日本海
甲板で待っているとボォォォォというバカでかい音がした。船出だ。
岸壁が少しずつ遠くなっていく。いや、船が動いている。エンジン音が腹に響く。想像していたより、ずっとうるさい。
埠頭に人が出てこちらへ手を振っていた。特定の誰かを見送りに来たというより、港の辺りに勤めている人たちが、ただ、船を見送りに来ているようだ。彼らは船が出て行くたびに、いつもああして手を振っているのかな。知らない人たちだし、何もしなくていいよな。どうせ脇には千切れんばかりの全速力で手を振るバカがいるんだし。
「お前、落ちるなよ」
「落ちないよ」
セッカは平然とした顔で手すりから目一杯身を乗り出し、手を振っている。手すりの真下がすぐ海、というわけではないが、マンションの屋上から下を覗いているような怖さがある。洋面がうねってきらきら光る。実にいい天気だ。
新潟から小樽だったらずっと日本海沿岸を陸伝いにいくようなものか。答えはわからない。全国の保守をやる都合上、方々の地名には詳しくなった。東松山が埼玉県で、松山は愛媛県。東久留米は東京都、久留米は福岡県。でも、どこも行ったことがない。小樽か。たしか年明けにおたる営業所の保守があったはずだ。いや、いわきだったかな? さくら? つくばみらい? ええい、どうしてひらがなの地名やら営業所やらばっかり増えるんだ! 仕事のことしか頭に浮かばない。つくづく俺には中身がない。
小樽からどこに向かうのだろう。本物の雪って、何が本物なんだろう。何メートルも積もった雪の壁か? 誰も踏んでない広い雪原か?
「レイタ、海見るの好きか」
海なんか目に入っていなかった。出発して結構経ったが、まだまだ陸が近くに見える。すぐに遠ざかるものでもないらしい。海沿いに工場やコンビナートの姿が途切れることなく続く。
「考え事してた」
「シゴトのことか」
「そうだよ、悪いか」
「それを決めるのはわたしじゃない。さ、中に入ろう」
セッカに促されるままに船内へ入った。中はビジネスホテルのロビーのようにこざっぱりしている。早くもジャージやトレーナー姿の人たちがうろついていた。旅慣れた人たちなんだろう。俺もいい加減この背広を脱いでラクになりたい。
急な階段を降り、狭い廊下を進む。床がゆっくりとした周期でうねる。波のリズムなのだろう。開け放たれたドアからは、ただマットを敷いてあるだけの広間や、小さな二段ベッドがたくさん据え付けられている部屋が見える。俺もあんなところで寝るのかな。見知らぬ他人と雑魚寝ができる自信はないんだが。
「ここだ」
セッカがドアを開けると、こじんまりとした部屋に小さめのシングルベッドが二つ、ぎゅうぎゅう詰めにされていた。
「今回は特別に一等にしといた」
一等というからにはそれなりにいい部屋なのだろうが、あまりにも狭い。
「お前、知らない人間とくっついて寝たりするの苦手だろ?」
広間を覗いた時、顔に出てたらしい。まずいな、コイツはよく俺のことを見ている。苦手な人種だ。
「おおぉーなかなか狭いなー」
セッカが勢いよくベッドの上に飛び乗って跳ねる。まるで狭いことが嬉しいみたいだ。
俺も渋々靴を脱いでベッドに腰かける。ベッドとベッドの隙間は三十センチもない。寝ていても手を伸ばせば届いてしまいそうだ。
「ここ、二人部屋か」
「そうだ。多少近いのは我慢しろ」
我慢しろって。俺だって男だぞ。警戒心ってものがないのか。
「わたしとお前はいいんだよ、もう、見知らぬ仲じゃないんだから」
「俺はお前のこと何も知らないぞ」
「約束を交わし、名前を知った。それで十分だろ」
「いや……もっと……」
あるだろ、知り合い同士なら、普通、知っててしかるべきことが。
「じゃあ、わたしは探検に行ってくるから!」
「待てよ」
まだ聞きたいことがある。そりゃ山のように。
「セッカ、お前、フルネームはなんていうんだ?」
「フルネーム? 名字? 必要か? そんなもの?」
「え」
必要か、ってそりゃ、どんな人間にだって名字はあるのだ。
「お前がわたしをセッカと呼ぶ。わたしがお前をレイタと呼ぶ。それで互いがわかる。いいじゃないか」
「でも」
たしかにコイツが中村だろうが、伊集院だろうが、何がわかるわけでもない。一緒に旅をするには、一緒に部屋を同じくするには、何が必要なんだろう。名前。年齢。性別は見れば分かるとして、あとは? 現住所か? 勤め先や学校の内容? 出身地? 何かが知りたいんだ。一緒に時間を過ごしても安心できる人物だって、納得できる何かを。
「なぁ、よく知った人間でも知ってることなんて、ほんの一握りじゃないか」
「それは」
