姉牛

 姉牛駅は山小屋を彷彿させる小さな駅だった。空が低い。もうすぐ雪が降るのかもしれない。真っ直ぐな細い道路。右を見ても左を見ても、遥か遠くで消えて見えなくなるまで伸びている。さすが北海道。その道路を渡った向こうに、黄色の平たい建物が横たわっている。

「あれ、なんだ」

「学校、かな」

 セッカは車の確認もせずに道路を渡って行った。俺は念のため左右を見渡してから後に続く。入口とおぼしき空間の左右には、たっぷりとした雪の塊がある。高さおよそ二メートル。

「なんだろ」

 丸みを帯びた表面の雪を掻き取る。垂れていた雪だが手に取るとさらっとしている。さくさくと掘っていくと、赤いレンガの壁に突き当たった。

「校門かなあ」

 どこまでが雪でどこからが校門本体なのかはわからないが。

「中見てくる!」

 セッカは言うなり、校庭を突っ切って校舎目がけて走っていった。

「冬休みだから開いてないだろ」

 セッカは無論俺の話なんか聞きはしない。膝ほどまで雪に沈んでいるようにも見えるが、セッカの速度は緩まない。

「速いなぁ」

 若者だな。俺は、ゆっくりと校庭の縁の雪のないところを選んで歩いていく。

「うぉっ」

 雪が固いだろうとあたりをつけたところが存外に沈んだ。背広のズボンにしたたかに雪が入り込む。

「あーもう、なんで俺スーツかな」

 三日間同じ服はやばい。というか誰にも断りもなしに家を明けるなんて、これじゃ行方不明みたいじゃないか。

「やれやれ」

 雪の深みから足を引き抜いて、裾を叩くと、ぱっと雪が舞う。

 やっとたどり着いた校舎の昇降口には、昇降口全体を覆う大きな三角屋根が地面から生えていた。

「これ、雪除けか?」

 この覆いがなければ、昇降口は雪に埋もれてしまうだろう。昇降口のガラスから中を覗いてみるが向こう側は真っ暗で何も見えない。闇とも違ううす澱んだ暗さ。冬の雪空のように重たげだ。その暗さも、俺の吐いた息ですぐ真白に曇る。

「おーいレイタ!」

「ぶはっ!」

 振り返った瞬間、目の前が霞んだ。横から薙ぐような衝撃で、俺の大事な眼鏡が飛んでいった。避ける間もなく白いつぶてが飛んで来る。

「こらぁぁぁ!」

「ぼーっとしているからだ!」

 声とともに、雪玉が俺の周囲を乱れ飛ぶ。

「タイムっ! 眼鏡が!」

「ははははは、間抜け顔!」

「…………」

 じっと目をこらしてみると、雪の上にもやもやと、何かが踊っているのが見えた。

「そこかぁ!」

 足先からいい加減に雪をすくって、もやもや生物目がけて跳ね上げてやる。

「うわぁ!」

「バカめ!」

 よし、敵機被弾!! ここで一気に攻め込む!!

「おらおら!」

「何度も当たるか!」

 ちょこまかと動くセッカ目がけて雪を投げる。息がはずむ。向こうからも容赦なく雪が降ってくるが、気にするものか!

 気配を感じた。近い!

「そこだ!」

「いた、冷た!」

 両手でかきこんだ雪を思いっきり首に押し込めてやった!

