小樽

「さっ……」

 寒い、と言おうにも続きが出なかった。空暗い、朝四時。海風が容赦なく吹き上げてくる。身体が切られるようだ。フェリーターミナルだけがまぶしいほどに明るく周囲から浮かび上がっている。

 彼女は何も告げるでなしに真っ直ぐ歩き出す。道路の表面は薄い粉雪に覆われていた。路肩は積み上げられた雪が硬く締まっている。一メートル近くあるだろう。

「さすが、新潟駅の辺りとは違うなぁ」

 角を曲がると、ターミナルからの明かりが届かなくなった。街灯の光だけが頼りだ。歩道は人一人が歩けるほどの面積しか除雪されていない。除雪というよりも、人が同じ場所を歩くことによって、足跡の部分だけ雪が固められている。獣道の成り立ちと同じだ。

「今、目的地に向かっているのか」

「いや、ただの散歩だ」

 なんだよそれ。なんだよ。北海道に行って「本物の雪」とやらをさっさと見て、コイツと別れ、すぐ東京に帰ってくるつもりだったのに。結局、新潟から小樽まで移動するのに二十時間もかかった。時間かかり過ぎだろ。俺が札幌へ出張した時は日帰りだったぞ。

「見ろよ、運河だ」

 セッカがすいと左を指す。暗い水面が闇に溶け込んでいた。対岸にはうっすらと古めかしそうな倉庫が見える。

「下へ降りよう」

 左脇のゆるやかな斜面にかろうじて段がついていた。目を凝らさないと斜面なのか階段なのかよくわからないが、あれが北国の冬の階段だ。俺も子供の頃はあんな階段だかなんだかわからないところを通って学校へ行っていた。セッカがすたすたと降りていく。東京の人間とは違う、雪に慣れた歩き方だ。俺も続いて足を踏み入れた。

「うぉっ!!」

 天地がひっくり返った。雪の薄いところを選んで踏んだ途端、下にアイスバーンが潜んでいた。

「くそっ……」

 雪道を歩く上で一番注意すべきトラップだというのに、俺は素人か!

「ははははは、お前、雪道の歩き方知らないんだな!」

「違う」

「別に慣れないうちは仕方がないさ。ほれ」

「黙れよ!」

 セッカが差し出した手をはねつける。

「なんなんだよ! 寄り道とかするな! 早く俺をその場所へ連れていけよ!!」

 俺はゆっくりと立ち上がる。くそ。

「俺だって暇じゃないんだ! 社会人はな、休みが貴重なんだよ。お前みたいなバカに付き合ってる暇はないんだ。東京から北海道まで引き回して何考えてるんだ。親は何を教えてるんだ。待機任務もある、年内に片付けたい仕事もたくさんある。緊急の故障があったらどうする。俺たちは、お客さんのどんな要望にも応えなきゃいけないんだ。なのに、本当は東京にいるはずの担当者が北海道で遊んでますって、どう言い訳したらいいんだよ!」

「レイタの仕事場は、レイタの代わり一人くらいは、出せないのか」

「無理だ。主任は年明けから愛知に戻るし、隣の部署は人が死んでそれどころじゃない」

「本当に、お前の代わりはいないのか」

 俺の代わり。その言葉にぞっとした。もし、本当に緊急出動があったとして、俺が行けなかったら、結局はどうにか人をやりくりしてしまうだろう。現場とはそうしたものだ。俺なんかいなくても大丈夫なのかもしれない。現に小山田さんが亡くなったと聞いて、次に考えたのは業務の分担のことだ。だが俺は、あの職場でお客さんのために働いている。仕事は辛い。面白くない。理不尽だ。でも誰かの役に立っていると思わなければ……。

