界の力の源。空に輝く太陽も、離れて見れば無限の宇宙に輝く小さな小さな光の一つにすぎない。


 星もまた、生まれ、力の限り生き、そしていつか死んでいく。それが、幾度も幾度も繰り返されていく。

 この世の全てが終わりを迎えるその年、その日、その時まで。


 今やイザベラは世界であり、世界もまたイザベラである。全ては渾然一体に混じりあい、全てをひっくるめて一つの存在になっていた。


 時の流れだけが無情にも続いていく。


「ふぅ……私もまた、世界の一部なのね……」


 爽やかで、それでいて優しくも厳しい風が頬をそっと撫でると、イザベラの身体は少しだけ震えた。


 不意に、がさりと茂みが動く音がする。


 イザベラが顔を向けると、そこにはエイプルオークの子供が顔を覗かせていた。


「……なぁんだ。ビンセントが覗こうとしたのかと思ったわ」


 イザベラは慈しむような笑顔を向けた。

 動物の子供は、誰が見ても可愛いものだ。異論のある者はいないだろう。


「ぐるるるるる……」


「!?」


 そう、子供は可愛い。特に、自分自身がお腹を痛めて産んだ子供であれば、なおさらであろう。

 振り向けば、そこに立っていたのは身の丈三メートル以上はあろうかという巨大なエイプルオーク。どうやら母親らしい。

 立ち上がってこちらを見つめている。


「あっ……!」


 思わず口を抑える。ここで悲鳴を上げなかったのは正解だ。

 子供を守るために過剰なまでに攻撃的になっている。

 悲鳴を上げれば、躊躇なく殺しにかかってくるだろう。

 エイプルオークの強靭な皮膚は、魔法も効きにくい。


 弱肉強食。これが大自然の掟である。


 睨み合いが続いたが、不意に銃声が響いた。


「…………!」


 一発、二発、三発、四発、五発。


 驚いたのか、エイプルオークは親子ともども森の奥へと退散していく。

 命中はさせず、威嚇発砲だったようだ。


「大丈夫ですか! イザベラさん!」


 茂みをかき分けて駆け寄ってきたのはビンセントだ。小銃の銃口からはまだ煙が上がっている。


 ◆ ◆ ◆


 どうやら威嚇発砲が効いて、エイプルオークは逃げていったようだ。

 弾倉は空だが、次弾装填の必要は無いだろう。

 ビンセントはクリップで纏めた弾をポケットに戻した。


 茂みの奥に巨大な影が現れたときは、さすがに身の毛もよだつ思いだった。

 とはいえ、エイプルオークは絶滅が危惧される保護動物であり、殺さずに済むのならそれに越したことはない。

 

「あんなモノが出るとは、さすがに俺も思いませんでし――」


 ビンセントの視線はイザベラの秘密へ向かう。


 ……見えていた。何もかも。今、ビンセントは『全てを見通す神の目』を身に付けていた。


 ――全ては、この時のために。


 そう言っても過言ではない。人生のピークは不意に訪れた。


「あ、あの……お怪我は――」


 どうしても、視線を外すことができない。見てはいけないと思いつつも、まるでニカワで固められたように視線は固定されたままだ。


 ビンセントの鼻孔の奥からつん、と血の匂いが立ち込める。

 やがて、足元の地面に血の跡がポツリ、ポツリと浮かび上がった。


 イザベラは無言で立ち上がると、下着とスラックスを膝から戻し、ベルトを締めた。


「……………………無いわ」


 一切の表情を見せないイザベラは、ビンセントに向き直る。


「あなたは命の恩人です。ありがとうございました」


 棒読みというか、一切の感情を感じられない声だった。


 氷のような視線がビンセントに突き刺さる。

 背筋に冷たいものが走った。口の中がカラカラに乾いていく。


「ぜひお礼に、先祖代々伝わるチェンバレン家の家訓の言葉を受け取ってはいただけませんか? 私のパパも、お祖父様から言われて育った由緒ある至言です」


 額に脂汗が浮かんだ。返事をしなければ、危ない。何かが危ない。とにかく危ない。

 絞り出すようにして、ビンセントは何とか返事をする。


「……は……はい……」


 イザベラは大きく息を吸い込んだ。


「『それはそれ、これはこれ』だッ!!」


 イザベラの平手がビンセントの頬を強打すると、視界はたっぷり一回転半は回り、そのまま地面に激突する。

 受け身を取る余裕もなかった。


「う……うちの親父も……お……同じことを……」


 喋ると顎がぐらぐらする。親知らずが危ないかもしれない。


「うちのパパと貴様の父上は、じつに気が合いそうだな。死ね」


 イザベラは去っていく。

 ビンセントは、イザベラが置きっぱなしにした袋からティッシュを取り出すと、丸めて鼻に詰め込んだ。

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