「何か入った!」

「何も入れてないって」

 セッカがぴょんぴょん跳びながら、背中に手を入れている。

「あー」

「ん」

「これ……」

 妙にしおらしげにセッカが差し出した手のひらをじーっと見つめる。ひょっとして。

「俺の……眼鏡……」

 受け取ってかけたみたが、弦のあたりの具合が悪い。

「曲がってんぞ、こら」

「わたしの背中に入ったんだぞ」

「なんで眼鏡が入るんだよ」

「レイタが入れたんだろ」

「入れてねぇって」

「じゃあ、眼鏡が勝手に空飛んで入ったっていうのかよ」

「そうだな」

「そうか」

「そうだ」

「勝手に飛んだっていうのか、ははっ」

「ふっ」

「はははははっバッカだなあ!」

「はははははは!」

 バカ笑いだ。雲に声が吸い込まれていく。


「あーあ面白かった」

「そりゃお前はな」

 粉をはたいたように白いコート、雪の入り込んだ革靴。雪合戦なんてスーツでやるもんじゃない。比べて、セッカにはちっとも雪がついていない。理不尽だ。

「こういうのが本物の雪なんだなあ」

 軽くて、さらりとして。東京でも生まれ故郷の仙台でも、けして見られない雪。

「ん……これでいいのか、本物の雪」

 セッカが俺の顔を覗き込む。

「充分だよ」

 東京よりも、新潟よりも、仙台よりも、小樽よりも。何よりも、雪らしい。

「な、レイタ」

 玄関の前に二人、並んで腰かける。

「好きな人って、いるか」

 想像もしなかった質問に心臓がびくっと跳ねた。

「いないなあ」

 だが、俺の口調はいたってのんびりとしたものだ。

「そっかー、いないかー」

 セッカの口調も間延びしている。その、当然、という態度にちょっと腹が立った。

「あ、だけどな、女子に告白されたことはある!」

 どうだ!

「じゃあ……なんでその女子のこと好きにならなかったんだよ」

 セッカが妙に俺を責める。

「あー、俺ら、子供のころはじいちゃんに面倒みてもらっててな。兄貴と、俺と、三つ下の従兄妹の深雪。三人で兄妹みたいに育った」

「きょーだい」

「そ、兄妹。あ、セッカ、何人兄弟?」

「一人っ子」

 そのわがままというか、マイペースな性格なら納得もいく。

「でさ、俺に告白してきたのは、その従姉妹の深雪……なんだけど。アイツの好きっていうのは、なんていうのか、恋愛じゃなくて思い込みなんだよ。ちっちゃい子供が「お父さんと結婚する!」って言ってるのを、大人になっても、ずーっと意固地で言い続けてるだけだ」

「ふぅん」

「でも、兄貴はいつの間にか、普通の女の子として深雪のことを好きになってたみたいだな」

「じゃー、レイタの兄ちゃんはミユキが好きでー、ミユキはレイタが好きでー、で、レイタは誰が好きだったのさ」

 それが俺の心を曇らせる一番の理由だった。人を好きになったことなんかない。せめて誰か好きな人がいれば、思い切りよく深雪を拒絶できたのだ。だけど、俺には恋愛感情というものが未だにわからない。それはある日空から落ちてきた星にぶつかるようなものだろうか。それとも、つぼみがふくらみ、ある日ほころぶようなものだろうか。

「……レイタは、一度も好きになった人、いないのか」

「生憎な」

 セッカが立ち上がった。そのまま俺の膝の上に、とん、と座る。不思議と猫のように軽い。首に手を回してくる。さらりと流れる髪の毛。目の前に彼女の淡い瞳。

「目をつぶれ、レイタ」

 あまりに顔が近く迫ってくるから、観念して目をつぶる。

「…………」

 唇に冷たい何かが触れた。ふわりとした感触。これ……キス、だよな? あれ……ファーストキスじゃないか!? 齢三十一年にして!

「今のは、お前がわたしのことを好きになるまじないだ」

 耳元でセッカが囁く。俺は、セッカのことが好きに……。

「これで、お前は心おきなく逝ける」

 しゃりん、と何か澄んだ金属の音がした。曇り空からの鈍い光と、雪の反射光を受けて美しく波打つそれは大型のナイフ。

「私は……人を、殺さなくちゃいけないんだ。そうしないと……」

「俺を殺すのか」

「ああ。それがお前の最後の願いでもあるだろう」

 そうか、だから、死にたいと口走った俺を誘ったのか。今までの不思議な道のりが、すとんと腑に落ちる。

「聞いてもいいか」

「なんだ」

「どうして、ここまで連れてきたんだ?」

 殺すのなら、多摩センターだって新潟だって良かったはずだ。なのに、どうして。

「わたしたちは、殺す……人間が、どんな人間なのかよく知り、祝福を与えなくてはいけないんだ」

 わたし、たち?

「お前みたいなのは、たくさんいるのか」

「たくさん、というわけではないが、まあ、いる」

「じゃあ、俺が死んでも、お前が困ることはないな?」

「どうしてそんなことを聞く」

「だっていくら田舎とはいえ、その……死体の処理とか、大変だろう」

 セッカが困ったように笑った。仲間がいるなら殺人のノウハウみたいなもあるだろう。警察に捕まらずに死体を処分する口伝のテクニックとか。


 俺は雪の壁に背を預けて座りなおした。俺にも血が流れているのなら、汚すのは雪だけでいい。

 セッカが俺の腹に跨る。いやらしい感じの姿勢。俺の肩に顔を埋めて、集中力を高めるように何かを呟いている。甘い香りがする。

 俺はそっと目をつむる。

「サトウレイタは死を願っている、死を……」

 そうだ、俺の最後の願いは、ここで死ぬこと。本物の雪は見た。あとは死ぬだけ。父や祖父より先に行くのは悪いな、とは思う。けれど、彼らの方が俺よりもずっとしっかりしている。事後を任せてなんら問題ない。