出張。社員旅行。修学旅行。あるいは友達との旅行。旅はいつだって、その人の別の側面をあらわにする。現場を顧みないイヤな部長が定年後に留学する夢を語ったり、真面目で慎重な友達が、実は恐怖のハイスピードドライバーだったり。そんな意外性はいくら数えてもキリがない。そしてどれだけ会社や学校で同じ空間を過ごしている相手でも、旅の相手として安心できるかどうかは旅に出てみなければ、わからない。
「な? わたしとお前が、一緒に安心して行ける仲かどうかは、これからわかるんだ」
「ダメだと思ったら、すぐに帰るぞ」
「わたしは……大丈夫だと思うけどね」
「なんでそう言い切れる」
「勘、さ。レイタはわたしにどういう感じを持った?」
自分の勘。これほどアテにならないものもない。
「お前のシゴトで使ってるだろ。その勘でいいんだよ」
トラブルに対応する時、まずは最初に印象で判断する。もちろん対応マニュアルはあるし、切り分け手順も確立されている。だが、それらのステップを経る前に最初に電源系だな、とかハードウェアよりはソフトウェアだな、というイメージ、手触りのようなものがある。そういやあれも勘だっけ。
セッカへの印象。なんか偉そうで、胡散臭そうで。信用はまだできない、でも、悪くない。そういうイメージ。騙されていないか俺。いや、騙されていない、と頼りない勘が返してくる。
「正直、胡散臭いヤツだとは思う。でも……騙されていない気がする」
「じゃあ、それでよしとしないか?」
「わかった」
俺が頷くと、セッカは子供みたいな笑顔になった。
「なあセッカ、むしろお前のほうこそいいのか?」
こ、こ、こんな、狭い部屋で二人きりだぞ。何かする気は無論ない。けど、ベッドの上にあぐらをかいた彼女の、ホットパンツとニーソックスの狭間に揺れる隙間の肌が、どうしても目に入る。
「わたしは、最初からレイタのこと、気に入ってたしな」
「えっ」
予想に反して真顔でさらりと言うものだから、声が詰まってしまった。胸がずきりとする。最初ってどこからだよ。多摩センターのあの酔っ払い状態のことか。思い出したくもないが、思い出すこともできないほどに酔っていた昨夜。
「あ……」
きらり、ぴかり、と光る城の前で思ったことをひとつだけ思い出した。年甲斐もなく、可愛いな、ってたしか……。
「よし、じゃあ、わたしは探検に行ってくる!」
「待った待った」
「まだ何かあるのかよ~」
「鍵、どうするんだよ!」
もちろん、部屋の鍵は一つしかない。
「鍵なんかいらないだろ! 必要だと思うならお前がもっとけ」
言い捨てるなり、セッカは部屋の外へ飛び出していった。
結局鍵はかけずに部屋を出た。一人船内をうろうろしていると、古めかしいゲームコーナーを見つけた。俺が高校生の頃プレイしたゲームが多い。惰性と懐かしさで見覚えのあるゲームにコインを入れる。
「覚えてるものだなぁ」
頭はうすぼんやりとしていても、手がそれなりに動く。レバー前、後ろ斜めからぐるりと回して弧月斬。
「どうしたもんかなあ」
売店でタオルと着替えを買って、風呂に入って、洗えるものだけでも洗濯して。後は何をしたらいい? 驚いたことに小樽に着くのは明日の早朝四時だという。今はまだ朝の十一時だ。それまで何をしろと。純度の高すぎる空白。久しぶりすぎてどうしていいかわからない。船の中は大体見た。売店と、食堂と、デッキと、談話室と、自販機、そしてあとはみんな客室ばかり。もう十分だ。
「ええい、ままよ、か」
指がふやけるほどゆっくり時間をかけて風呂に入り、コインランドリーで洗濯を済ませて、いよいよ本格的にすることがなくなった。部屋に戻ってはきたものの、セッカはいなかった。ちぇ、話し相手すらいないのか。缶ビールを片手にベッドに寝転がり、テレビをぼーっと眺める。チャンネルの構成が東京と違う。1が3? 3が5? どこがどうなってるんだ? 一通りチャンネルを回してみたが、年末の昼間にやる番組などどれも面白くはない。結局、見たこともない衛星放送を眺める。中国のコオロギ相撲のドキュメンタリーだ。
「コオロギ相撲ねぇ」
初めて知ったぞ、そんな存在。世の中には知らないことばっかりだ。ムーンライトという電車。船に乗る体験。見知らぬ人間との旅。
「ふわぁぁ」
次第に目の前が暗くなる。心地よい睡魔だ。いいや寝てしまえ。
根底から何かが揺れている。ゆったりと、右に、左に。身体の芯まで揺るがすうねり。地震とは違った、大きな周期の揺れ……。
「ん……ぁ」
そうだ、俺、船に乗っていたんだった。寝ていると大きな揺れに感じるが、起き上がればそれほどでもない。
「おっと」
