新潟
新潟駅のホームに吹く早朝の風がコートを揺らす。今まで忘れていた、身体の芯に届く寒さだ。今まで乗ってきた列車のエンジン音が屋根にわんわんと反響している。
「新潟も定時着だな」
何が嬉しいのか、セッカは懐中時計と車体とを交互に見比べている。よし、とひとりごちたセッカが振り返って俺を見た。
「次の移動までは間がある。改札を出よう」
「待て、俺はもう帰る」
新潟まで来てしまったこと自体間違いだ。とっとと始発に乗るんだ。
「ふぅん」
セッカは何が面白いのか、俺を見てにやにやとただ笑うばかり。いたずら好きの小学生みたいな顔だ。
「東京方面上りのMaxとき300号、新潟発は六時四分」
「日本語で言え」
「つまり、始発の新幹線まではまだ一時間くらいあるってことさ。一時間、ずっとホームに突っ立ってるのか? もっともここは在来線ホームだけどな」
新幹線は新幹線ホームに行かないと乗れない。それくらい知っている。切符を買う必要があるってこともな。あ、改札を出る段になってキセル行為の片棒を担がせるとか、交通費を出せとか言うつもりかもしれない。
「おまえ、ここまでの切符は持ってるんだろうな」
「無論だ」
「見せろよ」
その細長い切符には「青春18きっぷ」とあり、十二月二十九日付けのスタンプが二個押されていた。
「これ……ちゃんとした切符だよな?」
「バカっ! 青春18きっぷは十八歳以外でも乗れるんだよ!」
会話がかみ合わない。バカはどっちだ。
「よし、じゃあ、この切符で無事に改札を出られたら朝飯はレイタの奢り。その代わりこの切符がニセモノだったら、わたしとお前はお別れ。それでどうだ」
「いいだろう」
どっちにせよ一時間はどこかで時間を潰さなくてはいけない。改札を出れば切符の真偽もわかるだろうし、もし本当に本物なのだったらここまでの切符代くらいは払わねばなるまい。
「やれやれ、やっと行く気になったか」
ふわっと俺の手が握られた。えらく冷たい。
「離せ」
「恥ずかしいのか?」
「そんなんじゃないけど、さあ」
本当はとても気恥ずかしかった。彼女の手と対照的に俺の顔からは火が出そうだ。何を考えているんだ。手をつながれたくらいで動揺する俺もどうかしている。
「逃げるなよ」
「逃げない」
逃げようにも、彼女の力は存外に強く、俺は引きずられるように階段を上った。そのまま改札を通る。駅員はチラと切符の券面を見ただけで「どうぞ」と俺たちを出るように促した。疑っている様子すらない。
「まともな切符なんだな」
「何も知らないんだなぁ」
引っ張られるままに駅の外に出た。周囲は薄暗く、ほのかに駅舎の姿が浮かび上がっている。人の気配もあまりなく、ただ数台のタクシーがぼんやりと止まっている。無理もない、冬の五時だ。
「飯……何、食いたい」
「なんでも」
往来を眺めても暗いばかりで、牛丼屋の一軒も見当たらない。携帯電話のナビ機能で適当な店を検索してみる。
「ファミレスでいいな」
「うん」
場所がわかって歩き出しても、まだセッカが手を離さない。
「いつまでこうしてるつもりだ」
「仕方がないな」
えらそうに手を離し、にやにやと笑いながら俺のあとをついて来る。何か、たちの悪い野良猫に捕まってしまったみたいだ。一度えさをやると、二度と離れないのだ。
◇ ◇ ◇
「うぉっ」
店の灯りが点いていない時から、イヤな予感がするとは思っていたのだ。目の前の扉には「本日、都合により朝六時より営業いたします」とある。店の看板には二十四時間営業と堂々と記されているのに。どうして今日に限って。店が閉まっている、と思ったとたんに腹が減ってきた気すら。
「店閉まってるなぁ。どうするんだ?」
俺の後ろからのんびりとした声がする。くそっ。さらに検索するも周囲の店はもっと遅い時間に開くようだ。二十四時間営業が当たり前なのは東京だけなのだと改めて思い知る。
「くそぉ」
店の前に所在なくたたずんで新潟駅の方を見る。新潟というからにはさぞかし雪があるのだろうと期待していた。電車の中からは、うず高い雪が見えていたのだ。なのに、歩道は綺麗に除雪されていて、日中でも日陰になるであろう位置にわずかな土色の雪があるばかり。
「雪、見たいよなあ?」
セッカがからかうように笑う。見たい。そりゃ見たい。新潟に来れば見られると思っていたのだから、なおさらだ。だが、見たいと言ってしまったらコイツの思うツボだ。
