淡雪

斉藤ハゼ

多摩センター

 べたべたの白が降っている。雪とも雨とも呼べぬ、中途半端な何か。吐く息の白さも心もとない。ビニル傘に、ぼたっぼたっと重いものが張り付く。俺の足はどこへ向かってるんだろう。そんなの足に聞いてくれ。知るものか。真っ直ぐ歩けない。真っ直ぐ歩こうとする意志が保てない。ふらふらと歩く俺を、若い男女が大きく避けていった。頭上を見ればキラキラの星、まがい物の星の群れ。街路樹をLEDで痛々しいまでに飾り立てた……あれだ、イルミネーション。忌々しいクリスマスは過ぎたってのに、いつまで光ってやがるつもりだ。正月はもっと静かにしぃんと澄んだ中で迎えるもんだろ。

 空を見上げたら、べたっと俺の眼鏡に白い塊がこびり付いた。くそったれ。声にならない悪態をつき、また歩き出す。大体、俺たちには正月もクリスマスも盆も何もかも、関係ない。なのに世の中は浮かれて、ピカピカと光りやがっている。

 懐の携帯電話を取り出し、チラと眺める。バイブレータが震えたような気がしたけどなんの着信もメールもなかった。錯覚だ。いいじゃないか。どうせ俺を呼び出す存在は一つしかない。そうだ、会社だ。俺は、明日、休みなんだぞ!

 一年間、毎日終電まで働いてやっと貰えた休みが一日! 今日は十二月二十八日、正真正銘の仕事納めだ。なのに、いつ、呼び出しがかかってくるかびくびく怯えている。俺は携帯電話の電源ボタンに指をかけた。こいつをぎゅっと三秒、押し続ければいいのだ。俺は「電波の入らないところ」に行ける。押せ、押しちまえ。本物の自由を勝ち取れ!

 電源ボタンを長く長く押す。携帯の画面がふっと暗くなり「See You!」という文字とともに消える。でも、指を離せなかった。電源のボタンを押し続けていると、一旦真っ暗になった画面が再び点り「Welcome!」 なんて小憎たらしい表示。ウェルカム、ウェルカム、仕事の世界にウェルカム。俺の自由は一秒間だけだった。

 俺の仕事はカスタマエンジニア。エンジニアと言えば聞こえはいいが、要は背広を着た修理屋だ。パソコン、スーパーのレジ、銀行のATMのような端末から、役所と役所を結ぶネットワークのような広範囲に影響の出る基幹システムまで。とかく機械保守と点検を行うのが仕事だ。もちろんトラブルの際には電話一本で駆けつけて修理にあたる。だから、休みといっても真の休みではない。家にいても出かけていても、二十四時間、いつ何時呼び出されるかもしれない。俗に言う「待機」ってやつだ。ニュースで銀行のシステムがダウン、なんて話がたまに流れるが、そういう時は必ず顧客から呼び出されたカスタマエンジニアたちが必死の形相で駆け回っている。

 地面のやつが頼りなく揺れる。酒のせいだ。どれほど飲んだかもわからない。記憶もあやふやだ。今すぐ会社から電話がかかってきても仕事なんて無理だ。いや、会社に戻ることすら。

駅に向かう人の波を避けるように、俺は奥へ、奥へと歩いていく。いつまでたっても電飾が俺についてくる。

 東京の薄っぺらな寒さでも、人は冬が嬉しいのだろうか。傘を差しちまうような、べたべたの雪しか降らないのに。どうして俺、傘なんか差している? 雪だぜ、おい。いや、こんなものを雪だと呼べるか?

