第4話 機械じかけの魔法使い その一

 泥。泥。泥。


 右を見ても、左を見ても、泥の壁。

 息を吸い込むと、匂いが鼻につく。


 泥だけではない。血、硝煙、人いきれ、油、石炭、生ゴミや糞尿まで、あらゆる匂いが混じり合い、形容しがたい異臭となって吐き気がする。


 鉛色の空は実際以上に狭く、暗く見えた。


 砲弾に怯え、毒ガスに怯え、雨に苛立ち、来る日も来る日も塹壕掘り。

 泥の壁に背中を預け、幾人もの兵士たちが肩を落とし、膝を抱えてうずくまっている。

 ビンセントもその中の一人だった。


「うう……疲れた」


 何気なく、誰かが捨てたらしいカストリ雑誌を手に取った。労働者階級向けの低俗な読み物だ。


 誌名は『週刊エイプル』。なお、この手の雑誌の常として、週刊と言いつつ続刊が出る保証はない。

 ただでさえ紙質が悪いのに、雨にさらされてボロボロになっている。

 表紙をめくると、どうやら中までは水が染みていないらしい。


 そこに写っていたのは、王宮を守護する近衛騎士団のグラビア。

 ページをめくると、王立学院から近衛騎士団に入る予定の、研修生のパレードの様子が伝えられている。


「お……?」


 彼女らは、一応まだ王立学院の学生だ。

 歴史ある教育機関で様々なコースがあり、その中には軍の士官を養成する学科もある。希望すれば、成績優秀者は近衛騎士団に入ることができるそうだ。


 もうすぐ新年度、夏休みという事もあり、もう授業も無いのだろう。

 卒業式が終われば、彼女らは正式に配属となる。


 しかし、何にせよビンセントには関係のない話だ。

 今年卒業という事は同い年のはずだが、どうしてここまでの差があるのだろうか。


 ポニーテールの美女が目に留まった。強い意志を湛えた瞳と豊かな胸がビンセントの好みである。


 彼女が入る近衛騎士団、本来の任務は王宮と王族の守護だ。

 しかし、広報機関としての側面を持ち、政策ポスターのモデル常連である。

 貴族の美男美女を集めて編成されており、国民の人気は高い。


 有名デザイナーの手による煌びやかな制服も人気の秘訣だ。

 写真では色がわからないが、王都で一度実物を見たことがある。鮮やかなブルーが印象的だった。


 かたや、ビンセントたち陸軍はどうにも野暮ったい。

 鉄帽に、折襟のジャケットはドブネズミのようなアッシュグレー。

 ろくに洗濯もできず、泥だらけの上に異臭を放っている。


「一度くらい、こんな人とお茶したいよなぁ……」


 ビンセントが思わず呟くと、隣の兵士が自嘲気味に笑った。独り言だったが、律儀に応えてくれる。少し恥ずかしかった。


「へへっ、未来の近衛騎士サマが、俺たちみたいなドブネズミとか?」


 男は鉄帽を目深に被り、目元は伺えない。しかし、口許は笑っている。


「……いいだろ、夢くらい語っても」


 ビンセントは再び雑誌に目を落とす。


「別に悪いとは言わねぇ。しょせん、夢さ。……おいビンセント、お前さんこういう女が好みかい?」


「初恋の人に、ちょっと雰囲気が似ていてな」


 ビンセントは遠い目をしたつもりだが、目の前は泥の壁だ。それに、彼女はもう手の届かない所にいる。


「……初恋の人……ねえ。どうせどこかの資産家と結婚したか、貴族の妾にでも収まった、って所か?」


 ビンセントは頷く。全くもって、その通りだ。


「ご名答。きょうび、平民の兵隊と結婚する女なんて、……いないよ」


「男はどんどん死んで、女は余ってるはずなのに。何でかなぁ?」


「そりゃあ、誰だって即座に未亡人にゃなりたくないよ」


「そりゃそうか」


 男は手で卑猥な形を作る。


「――ふん。貴族や資産家はハーレム作ってパコパコ、俺らは泥にまみれてシコシコだ。一夫多妻だか何だか知らねぇが、お陰でこっちには一人も回って来ねえ。滅んじまえよ、こんな国」


 ビンセントは雑誌のグラビアページを破り取った。

 このままでは雨に濡れて開くこともできなくなる。捨てた物と見なして良いだろう。


「まったく同感だね。滅んでしまえばいい。でも、王様が一番最初に滅んだんだから、これ以上言いようがない……さあて、今夜はこの子だな」


「オカズか。寂しい奴だ」


 男は、大げさに溜息を付いた。


「実際そうさ。彼氏の居ない独身女なんて見たことが無い。貴族でも資産家でもない俺が悪いんだよ。住んでいる世界が違う。そういうもんだ、と思えば腹も立たないさ」


 ビンセントは笑ったつもりだったが、本当に笑えていたかどうかはわからない。欺瞞である。無意識に唇を噛んだ。

 何よりも、全身のケロイド。普段は服に隠れているが、気の弱い女の子なら失神するかもしれない。

 自分で言うのも何だが、はっきり言ってグロい。とても見せられない。


「ちんこは勃つのにな! でもよ、国が滅んだらその未来の近衛騎士サマも敵の捕虜になって凌辱コースだぜ? それで『くっ、殺せ!』ってさ」


 ビンセントは、グラビアの彼女が敵兵に組み伏せられ、下卑た笑いを浮かべる男たちに囲まれる場面をイメージした。

 服は切り裂かれ、男好きのする豊かな肢体を衆目に晒し、目には涙を浮かべながらも毅然とした表情を崩さない。


「良いね……あ、いやいや、そりゃ困る。ただでさえ期待できない割当が減ってしまうよ。真面目に戦おう」


「よっ! さすが真の愛国者、ブルース・ビンセント一等兵!」


 そう言うと男はビンセントからページを奪い取った。


「返せよ、俺のだ」


「何言ってやがる! 元々この雑誌は俺のだっつーの! 彼女との出会いは運命だ、俺のほうが先に知ってたんだ! 俺は愛のために、彼女を守って戦うんだ!」


 男はページをポケットにしまい込む。

 あからさまな欺瞞である。格好悪い。

 しかし、そうやって自分自身を納得させなければ、とてもやっていられないのも事実だ。


「寂しい奴だ」


 思わず溜息が出る。


「お互い様だっつーの。ま、俺は他にも彼女いるし? 明日貸してやる」


「サンキュ、約束だ。でも、雑誌の切り抜きが彼女とかやめてくれ。虚しくなる」


「周りは男ばかりだ、仕方がない。今度の休みに娼館でも行くか?」


 ビンセントは無意識に胸の火傷に手を当てる。見せられない。気味悪がられたら、本当に死にたくなる。

 ただでさえ、放っておいても死にそうなのに。


「いや、俺はいい。金もないし」


「ふん、だからお前はちんこ未使用なんだよ。ビンセント、話は変わるが今度面白い映画が来るらしいぜ。映画、好きだろ」


 映画とは、写真をスクリーンに連続で写すことで、動きを再現する新しい娯楽だ。

 活動写真とも言う。

 弁士が台詞を説明してくれるのだが、将来は音声を同時に再生する『トーキー』が研究されているらしい。

 そうなれば、もっと盛り上がることだろう。

 最初の作品は、工場の出口から出てくる人を写すだけだったというが、それでもかなり盛り上がったという。

 やがてストーリー性のあるものが作られ始め、大流行していた。


「好きだねぇ、映画。現実よりもずっと夢があるからな」


 その男も映画好きだった。二人はしばらく、新作映画の話で盛り上がった。

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