隣のベッドに彼女が眠っていた。布団も何もかけていない。ベッドの上に綺麗に寝相よく仰向けに横たわっている。いつ着替えたのか、寝巻きは半袖のロングTシャツのみ。Tシャツの裾からすらりとした曲線がふともも、ふくらはぎ、足首にいたるまで流れている。
「風邪引くぞコラ」
かけ布団の上にそのまま寝ているので、かけてやるべき布団がセッカの下敷きだ。
「猫かコイツは」
無防備な寝顔。年は教えてくれなかったが、眠る顔は幼く見える。ベッドから降りて、コイツの下の布団を引っ張る。寝ている人間の重みはなかなかのもので、うまく引き抜けない。端から見たら、寝ている女の子になんかしようとする変質者そのものだ。
「こいつ……俺がなんかしたら、どうする気だ」
牛のように安全な男だと油断し切っているのか。どうせ俺みたいな男には、彼女ができたこともないとタカをくくっているんだろう。当たりだけどな。こんな子が彼女だったら大変だろうなあ。想像しただけで溜め息が出る。人のことは呼び捨て、お前呼ばわり。鉄道が趣味で、意味深なこと言ってニヤニヤ人を見ている。タチの悪い猫だ。大人にしてやるってまずお前が大人じゃないだろう。それともああ見えて……いろいろと経験豊富なのだろうか。
かけ布団を取るのに手間取っているとセッカの目がぱちりと開いた。色素の薄い目。灰色がかった光。水の色みたいだ。冷えた腕がするりと俺の首に回された
「なあ……レイタ」
ぐいと力がこもって俺の首を引き寄せる。こらえ切れなくてベッドの上に手をつく。顔の目の前に、セッカの顔。洗い髪のような濡れた甘い匂い。くらりとする。俺の太ももが裸足のつま先でゆっくりと擦られている。唇と唇が合わさるまで三センチ。セッカが俺の耳元に口を寄せた。気配に背筋がぞくっと震える。
「こういうこと……期待してたか」
吐息のように囁かれる。
「バカ、そんなんじゃない」
「ふぅん」
彼女の息が俺の耳をくすぐる。窓の外で響く波がうるさい。
「……そういう気分じゃないんだ」
けして、清い身体の男の子、平たく言えば童貞だから、ではない。
「そうなんだ」
セッカの目がすっと細くなった。
「痛い!」
耳に鋭い激痛。こいつ、噛みやがった! 身を離したセッカが笑っていた。
「やーいスケベ!」
「スケベはどっちだっ!」
俺の腕の中には、まだ感触が残っていた、だけど、本当にそういう……気分ではなかった。
「童貞、をやめるいいチャンスだったろうになー」
ぐえ、と、蛙でも潰したような呻きが喉から漏れた。噛まれた耳より、ずっとずっとずっと痛い一言。
「お、お、おまえなあ! 言っていいこととッ! 悪いことがあるッ!」
くそうくそうくそう! やっぱりわかるのかそういうの! 匂いか! 気配かオーラか! あ、それとも断ったからビビったと思われたのか! あーもう!
「図星だったか」
ベッドの上に身を起こした彼女が困惑していた。ひょっとしてカマをかけられた? それを俺は真に受けて、こんな年若い娘にいいように手玉にとられて! 俺は!! うわあ!!
居たたまれなさが俺の全身を駆け巡る。血がさっと昇って、またどこかへ消えていった。
「も、も、もう、寝る!! 寝るったら寝る!!」
俺は自分のベッドに潜り込んで、もう一度頭から布団を被った。俺爆発しろ!!
「寝るって、今起きたばっかりじゃないかレイタ」
「うるせーうるせーうるせー!! 眠る!! 眠ってやる!!」
俺は枕の下に頭を埋めて一心に羊を数えた。羊が一匹、羊が二匹、三匹四匹五匹六匹……大きな生き物だから、一頭って数えるほうが正しいのか? 一頭二頭? 象は一頭、猫は一匹。ライオンも一頭……か。一匹と一頭の境目はどこにあるんだ!? くそったれ眠れやしないっ!! はんにゃーはーらーみーたー、はんにゃーはーらーみーたー、とそこまでしか知らないお経を一心に唱えている俺の肩を、小さくつつくものがあった。
「童貞は放っておけよ!」
「んぁー」
ぼすぼすと俺が被っている枕を突いてくる。安っぽいパイプの実がやかましい。
「うるせぇ」
「そうか」
枕と俺の頭の合間に無理やり手を突っ込んできた。彼女の手が上下するたびに、ざらざらざらざら枕が鳴る。外から聞こえる波の音と二重に響き合う。
「はぁ……」
ため息がとめどなく漏れる。しにたい。なんで俺はこんなところで、知らない娘に童貞呼ばわりされて……何もかもがイヤになってきた。
「死にたい、のか」
おっと、口に出ていたようだ。
「もう俺にはなんにもないんだ。望みも何にもない!」
空っぽの俺を乗せた船は容赦なく北へ向かう。セッカは俺が再び眠りにつくまで、ずっと俺の頭を撫で続けていた。
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