「レイタはどうしたら、わたしを信用するんだ」
「え」
「金を持っていればいいのか。身元か。何が知りたい。無論、答えられないこともある。だが、知りたいことは教えてやる」
「お前の目的は、なんだ」
「わたしはサンタの娘だからな、人の願いをかなえるのが、わたしの目的さ」
「本当の目的を言えよ」
「信じたいことしか信じない奴に、本当かどうかの区別がつくのか? もし、わたしが本当にサンタの娘だったら、どうする?」
「それは」
「証拠は、ないさ」
サンタなんかいるわけがない。
「お前、金はあるのか? 俺だってないわけじゃないが、お前の遊ぶ金は出さない」
「あるさ」
セッカが無造作に財布を放って投げた。一万円札が十枚は入っている。それ以外はカードの一枚もないシンプルな中身だ。この財布がこいつの物だっていう保障はないが、そこまで気にしたらキリがない。
「その中にチケットがあるだろ? 一枚はレイタのだから持ってろ」
札入れに見慣れぬ白いチケットが二枚入っていた。
新潟発 十二月二十九日 十時三十分発 一一、五〇〇円
「どこに行くつもりだ?」
「北海道」
北海道ならさぞかし雪があるのだろう。俺の知らない本物の雪とやらが。寒さが痛みに変わり、何も感じなくなった耳や指先。山から吹き降ろす風に舞う雪虫や風花。足元でぎゅっぎゅっと小気味よく鳴る新雪。
「う……」
いちいちコイツの言うことが胸に突き刺さる。雪が見たい。寒さを感じたい。どこかへ行ってしまいたい。東京じゃない、どこかへ。それを約束するチケットが俺の手の中にある。そっけなく行き先が印字された薄っぺらな紙切れが魔法のチケットのように見える。
「でも、仕事が」
そうだ、俺は始発で東京に帰るんだ。家に帰って溜まったYシャツを洗濯して、部屋の片付けの真似事でもしたらあっという間に終わる休日を過ごすんだ。そして明日からは銀行のシステム統合作業で山梨まで行くのだ。
「ふぅん、仕事ねえ。昨晩は死にたい、って言ってたくせにもう仕事の心配か」
「うるさい! あれは、その、酔ったはずみだ!」
「行きたくないなら別にいい。レイタは「本物の雪」を見る機会を失うだけのことだ。あーぁあー、残念だなあ。一生に一度しかないチャンスなのにな~」
セッカがわざとらしくため息をついた。
「わたしなら、お前の見たい雪を見せてやれる」
俺をじっと見据えて、言葉を畳み掛けてくる。白いチケットから目が離せない。一度思い描いてしまった風景から心が離れない。
「いや……でも、ダメだ、ダメなもんはダメだ!」
「ふぅん、じゃあ、八時だ」
「何がだ」
「せめて八時まで新潟にいろ。八時を過ぎた時もう一度考えるといい」
「なんだそりゃあ」
妙に自信たっぷりの言い方が気になった。八時に何があるというんだ。
「な、飯を奢ってくれる約束だったろ」
「……そうだったな」
八時か。八時になるのを待ってそれから新幹線で帰っても、午後はゆっくりと休日を過ごせるだろう。よもや会社に呼ばれたとしても直行して午前中に到着すれば言い訳は立つ。
「八時までだぞ」
「決まりだな」
セッカがにやりと笑った。この娘のことが気にならないと言ったら嘘になる。どうして俺みたいな男を引っ張り回すんだ。笑えば可愛いのに。目の前のファミレスにぽっと明かりが灯った。中で慌しく開店の準備が始まるのが見える。もうすぐ店も開くだろう。
◇ ◇ ◇
俺の目の前には、堂々たる白い巨体が浮かんでいた。船というより、まるで巨大なマンションが水に浮いているような感じすら受ける。
「でっかいなぁ!」
セッカがはしゃぐ。BGMはカモメの鳴き声。ここは新潟港。
「いちじゅうひゃくせんまん……だから、一万八千二百二十五……トンあるんだってさ!」
そいつぁすごいや。俺にはその数字の意味がさっぱりわからない。時刻は九時半。もうすぐ乗船が始まる。船体の「新潟―小樽」と書かれたプレートが誇らしげだ。
「どうして飛行機じゃないんだ」
「わたしが、船に乗りたいから」
俺は黙って頭を抱えた。
一時間半前、つまり八時にその知らせはやってきた。簡単な話だ。明日から俺たちが作業する予定だった地方信用金庫が経営破綻したのだ。会社用携帯の先で主任が弱りきっていた。
「だからね、年末のシステム入れ替えはなし! 白紙! 今後先方が続くとしてもしばらくはシステム入れ替えどころの騒ぎじゃない」
