有原

「さあ、最後の乗り換えだ」

 分厚い時刻表を抱えたセッカがドアの前でそわそわしていた。列車のスピードが落ちていく。窓の外から街が見えた。高い建物が見当たらない。一番高くても四階建てくらいだろうか。まもなく有原駅。

「次はなんて電車に乗るんだ」

「電車じゃなくて、ディーゼルだから、キ・ド・ウ・シャ。キハのキは、気動車のキ!」

「電車と気動車ってどう違うのさ」

「バカだなあ。電車は電気だろ。気動車はディーゼルエンジンで走るんだよ」

 そんなことも知らないんだなあ、とセッカが舌打ちしている。電車が何で走ってたっていいじゃないか。

 列車がホームに滑り込んだ。一番線。ドア脇のボタンを押すと呼応してドアが開く。寒冷地仕様だ。

「さあ乗り換えるぞ!」

 セッカは意気揚々と列車を降りる。俺のことなんか置いてけぼりだ。

「セッカちゃん!」

 ホームから声がかかって、セッカの足がぴたりと止まった。背の低い女の子が立ちはだかっている。一歩も通すまいと、仁王立ちの構えだ。

「何やってるんですか!」

「何って」

 セッカは天敵でも見つけたかのように、しかめつらだ。 

「セッカ……知り合いか?」

「あー……その、えーと、わたしの……妹だ」

「えっ!」

 そう言われてみると、確かにどこか似ている。顔が似てるというよりは雰囲気か。

「セッカちゃん、ひどいじゃないですか、なんで船に乗ったんです!」

 妹はずかずかとセッカに向かって突き進んできて、下から睨みあげている。セッカと頭一個以上違う。セッカは百七十センチ近くありそうだが、妹は百五十センチほど、中学生くらいに見える。

「だって……トウコが……」

「そもそも一緒に行くって約束でしたよね? だから連れてきたんでしょう? なのに、私が船ダメなの知ってるくせに!」

 話の流れが読めない。船がダメ? 船酔い? 新潟からこの子は追っかけてきたのか? 疑問で頭が一杯だ。

 その時、俺のポケットからダースベイダーのテーマが流れ出した。

「わるい、ちょっと電話出る」

 二人から離れて携帯を取り出す。この着信メロディを割り当ててあるのは一人しかいない。

「ちょっとレイくん!! 何度も電話したのに、何よ、留守番電話サービスって」

「俺だって電波の入らないところにいることくらい、ある」

 相手は深雪だった。従兄妹で幼馴染で、兄妹同然に育ち、今度義理の姉になる女。

「お、そうだ。ご結婚おめでとうございまーす」

「なんで知ってるの」

「二日町の叔母さんから聞いた」

「私、決めたからね。もう決めたからね! 理一さんと結婚しちゃうんだから!!」

「クリスマスの夜にも申し上げましたが、俺は止めない」

 電話の向こうで言葉の詰まる音が聞こえた。

「今更やめたりしないもん。レイくんが結婚式場に乗り込んできても、一緒に逃げてあげないんだから!!」

「行かねぇって」

 深雪は、俺のことが好きだったんだそうだ。でも、俺は深雪のことを身内、家族、妹……としか見られない。だから付き合うのも結婚もセックスも無理。無理ったら無理。そりゃ気持ちが揺れたことはあるけど、やっぱり無理。

「で、お正月には帰ってくるんでしょうね!?」

「無理。俺、今、北海道だし」

「はぁ!?」

「今、有原って駅。どうせ一月二日から仕事だし、正月は帰りません」

 ふぅぅぅ、という深い溜め息が受話器ごしに届く。自分の想定外の出来事にムッとしているのだ。ははは、いつも俺がお前の思い通りになるものか。

「兄貴によろしく。じゃあな」

 これ以上、電話口でごねられても話が堂々巡りになるのは目に見えている。電話を切ったついでに電源も落とす。ついでに社用携帯も。今更ここで電話がかかってきてどうなるっていうんだ。「See You!」「See You!」


