第二部 その男は王様になった。三十年後、死んだ目をした兵士は塹壕で泥をすする。
第一章 黄昏のリーチェ
第2話 ありふれた日々
「なんだその目は!」
いきなりの鉄拳制裁。
エイプル王国陸軍のブルース・ビンセント一等兵は泥の中に顔から倒れ込んだ。
口の中に泥が入り、不快この上ない。
上官はさらにまくし立てる。
「立たんか!」
「この目は生まれつきでして……」
「黙れッ! 貴様のような奴が全員を危険に晒すのだ! 四年も軍に居てまだわからんか! このクソ野郎がッ! 早く死ねッ!」
所々声が裏返った怒号が耳に響く。
どこまでも続く泥の壁。上を見ても、狭い空は禍々しい有刺鉄線が邪魔をする。
戦闘になれば敵を撃たなければならないが、いつもイライラして、ちょっとした事で感情任せに怒鳴り散らす上官の方をむしろ撃ちたい、そう思っているのは彼だけではないだろう。
とにかく上官である貴族サマのご機嫌を損ねないように、細心の注意を払ってひたすら塹壕を掘っていたところだ。
ひどく疲れる作業だった。普通にやるよりも何倍も疲れる。魔法をちらつかせる相手には何も言えない。
「…………」
剣と魔法。
それは、かつては圧倒的な力の象徴であった。
貴族は炎や氷の魔法を使いこなし、有事には先陣を切って戦い、領土領民を守る。魔力を持たない平民は貴族に税を納め、それを支える。
魔法は応用により貴族の生活を便利で快適なものとした。様々な魔法文明の利器が開発され、貴族の生活に潤いと豊かさを与えた。
たとえば照明一つ取っても、平民は決して安くはないオイルランプやロウソクを節約しながら使うしかないが、魔法のランプはオイルランプの数倍の明るさで朝まで照らすことができる。
わずかな魔力で使えたが、魔力のない平民には全く使えなかった。
貴族と平民の格差は絶対であり、魔法は貴族の支配を正当付けた。
人々はそれを当然のものとして受け入れ、誰も疑問を挟まなかった。しかし、それも過去のこと。
立ち上がると再び鉄拳制裁。
「なんだ、その靴の泥は! 身だしなみもロクに出来んような奴が国を守れると思っているのか!」
「ハッ、申し訳ありません」
「言い訳をするんじゃないッ!」
「申し訳ありません」
こんな塹壕の中で何を言っているのか、と反論もしたくなる。だがそれは許されない。
結局、理由はどうでもいいのだ。
何か嫌なことがあって、怒鳴りたいから怒鳴る。殴りたいから殴る。
一見、正論っぽい理由を後から用意すればいい。
口の中に染み出す血は泥と混じり、栄養不足気味であってもやはり苦い。
「調子に乗るのもいい加減にしておけよ、許される事と許されない事があるんだからな。貴様一人のミスが全員を危険に晒すのだ、この恥さらしが!」
どうやら靴に泥が付いていると人が死ぬらしい。
一度言えばわかるのに、わざわざ同じ事を繰り返すのは、そろそろ理由付けのネタが切れたのだろうか。
「ったくお前は……人を怒らせる才能だけは大した物だ!」
「…………」
「返事はどうした!! オイ!!」
「ハッ、申し訳ございません」
上官はこれ見よがしに大きな音を立てて舌打ちする。
手のひらの上、五センチほどの空間に魔法陣を呼び出し、そこから小さな火の玉を作ると、地面に叩きつけた。これは警告だ。
戦場の秩序を破る者に制裁を加えるのは士官の役目である。
「クズが。お前の代わりなどいくらでもいるんだからな」
吐き捨てるように上官は去っていく。
ビンセントは敬礼の姿勢を崩さず、それを見送る。
怒りはある。憎しみもある。
しかしビンセントには、すでに反発する気力は失われていた。
とても――そう、彼はとても疲れていた。
彼だけではない。
上官も部下も、敵も味方も誰も彼もが、皆疲れていた。
疲れた心と身体に鞭打って、どうにかその日のノルマをこなす。
いつまでも同じ場所でダラダラと続くこの戦い、現場の疲弊は限界を既に超えていた。
◆ ◆ ◆
かつて、一人の男がどこからとなく現れた。
珍しい黒い髪と瞳の若い男だったという。
彼はジョージと名乗った。