「やっぱり帰る!!」

 コートの端をぱっと叩く。目の前は運河。どちらから流れてきているかも、わからないほどおだやかな流れ。水上の光だけが揺れている。後ろを振り返れば高い雪の壁。

「どうやって帰る?」

「電車くらいあるだろ」

「函館本線だな」

 鉄道オタクはたまに便利だ。だが、今はコイツの余計な知識が腹立たしい。

「レイタはせっかちだよなあ」

「あと少しだぜ」

「うるさいな」

 ライターを何度も鳴らすも、風が強くてうまく火がつかない。俺はどうして新潟で行くと言ったのか。フェリーの中でちょっとでもコイツを信じそうになってしまったのか。

「火、つかないのか」

「つくよ!」

 何度も何度も石を鳴らしてやっと火がつく。煙草のフィルタがほんのりと湿っている。長い間口にくわえ過ぎだ。

「火がつくんだったら、これにも火をつけてくれないか?」

 セッカが、歩道脇にある何かを指している。

「自分でやれ」

 セッカにライターを軽く放ってやると、

「わっ」

 十分に取れる間合いだったのに、手を引っ込めてしまった。

「わたし、こういうのダメなんだ」

 歩道に落ちたライターを拾おうともしない。

「しょうがないな」

 ライターから雪を軽く払い、道端の氷の塊に目を向けた。バケツの中にたっぷり雪を詰めてひっくり返したような代物だ。真ん中はくりぬいてあり、小さなろうそくの燃え残りがある。

「氷のかまくらか」

「アイスキャンドルっていうんだ。火をつけてくれよ」

 燃え残りの芯に火をともす。か細い炎がゆらめき、氷を照らし出す。小さな明かりだが、氷ごしにもそのゆらめきがわかる。薄暗い中に暖かな色。セッカは少し離れて見守っている。

「綺麗だな」

「綺麗だ」

 入り口に手をかざすとかすかに熱が伝わってくる。ろうそくの炎は不安定に揺れ、見る間に小さくなってきた。

「あっ……消えちゃう」

「もともと燃え残りだからな」

 セッカがおそるおそる近づいてきてアイスキャンドルの中を覗いた。小さな炎にあおられて、氷から一滴、水が落ちる。

「火は燃え尽きるし、氷も溶ける。わたしも、いつかそうなるのかなあ」

「そりゃ、誰だっていつかは死ぬだろ」

「想像つかない」

 彼女がふぅっと誕生日のろうそくのように息をふきかける。弱っていた炎ははためいて消えた。

「セッカはお葬式とか出たことあるか?」

「葬式……は、ないな」

 ならば、想像がつかないのも無理はない。身の回りの人間を何人も失っている俺でさえ、自分が死ぬことは未だに実感が湧かない。

 セッカはしゃがみこんで火の跡を見ている。背丈のわりに小さな背中。何を考えているんだろう。

「なあ、レイタ。どうしてわたしや人間は生きるんだろうなあ」

「それは」

 俺も知りたかった。どうして俺は生きるのだろう。積極的に死にたいわけでもない、だけど消えてしまいたいような気持ちになることはしょっちゅうだ。漠然と、死んでしまいたい。疲れた。もし生きることにはっきりとした理由がぶら下がっていたなら、俺たちは迷わず走っていけるのに。苦しみに気付かぬままに死んでいけるのに。

 俺はクズみたいな職場をいくつも見てきたから、身体を壊す人、ある日いなくなってしまう人、そして死んでしまう人の漂わせる気配がどんなものか少し知っている。忙しいうちはまだいい。「俺この案件が終わったら屋台の焼き鳥屋になるんだ」なんて本気と冗談の曖昧なことを言っているうちは。本当に危ない人間は、自分がタフで元気だと信じ込んでいて疲れていることにも気づかない。むしろ他人の心配ばっかりしている。でもホームに入ってくる快速列車になんとなく惹かれてしまう。今のセッカの言葉は、ここから跳べば楽になれる、と思える危険な誘いに惹かれている人間の気配があった。

 不意に、彼女がまるで遠くに行きそうな気がした。頼りない背中にそっと指を伸ばしかける。あの細い背中に腕を回して、支えてやれたら。うわ、俺、変質者っぽくないか。なんなんだ、この感覚は。いつの間にか帰る気は薄れていた。

「レイタ、行こう」

 行き先は聞かないことにした。

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