 電源の切れた携帯電話をしまいこむと、セッカが大またにこっちに向かって歩いてきた。

「レイタ! ちょっと手を貸せ!」

 手の持ち主の承諾も取らず、勝手に俺の手を握り締めて「925D」とつぶやく。

「よし。お前はいいやつだ! ナイス拾いもの!」

 褒められているのかけなされているのかよくわからない。

 階段渡って向かいのホーム、四番線に列車が入ってきた。カタンカタンと軽い音を立てる、一両編成だ。銀に朱色の帯。車両前面にびっしりとこびりついた雪。

「トウコ! わたしはちゃんとやる! ほんとだ! だから、ついてくるな!」

 セッカは妹の脇を通り過ぎて、ずかずかと歩いていく。妹は困ったような顔で俺とセッカを見比べている。

「ほら来いレイタ! 駅弁買うぞ!」

「妹さんはいいのか」

「いいんだ!」

 セッカは売店のほうへどんどん歩いていってしまう。セッカを追うか、妹さんをフォローすべきか。よその家の揉め事はどうしたらいい。

 逡巡していると、後ろから「あの」という、細い声が聞こえた。

「あの、セッカちゃんのこと」

「はい」

 妹さんが、じいっと上目遣いで見つめていた。俺の胸元ほどしかない、小さな背。

「よろしくお願いしますね」

「えっ」

 俺は、彼氏でも、友達でもない。ただの……なんだ。まだ知り合ってから三日しか経っていない。

「その、妹さん、一緒に来なくていいの?」

「セッカちゃんがついてくるな、って言いましたし。仕方がないです。一人でやり遂げるなら、それが望ましいですし」

「セッカは何をやろうとしてるのかな」

「それは……」

「行くぞレイタ!」

 トウコが答えようとした瞬間、駅弁の袋を提げたセッカに腕をぐいと強く引っ張られた。

「こら!」

 セッカに怒鳴り返した瞬間、発車ベルが鳴り始める。

「だらだらするな! 急げ!!」

 セッカに引っ張られながら、妹に小さく会釈を返す。「こまった子ですねぇ」と、小さな溜め息が聞こえた。

 ベルが鳴り終えた後、気合をいれるようにディーゼル車が動き始めた。九時二十分有原発厚迫行き。反対側のホームにトウコが立っているのが見えた。セッカにいいのか、と聞いても、つんと澄まして口を開かない。相当仲の悪い姉妹のようだ。木製の床が大げさにガタガタ震える。車両全体が派手に軋み、鳴っている。縦揺れの酷い列車なんてはじめてだ。

「この列車は寒有かんゆう線。有原ありはら植辺木うえべき達志別たっしべつ乞府こっぷ横真おうま平尻ぴらしり下平尻しもぴらしり鷹多たかた姉牛あねうし上姉牛かみあねうし厚迫あっさこ新福しんふく大谷おおや八重床やえゆか常潭とこたん永久とわ。総営業距離七十八.八キロ」

 歌うようにセッカが時刻表を読み上げる。有原発の列車は一日六本だそうだ。

 通路に顔を出して前、後ろと見てみるが、ずいぶんと短い。車内の人数もまばらだ。しかもそのうち一人は車掌だ。俺とセッカで四人がけの対面式シートを占領しても、ちっとも心が痛まない。

 いつもの通勤電車はホームの端から端まで、いくつにも連なった車両の中に人がみっしりと押し込められているが、とても同じ乗り物とは思えない。いや「電車」と「ディーゼル車」という違う乗り物か。

「なあ、寒有線の、寒、ってどっから来たんだ」

「レイタくんは実にいい質問をするなあ!」

 とてつもなく巨大な態度を取られてしまった。なんだその上から目線。時刻表の路線図を見ろと促される。

「ここに有原、そして永久。路線はここで終わっている」

 セッカの指先を目で辿る。山中から海を目指して向かっている線路が、中途半端なところで終わっている。

「行き止まりだな」

「本当は、ここまで行く予定だったんだ」

 セッカの指が、行き止まりの延長上からずっと海の方まで進んでいく。指が止まった先には「寒名知」という地名があった。

「あ……これが寒有の寒、か」

「でも、もう延伸予定は取りやめになった。だから、この線路は永遠に寒名知へ届かない」

「へぇ……」

 永遠に届かない土地の名を冠した列車か。

 車窓はすでに街らしい部分を過ぎ、雪のどっさりと積もった空き地とも畑とも見分けのつかない土地を進む。ぽつり、ぽつりとたまに住宅が見える。こっちの住宅は屋根の形が独特で、ヘの字型とでも言うのか、急勾配の短い部分と、ゆるやかに下る長い部分で出来ている。列車と並走するように流れている川がある。「一級河川 ふうり川」と青い看板に記されている。この、一級とか二級っていうのは何のことだろう。