「レイタ」

 ひやりとした何かが頬を撫でた。多分あの刃物だ。どこを刺すのだろう。腹か。首か。胸か。不思議と恐怖は湧いてこない。自分の心の、あまりの平らかさに笑ってしまう。どこか他人事なんだ。自らの死でさえも。いや、むしろ自分の死だからこそ、平然としている。風の音もない。ただ、しぃんとした無音の世界。

「行くぞ」

 セッカの上半身が離れた。力を入れていなかった俺の手はだらしなく、だらりと垂れる。まもなく恒久的にそうなるはずだ。早く終わらせてくれ。

 …………。

 まだか。

 まだなのか。今、こうして考えている俺の意識は、ひょっとしたらもう肉体から離れているんじゃないのか。力を込めると、乾いた唇がぱりっと開いた。ずっと彼女が乗っている下半身が痺れてきた気がする。痺れたままで死ぬとか、ちょっと冴えない。

「……セッカ?」

 耐え切れずに声を出した。返事がない。人間を殺すんだろう。どうした。

「俺なら、大丈夫だから」

 大丈夫だから。怖くないから。お前を責めたり化けて出たりしないから。

「セッカ」

 目をそっと開く。そこにはナイフを握り締めたまま、震えているセッカがいた。

「レイタ……どうしよう……やっぱり……できない、できないんだ……」

 俺は……バカだ。自分が生きることから解放して貰えることで一杯になっていて、セッカのことをちっとも考えてなかった。

 何が、俺はもういつだってかまわない、だ。小さな娘が人間を殺す? そんなあっさりと、さらりと、サランラップを必要分綺麗にカットするように、うまくできるわけないじゃないか。俺なら、猫でさえ殺すのは無理だ。そういうことじゃないのか。バカだ。俺は本当に、バカだ。

「セッカ、いい、もういい」

 ナイフを握り締めた指を、一本、一本、解いていく。

「無理するな」

「でも」

 いきみすぎて、彼女の白い指に赤い斑紋が浮いている。

「なんでもうまく行くわけじゃあない、やり直すことだってできるさ」


「そうですね、やり直すことも、できますね」


 後ろから、落ち着いた少女の声がした。混じりけのない純度の高い金属のような声。振り返ると、豊かな髪をお下げにしたグレイのコートの少女。そう、有原で会った……。

「また会いましたね」

「妹、さん」

「ええ♪」

 急に濡れた服が冷たくなってきた。身体中にぞくっと寒気が走る。

「ごめんなさい、セッカちゃんは、はじめてなんです」

 さ、立って、と、小さく声をかけトウコはセッカの身体を無理に立たせる。やっと俺の腹が重みから解放された。ほえぇぇぇ、と情けない息が漏れる。ずいぶんと緊張していたんだ。ゆっくりと身体を引きずるように立ち上がる。足ががくがくと震えたのは、不自然な体勢を続けていたからか、それとも。

「レイタさん、私たちはやり直さなくちゃいけません。今度はセッカちゃん一人ではやらせません、私が責任を持って面倒をみます。だから」

 トウコが俺の手をしっかりと握った。温かい手だ。

「もう少し、お付き合いくださいね?」

「う……」

 真下から見つめられて俺の足元は一瞬ふらり、と揺らいだ。大きな塊に押されたような、特急列車が間近で通過していったかのような威圧感。そうだ、このトウコという子から発せられている強い強いオーラ。けして人に有無を言わせない。

 どうしたらいい。足がすくむ。このまま一緒に付き合ったら、俺はどうなる。死ぬのか。セッカに殺されるのならいいと思っていた。だけど、こっちのトウコという子からは、逃げ出したい気持ちしかない。

 行くのか。戻るのか。

 ためらう俺の耳に、ぼそりと「ああ、レイタさんが来なければ、セッカちゃんは死にますから」と、いうつぶやきが聞こえた。あまりに暗い声音と、その言葉の意味にぞっとした。俺が行かねばセッカは死ぬ。どういう意味だ。

「さあ、行きましょう」

 雪の上だということを感じさせない、しっかりとした足取りでトウコが歩いていく。その背中は俺が逃げることなどこれっぽちも疑っていない。俺は、黙って後を追った。

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淡雪 斉藤ハゼ @HazeinHeart

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