彼の故郷と主張する国は、大陸はおろか全世界にも無かったし、過去にも存在した記録はない。
彼は最初、常識的な事も何もわからず奇行を繰り返したが、当時存在していた冒険者ギルドに加入するや、メキメキと頭角を現した。
僅か1カ月で最上級の冒険者へと上り詰めたという。
数多の依頼をこなし、ついに彼はその頃国を襲った『大災害』から王国を救い、更には時の王女を妻に娶り、このエイプルの国王となったのである。
彼の偉業はそれだけではない。
商人ギルド、職人ギルドを巻き込むと、魔力に依存しない機械を次々と発明した。
彼の発明は、一切の魔力を持たない平民でも問題なく使いこなすことができたのだ。
変化が訪れた。
最初はゆっくりと。だが、変化は加速し、急激な社会の変化が今も続いている。
科学文明の時代が訪れたのだ。
ギルドは解体、再編され、代わって企業が経済を支配した。
新たな社会の仕組みはごく短時間のうちに国境を越え、大陸中、いや世界中に広まった。
◇ ◇ ◇
休憩時間、ビンセントはしゃがみ込む。
「つつ……」
気圧の変化か、背中と胸の火傷の跡が疼く。
雨が降るかもしれない。
去年のもので傷自体は治っているが、季節の変わり目は特にひどい。
雨は程なく降り始めた。最初はぽつぽつと。だが、数分後には音を立てて降り始める。
「困ったな」
雨が好きだという人がいる。
雨音が胎児の頃に聞いた母親の心音と似ているから、心が落ち着くという話だ。
それなりに説得力はある。
だが、そう言えるのは安全な屋根と壁に囲まれた家の中で過ごせる人だけだろう。
雨は、焼けた大地に嫌がらせのように降り続け、足元をぬかるみに変える。
そう、一番困るのは雨だ。
頑丈なブーツも、どんどん水が染み込んでくる。極めて不快である。
靴の中で指を動かしてみると、ぬるり、と嫌な感触がする。そうとう臭そうだ。
いや、臭いだけならまだ良い。この間も爪先を切断した者を見た。
「ただの水虫だ、ただの……」
このリーチェの町は、かつてはのどかな田園地帯で、森と畑以外は二本の大きなモミの木が画家に人気だったくらいの、ごく普通の田舎町だった。
そこに隣国、クレイシク王国の軍勢が攻めてきたのは、この『大陸戦争』開戦から半年ほど経った時のこと。
攻めるクレイシク軍にエイプル軍は科学文明が生んだ新兵器『機関銃』で応戦し、これを退けた。
かつて、銃といえば魔法が使えない平民の武器で、威力は高いが命中が期待できない先込め式しかなかった。
防御魔法には通用せず、再装填に時間がかかるため魔法使いに対抗することはできない、というのが常識だった筈である。
ジョージ王は天才だった。彼自身は魔法を全く使えない流民だったというが、その知識と発想は卓越していた。
弾頭と火薬、雷管を金属のカートリッジに纏めた新型弾、それを後ろから込める後装式、銃身に螺旋状の溝を刻み、回転運動によって命中率を飛躍的に高めたライフルを次々と開発したのだ。
しまいには、それを機械仕掛けで連射する機構まで開発したのである。
我に出来ることは彼にも出来る。
クレイシク軍を退けたエイプル軍もまた、反攻に出れば今度は逆に敵の機関銃で死体の山ができてしまった。
犠牲者は最初の1カ月だけで、両軍合わせて二万人以上を数えた。
町は地獄へと様変わりし、塹壕が構築されて膠着状態が三年半に渡って続いている。
今は一軒の家もなく、森は焼かれ、一面の畑は全て砲弾に掘り返さた。
数少ない名物だったモミの木も、砲撃で吹き飛んで見る影もない。
ビンセントは再びスコップを手に取った。
ノルマは『絶対に』こなさなければならない。
できなければ、敵より恐ろしい上官の憂さ晴らしが待っている。
ビンセント一等兵は陸軍の歩兵だが、実際の戦闘はそう多くない。
交代までの時間、そのほとんどを土木工事に費やしていた。
穴を掘り、土嚢を積み、有刺鉄線と、時には地雷も敷設する。
工兵との境は極めて曖昧なのが現代の戦争らしい。
「……クソだな。敵も味方も……クソバカヤロウばっかりだ」
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