 セッカががさごそと駅弁を取り出した。蝦夷の親子わっぱ。墨一色の素朴な包み紙だ。「これしかなかったんだよ~」とぼやきつつ、俺にも一個渡してくれた。なかなかいいヤツだな。鱒といくらのちらし寿司部分、鰊の甘露煮と黄色い数の子の載ったご飯部分、そしておしんこや煮物部分、の三箇所に区切られている。全体の調和に欠けるところもあるが良心的なお味だ。画一的な駅弁とは違う。セッカ、いいヤツじゃないか。

 そのセッカの膝の上を見ると、広げた弁当がほとんど減っていない。

「あんなに「駅弁買う!」 って意気込んでたわりには、すすんでないな」

 セッカがバツの悪そうな顔を見せた。

「その、寒有線で駅弁、っていう、こと自体はやりたかったんだけど……」

 なるほど。シチュエーションに憧れはあっても、腹は減ってなかったのか。

「いいよ、俺がそれも食ってやる。返せって言っても無理だからな」

 セッカから食べ差しの弁当も受け取る。俺だって弁当二個くらいまだまだ食える。

「前、見てくる」

 セッカは運転席の後ろに張り付いてしまった。やっていることが子供と変わらない。

 二人前の弁当を食べている間に、植辺木、達志別、乞府、横真、と四つ駅を過ぎた。ローカル線だから駅が少ないのかと思いきや、意外に五、六分程度で次の駅に着いてしまう。しかし、一人として降りる人も、乗る人もいない。有原から一緒に乗ってきた人たちがちらほらといるだけで、ほとんどは空気を輸送しているようなものだ。

 窓の外を眺めてみても、ほとんどが木か、雪か、電柱か。たまに見える踏み切りでさえ新鮮だ。ガタ、ガタ、ガタ、という独特のリズム。数分も外の景色を見つめていると、段々眠気が襲ってくる。眠気覚ましにセッカのいる前面まで歩いていく。

「ごちそうさん」

「美味かったか、あれ」

「おう」

「なら、よかった」

 正面に伸びた鉄路がうねり、くだり、のぼり、豊かに表情を変える。セッカと並んでじっとその様子を眺める。周囲は一面の雪と、少しだけ顔を覗かせた熊笹。

「これから厚迫峠へ向けて山を登っていく。今乗っているのは一両だが、昔は二両だったんだ」

「なんで一両になったんだ。乗客が減ったのか」

「それもあるが、そもそもは安全性の問題だ。エンジンが一基しかないと、空転した時やエンジントラブルの時に危険なんだ」

「じゃあ、どうして今乗ってるやつは一両なんだ?」

「エンジンが二基あるんだ。これはキハ53系500番台。キハ56を両運転台仕様に改造した車両だ。この車両の投入によって、寒有線は単両運用が可能になったんだ」

「へえ……」

 エンジンの冗長性か。とりあえずわかった気になって頷いておく。セッカは前方の線路を見つめたり、時刻表を取り出して時計を見比べたりでせわしない。線路を見ているのにも飽きたので、また席に戻る。

 並走している道路を行くトラックとさっきから抜きつ抜かれつを繰り返している。列車ってそんなに遅いのか。今、時速何キロなのだろう。新幹線が時速二百キロくらいは知っているけど、普段自分が乗っている通勤快速が時速何キロかなんて、考えたこともない。