「あの、俺はどうしたら」
「休んでいいよ。あ、一月二日に年明け一発目の回線増設やるから、センターCEは忘れずに来てね」
「ああ……はあ」
主任は部署の全員に回しといて! と言い残して電話を切った。主任に言われた通り部署の皆に連絡を回し終えると、セッカが自慢げに笑った。
「なあ、もう一回考えてみろよ」
もう何杯目になるかわからないドリンクバーのコーヒーを飲み干す。本当に八時に事態が変わってしまった。少し薄ら寒くなる。
いや、偶然だ。こいつのハッタリにうまいこと偶然が被さっただけだ。俺だってよくやることだ。客先修理に行った時、原因の切り分けも出来ていないのに「たいしたことないですよ」なんて言っておいて、とりあえずの清掃と油差しで直ってしまえばラッキー。世の中の故障の半分は清掃で直る。俺調べ。上手くいかなかった時には、その時素直に「見込み違いでしたね」と言えばいいのだ。分のいい賭けだ。コイツだって都合が悪くなったら、その時にはまた別のハッタリを言ったはずだ。簡単な手だ。だから、俺はコイツなんか放っておいて東京に帰ればいい。東京に帰って、洗濯して、掃除して、久しぶりにスーパー銭湯のサウナに入って、ラーメン屋で小ブタヤサイニンニクカラメ……。
「さみしいやつだな」
「誰が」
「サトウレイタがさ」
挑発的な目が俺のことを見つめていた。
「まだ自分の上に起きた幸運に気づけずにいるからさ」
「誰がお前みたいなうさんくさいヤツ信じられるか! 酔っ払って歩いてたら、突然知らない女に声かけられて、酔った勢いで新潟まで来てしまいましたって、どんなマンガだよ!」
朝のファミリーレストランは、想像以上より声が響いた。
「……その、なんだ」
恥ずかしくなって、煙草を手に取る。
「レイタ、お前は子供だ。祝福の受け取り方を知らない。三十一年生きて、まだ子供なんだ」
セッカが、ふと目を伏せた。
「うるさいな」
「お前はたくさんの祝福を受け取り損ねている。だから自分はひとりぼっちだって誤解している。だけど祝福を受け取るにはコツがあるんだ。一回受け止めれば、次ももっとうまく行く」
俺は一人だ。それでいい。そう決めていた。でも、それは俺が祝福とやらを受け取れなかっただけで、もっと違う世界もあったのだろうか……。
セッカが黙って俺に手を差し出した。
「行こう、本物の雪を見にさ。わたしが大人にしてやる」
目の前に差し出された細く白い手。まだ名前しか知らない娘の手。出会ってから、もう何回取ったことだろう。恐る恐る触れるとやっぱり冷たい。暖かい店内にずっといたとは思えない。
「手、冷たいな」
「まぁな」
そっと握る。頭の中に祝福という言葉が残っている。一人でいるのが自分に似合いだとは思う。もう、諦めていたつもりだった。
「行こう」
「……おう」
人恋しかったのかもしれない。彼女が可愛いから、というのも、ないと言ったら嘘になる。何より、祝福の受け取り方というヤツが心に刺さっていた。
そして今、俺とセッカは小樽行きの船を見上げている。
「さー乗るぞ!」
セッカは右手に俺の手を握り締め、左手にはチケットを掲げている。あまりのテンションの高さに周りの人が笑っている気がする。
「なあ、もう少し静かにだな……」
「いいじゃん船! わたしは船に乗るのはじめてだ!」
「俺もはじめてだ」
「そうか! なんだってはじめてはいいものだ!! ひゃっほう、自由だー!!」
溜め息しか出ない。せめて兄妹に見えてればいいのだが、どう見ても援助交際カップルにしか見えないだろう。俺、まだスーツ着てるし。いい加減着替えたい。
「なぁ、不安か?」
「何が」
「祝福を意識するのは初めてなんだろう。いいまじないの言葉を教えてやる」
セッカは自慢げに笑った。
「『ええい、ままよ』だ」
「…………は?」
「言ってみ?」
「……えーい、ままよ?」
「声が小さい!」
「お前の声が大き過ぎるんだ」
「ほれ、もう一度」
「ええい、ままよ……」
「ま、いいだろう。忘れるなよ!」
どういう意味だ! ほんとに祝福なんてあるのか、不安になる。俺はセッカに引っ張られながら、ジャンボジェットのタラップのように立派な乗船口をゆっくりと登った。
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