第三章 さよならフルメントム

第17話 力への意志

 蛇口の水を止める。パッキンが劣化しているのか、ポタポタと水が漏れた。


 エミリー・ホイットマンは食器を洗い終えると、溜息をついた。

 水仕事が多いので、その手は荒れている。ハンドクリームが欲しい。しかし、そうそう買えるものではない。


 今はまだ良い。冬になれば、比喩でなく切れてしまう。エイプルの冬は厳しい。

 雪の多さもさることながら、気温が零度を越えると人々は『今日は暖かいね』というのがお決まりの挨拶だ。

 だから、夏の焼け付く日差しが嫌いなエイプル人は少ない。


 鼻の頭のそばかすを小指でちょいと撫でるのが、彼女の癖だった。


「よーし、エドガー、グレン、サム、かかって来ーい! フハハハ!」


 厨房横のホールでは、王都から休暇で帰ってきた兄が、弟たちの相手をしてくれている。

 みな、小さな子供だ。久々に兄が相手をしてくれるので、大喜びだ。

 兄からもっと王都の話を聞きたかった。この畑しかないフルメントムの町と違って、きっと楽しいことに満ち溢れていることだろう。

 我慢はどうしても必要だ。お姉ちゃんなんだから。


「うわ~ん!」


 妹のローラが泣き叫ぶ。いつもの事だ。

 きょうだい……とはいっても、本当のきょうだいではない。

 フルメントム教会では、親を亡くしたり、様々な事情から親と暮らせなくなったりした子供たちを引き取って育てている。エミリーもその一人だった。


 今、孤児院にいる子供たちはエミリーの他にエドガー、グレン、サム、ローラ。

 バートン神父が教会の責任者だが、大陸戦争の勃発で従軍神父として今は戦地にいるため、エミリーが最年長、実質的な責任者だ。


 そのエミリーも、寄付だけでは賄えない教会の財政事情からアルバイトに出ている。

 弟たちはやんちゃ坊主ばかりで、気の休まる暇がない。

 教会を出て軍に入った兄、カーター・ボールドウィンが休暇で帰ってきてくれる時が、唯一の楽しみだった。

 カーターは王都の部隊に配属されている。

 華やかな王都の華やかな日常は、さぞ刺激に満ちた事だろう。

 こんな何もない田舎と違って。


 ◇ ◇ ◇


「兄さん! せっかくの休暇なのにトレーニング?」


 カーター・ボールドウィン一等兵は、エミリーが話しかけても腹筋運動を止めることはない。濃緑色のタンクトップは既に汗で色が変わっている。


「ハァ、ハァ……ああ、エミリーか! ハァ、ハァ……体力はあって邪魔になるものじゃないからな! ハァ、ハァ……日課なんだ!」


 エミリーは呆れ顔だが、カーターの言うことも正論なので頭から否定はできない。

 兄は軍人だ。それも、現場で汗を流す輜重兵しちょうへい。輸送全般を任務とする。大きなものでは戦車から、小さなものでは鉛筆まで。

 補給は軍の生命線。すべての活動の根本だ。体力は確かに基本だ。


「でも……せっかく里帰りしたのに」


 だが限度があるのではないか? これではまるで筋肉マニアだ。言っても無駄だが、一応言ってみる。


「力と、筋肉そのものの美しさは、関係ないんじゃないの?」


「いや、そんなことないよ?」


 独自の理論があるらしいが、それはエミリーの理解を越えている。

 プルプルと震える腹筋を一瞥すると、エミリーはカーターの所に来た用を思い出した。


「兄さん、いつもありがとう。夕飯に食べたい物ある?」


「ハァ、ハァ……鶏の胸肉! ……もしくは豚のヒレ肉!」


「わかったわ」


 エミリーは客間の扉を閉めた。


 フルメントムの町は、王都から馬車で丸一日ほど離れた田舎町だ。

 一面の畑の中に線路が走り、駅の周辺には小さな商店街がある程度の小さな町で、町の片隅に、小さな教会がぽつんとあった。

 この教会の孤児院で、エミリーとカーターは育った。


 いつも、助け合って。

 やんちゃ坊主だったカーターが、崖から転がり落ちた時もある。

 周りの大人たちには散々怒られたが、それには理由があった。

 少女漫画の影響だ。花占いをしてみたい、そう言ったエミリーのために、崖に咲いたマーガレットの花を摘もうとしていたのだ。

 誰よりも優しい兄だった。


 教会は寄付だけでは運営は厳しく、年長の子に小さな子の世話を任せ、エミリーは町の飲食店でアルバイトをしていた。

 多くの子供達が巣立っていったが、カーターは今でも律儀に毎月給料の大半を届けに来ている。

 カーターからの仕送りは、かなり大きな助けになっていた。


「せっかく兄さんが来てくれたんだもの。兄さんの好きな物、張り切って作らなきゃ!」


 歩きながら気付く。鶏の胸肉も、豚のヒレ肉も、食材であって料理ではない。好物というよりは、トレーニングの効率を考えた注文のように思われた。

 タンパク質最高!


「バカよね、兄さんも」


 エミリーは、独り言ちながら納屋の方を見た。

 コンクリートブロックを積んで作られた、無骨な小屋が納屋に増築されている。

 カーターが休暇の度に訪れて、少しずつ作ったものだ。

 半年前に、やっと完成した風呂だった。


 エミリーや子供たちも、カーターを手伝うのが楽しみだった。泥まみれ、セメントまみれになりながらも、それは幸せな時間だったのだ。

 子供たちがエミリーに駆け寄る。


「エミリー姉ちゃ~ん、買い物?」


 とエドガー。元気な十一歳の男の子。


「僕も行きた~い!」


 こちらはグレン。賢い十歳の男の子。


「だめだよ、迷子になるだろ~?」


 サムも八歳。お兄ちゃんぶりたいお年頃。


「うわ~ん!」


 ローラは泣いてばかりの四歳、女の子。

 エミリーとカーター、それに四人の子供たちは、本当のきょうだいと同じ、いやそれ以上の絆で結ばれていた。


「カーター兄さんが色々お土産買ってきてくれたのよ。みんな、楽しみにね」


「わ~い!」


 何気ない一日。平和な日々。

 フルメントムは確かに平和だ。山を挟んだリーチェではカーターを含め、何万もの兵隊さんが敵軍を食い止めているのだから。

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