「お兄さん」

「ハイ?」

 ぼんやりしていたら隣のボックスから声をかけられた。おばさんともおばあさんとも呼べそうな雰囲気だ。今時、行商でもするのか、随分大きな風呂敷包みが脇に置いてある。

「お兄さんは、どこから来たの」

「はぁ、東京です」

 列車の音が大きいため、つい俺の返事が大きくなる。

「はーぁ、わざわざ東京からねぇ、里帰り?」

「いえ」

「ああ、じゃあご旅行」

 旅行っちゃ旅行か。間違ってはいない。

「ええ、まあ……」

「あらー若い人二人で、汽車に乗って。いいわねぇ、ロマンス、あれよ、そうそう、流行ってるわよねえ、ロマンスの神様」

 なんだかえらいなつかしいフレーズを聞いてしまった気がする。

「ここまでは何できたの? 飛行機? 船?」

「えーと、新潟から船で……」

「連絡船なくなっちゃって淋しいわよねえ。はい、これ、二人でどうぞ」

 流れるような喋りとともに、小さなみかんを二つ差し出された。

「ありがとうございます」

 謹んで頂く。おばさんがニコニコとこちらを見ているので、会釈をしてみかんを食べた。甘酸っぱい懐かしい味。みかんを食べ終えてしまうと、もう何もすることがない。

 平尻、下平尻を過ぎた。エンジンが甲高い吼えるような響きに変わっている。二個エンジンがあるとはいえ、少し不安になる。右を見ても左を見ても雪ばかり。

 鷹多でみかんをくれたおばさんは降りていった。窓から見送った姿は、荷物が歩いているみたいだ。外はよく晴れている。雪の白がきらきら眩しい。

 レールの継ぎ目の音、車輪、車体の激しい揺れ。フェリーより風景に変化があるのに、フェリーより退屈に感じてしまう。手なぐさみに携帯電話を取り出して電源を入れてみる。二個とも圏外。手持ち無沙汰だ。通勤なら携帯、文庫本、音楽プレイヤー、そうしたもので結界を作り、身体は密着していても互いの精神をしっかりと隔て守っているけれど、今は俺を守るものが何もない。空白から身を守れない。

「あ、みかんだ」

 セッカが戻ってきた。進行方向、俺の隣にちょこんと腰かける。その距離感が向かいに座っていた時より近しい感じがして、気持ちがざらつく。

「貰ったんだ。食べるか?」

「うん」

 セッカの手のひらにみかんをのせてやると、「剥いて」とぬけぬけと言う。箱入り娘め。でも、断るのも面倒くさいし、世話を焼いてやるのも悪い気はしない。

 セッカが俺ごしに窓をじっと見つめる。

「もうすぐ厚迫峠だ」

 列車の進みがさらに遅くなってきた。カーブを曲がるたびに派手なきしみをたてる。鉄の固まりが苦心して登っている。

「現在、時速十七キロくらいかなあ」

 自転車より遅いんじゃないのか。シューッ、シューッ、と音を立てながら、雪の壁と、雪の積もった木の塊の中を粛々と抜けていく。

「次の駅まで、どれくらいだ?」

「姉牛着は十時十六分予定」

 十分程度の駅と駅の間がとても長く遅く感じる。時間の歩みが遅いのか、何もない時間に俺が耐えられないのか。あれこれと雑念が浮かんでは消える。

 仕事が辛い、深雪と理一の三角関係に追われて辛い、故郷の親族との関係が辛い。でも、制約の圧力が実は俺という人間を支えていて、制約がなくなった途端に俺の身体はぐにゃりと崩れてしまう。列車に目を輝かせている彼女のように、何か強く好きなものがあればもう少し自分を持てたのだろうか。三十一歳で、今更こんなことを考えているなんて。遅すぎやしないか。みんな、どんんどんどこかへ進んで行ってしまって、俺だけがスタート地点に取り残されて立ち尽くしているようだ。この足元の砂がさらさらこぼれ落ちていくような不安に、どうやってみんな耐えているのだろう。とっとと砂を海にぶちまけて、そのゲームから降りていけない理由はあるのか。

「峠を越えるぞ」

 言われて窓の外を見たが、相変わらず白の世界。何も変わらない。

「耳を澄ませてみろ、さっきよりジョイントのリズムが速くなっただろう」

 …………。

 さっきよりはガタンガタン、という列車独特のリズムが速くなっている。ほかに聴くものもないから、ただ耳を傾けている。ガタン、ガタン、ガタンという音が確かに速くなっていく。

「下りに入ったんだ。ほら、厚迫トンネルに入るぞ」

 車内が一斉に暗くなった。増水した川の流れのような音に、かたんかたん、と軽く跳ねるような音が重なる。

「前へ行こう」

 暗い中、セッカへ手を引かれて車両の先頭へたどり着く。ゆるいカーブを曲がると遠くに小さな光がぽつり、と見えた。その光は少しずつ大きくなっていき、やがて、トンネルを抜けた。一瞬、エンジンの音が止み、車内がしんと静まりかえる。周囲は相変わらずの雪景色。さーっと車輪の摩れる音。

「右手側に、下厚迫ダムが見えてくるはずなんだけどなあ」

「ぜんぜん見えないぞ」

 雪の壁と木々とで、下のほうに何かあるなんてとても見えそうにない。

 単調な景色ばかりが続いている。次の駅までどれくらいかかるんだろう。目的地はどこなんだ。

「なあ、どこで降りるんだ?」

 朝からずっと座り通しで、腰も痛い。

「じゃあ……次で降りよう」

「いい加減だな」

 列車は下り坂に突入し、レールのこすれる音が軽快に鳴る。

「あ、家だ」

 視界に久しぶりに踏み切りと家が見えてきた。二十分かそこらぶりのカンカンカン……という音が妙に新鮮だ。ブレーキの音、キンコンキンコンキンコンとチャイムが派手に響く。そして、俺たちは小さな短いホームへ降りた。

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