第18話 来るべき日のために
「よし! 次はランニングだ!」
カーターは立ち上がるなり、そのまま玄関を飛び出す。
「行ってらっしゃ~い!」
サムとローラに見送られ、走り出す。
エドガーとグレンも付いてこようとするが、まだまだ無理だ。
「エドガー、グレン、今はまだ付いて来られなくても仕方がない! だがいつか俺に追いついてこい! 待っているぞ、ハッハッハ!」
子供たちとの時間も大切だが、トレーニングの時間を削るわけにはいかないのだ。一日の怠惰は三日のトレーニングで埋めなければならない。
「ちくしょ~、今に見てろ~!」
「ハッハッハ!」
フルメントムは王都のような都会とは異なり、自動車はほとんど走っていない。交通事故の概念が無いのだ。人々には車に気をつけるという習慣がない。
だから、たまに王都に出向くと事故に遭いやすい。
しかし、彼は違った。
「右よし! 左よし!」
交差点では律儀にも確認を怠らない。
カーターは、軍では車両の運転、物資の輸送全般を任務としている。いわばプロの運転手である。
彼は運転免許を誇りにしていた。
ほんの一昔前までは、概念すら存在しなかった自動車。
魔法使いの貴族すら持っていなかった、馬の要らない車。さらに馬車よりも速く、快適に、大量の人や物を運ぶのだ。
以前、友人で同期のブルース・ビンセントにこっそり運転を教えてやった時など、得意の絶頂だった。
そういえばブルースは今どこで何をしているのだろうか?
教会を出て畑を周り、商店街を横目に走ると、畑の向こうにブラシカ山脈が見える。
三千メートル級の連峰が続く山脈で、エイプル王国を南北に分断しており、真夏でも消えない万年雪が常に人々の暮らしを見下ろしている。
夏でもさほど暑くならないフルメントムは、トレーニングに最適の町だった。
畑が途切れ、森へ。森は空気は良いし、きれいな川も流れている。休憩にはもってこいだ。
適度な休憩は、食事、トレーニングと合わせて『三位一体』とカーターは呼んでいる。
川べりにしゃがむ。手で水をすくい、一口飲む。
「美味い!」
ブラシカ山脈の雪解け水が地面に染み込み、永い永い時をかけて湧き水となって上流から流れてくるらしい。
この水を瓶に詰めて、貴族に売っている者もいるという。わざわざ買い手がつくのだから、その質は折り紙付きだ。
しかし、あまり大量に飲むわけにはいかない。血中の塩分が不足してしまうからだ。
がさり、と後ろで何かが動く音。
カーターが振り向くと、そこには黒髪の少女が茂みから顔だけをだしている。
「おじさーん、ティッシュー」
「おじさんではない! この筋肉が見えないのか! ぬぅん」
カーターは大胸筋と腹直筋を強調するポーズをとる。真っ白な歯が陽の光を浴びて光った。
「無いのー?」
「無い! オレは生まれてこの方、小便した後に拭いたことはない!」
「ぶー。わたしにはちんこが無いんだぞー」
少女は口を尖らせる。しかし、なぜこんな所に女の子がいるのだろう。
ティッシュ・ペーパーは脱脂綿の代用品として開発され、防毒マスクのフィルターにも使われているが、使い勝手がよく
しばらくすると少女が茂みから出てきた。川で手を洗う。
「おじさーん、町は遠いのー?」
このあたりの子ではない。
本来白いはずの夏物ワンピースが妙に汚れているのが気になるが、大した問題ではないだろう。フルメントムは農業地帯、泥などいくらでもある。
「だからおじさんではない! お兄さんと呼べ! 失礼な子供だな! まあ、俺なら走って二十分とかからんぞ! だがお嬢ちゃんはどうかな!? 身体を鍛えれば、いつかそのくらいで行けるかもな!」
ハッハッハ、と笑うと、カーターは新たなポーズを取る。鍛え抜いた背筋も見て欲しかった。
「サラ様、一体誰と話しているのです」
再び茂みが揺れる。
出てきたのは亜麻色の髪を腰まで伸ばした若い女性だ。
泥で汚れてはいるが、服装は近衛騎士団の制服である。
近衛騎士がなぜここに? この少女の知り合いか?
カーターは直立不動の姿勢を取り、敬礼する。
「大変失礼いたしました! 近衛騎士様のお知り合いとは存ぜず、申し訳ありません!」
敬礼しながらも、さり気なく三角筋と上腕二頭筋を強調する。
――俺を見てくれッ!
声に出さずとも気持ちは通じるはずだ。
騎士は軽く答礼すると、静かな口調で言う。
「……少し聞きたいことがある」
◇ ◇ ◇
彼女の話は衝撃的なものだった。
「クーデター? 初耳です! ……ということは、あの女の子は!」
「サラ・エイプル王女殿下である。控えよ」
サラの名を告げると、カーターは飛び込むようにひれ伏した。
一介の兵士が王女に拝謁など、あり得ない。
「大変失礼いたしました! ご無礼、お許し下さい!」
「いいよー、ブルースなんて私がおしっこするの覗こうとしたんだからー」
怒りが湧いてくる。自分の君主を、それもこんな小さな子供を辱めるなど、度し難い暴挙だ。
「同じ名前の友人がおりますが、とんでもない奴ですな! 変態め! とっちめてやりましょう!」
上腕二頭筋をパンプ・アップさせる。
「どこの誰です! その不届き者はッ!」
サラは黙って森の奥を指差す。そこにいるらしい。
「ぬおおお!」
カーターは駆け出し、茂みに飛び込む。同じ名前の友人を貶められた気分だ。
しかし、そこに居たのは見知った顔だった。市場で売れ残ったサバのような目は、忘れようがない。
「……何でお前がここにいるのだ!? ブルース・ビンセント!」
「お前が暑苦しいからだよ。カーター・ボールドウィン」
ビンセントが小銃の銃口を上げた。
「河原は涼しくて良いね。お前が居ても、それほど暑苦しくない」
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