 ふらりふらり進むと、ひときわ明るいピンクの派手な城が近づいてくる。いつも職場の窓から見えている屋内型遊園地だ。女の子と外国人観光客に人気の高い、夢の城。きっとこの中でもPOSシステムが動かない! なんて俺たちを呼びつけるヤツがいるんだろうな。で、慌てて駆けつけてみたら「すいませぇん、コンセント抜けてました」なんて白々しく笑うんだ。いや、笑う方ならまだいいか。「コンセントが抜けるようになってる方が悪い!」なんてキレられるに決まってる。

「ああもう鬱陶しい!」

 すべてが光り輝く世界に嫌気が差して、大きく手を振り回すと地面がぐるりと回った。

「わっ!」

 地面に俺の体が叩きつけられる。

「……んだよッ!」

 濡れた歩道に足を取られた。酔ったあげくに滑って転ぶなんて、不様にもほどがある。目の前の城が、電飾が、何もかもが俺を嘲笑っている。仕事しか能のない三十過ぎた独身男。その仕事だって、客の愚痴と見当違いの怒声を浴びながら、機械のパーツを交換するだけのこと。

給料は安い、誰にも感謝されない、やりがいなんてものもない。だからといって、このくそつまらない仕事を辞めたとして、俺は家にいても、することも、したいことも、ない。将来の希望も、夢も、趣味も、貯金も、何も何も。あるのはただ今がイヤだという気持ちだけ。

 無意識のように内ポケットを探って、携帯電話を取り出した。社用携帯。着信なし。私用携帯、着信二件。一つは知らない番号からの着信、市外局番は022、仙台市。もう一つは電話帳に登録されている。こっちは後回しでいい。022から始まる番号を選んで、じっと耳を澄ませる。コール。コール。

「もしもし」

「あらぁ~ 令太くん? 私、二日町の叔母さん。元気? すっかりご無沙汰してるわねぇ!」

「どうも、ご無沙汰しています」

 最後に会ったのは親戚の葬式の時だ。二、三年前にはなろうか。

「あのね、あなた回りくどい話嫌いだろうから、単刀直入に言うけれど」

 その、「あなた回りくどい話嫌いだろうから」の部分が十分に回りくどい、ことを叔母は未だにわかってくれない。

「叔母さんたちの、養子にならない」

 ほら来たぞ。子供の頃から何回聞かされたと思っているんだ。曰く、叔母夫婦には子供がいない。次男の俺に叔母の家を継いでほしい、別に土地家屋は俺の代になったら好きにして構わないから。

「令太くん、東京のお仕事は忙しいんじゃあないの。こっちに帰ってきて落ち着いて、私たちの仕事を手伝ってくれないかしら」

 叔母の嫁いだ家は地主の筋で、不動産収入だけでも暮らせるという。なんともご立派な餌だ。だが、彼らがその餌で釣った俺で、もっと大きな釣りたいものがあることを知っている。

「理一、深雪ちゃんと結婚するんですってね」

 決まったかどうかも定かでない話がもう広まっている。田舎の噂話は一夜にして千里を走る。

「でも、理一くんって、お兄ちゃんだけど頼りないわよね。叔母さんは令太くんの方が社長に向いてると思うんだけどな。おじいちゃんだって令太くんのことを一番可愛がってたでしょ」

 どう見ても兄貴の方が学歴も人格もご立派だ。俺は出来損ないの次男坊で、だからこそじいちゃんは俺を可愛がってくれたのだ。

「ま、そんなのはどっちでもいいわ。叔母さんたちは令太くんにうちの後を継いで欲しいの。詳しい話をしたいからお正月に仙台に帰ってらっしゃいよ。おじいちゃんの具合も最近落ち着いてきたし」

「叔母さん……俺は、三十日から仕事なんだ。正月も仕事、ずっと仕事」

 俺を使って祖父の会社を自分に都合よくしようなんて考えはやめてくれ。俺には、あなたたちが期待しているような力はない。俺なんか放っておいてくれ。

「大事な話よ、一日くらいどうにかならないの」

「ならない。俺たちもお客様あっての商売だからね、叔母さんたちみたいに年貢の取立てみたいに集金さえしてればいい身分とは違うんだ、それじゃ」

 返事を待たずに電話を切った。酒の力のなせる業だ。くそっ。胃の辺りがむかむかするのは酒のせいなのだろうか。

「さて、と」

 もう一つの着信履歴を呼び出して、じっくりと眺める。画面には「佐藤理一」とだけ。その後ろにバカとかクソとか、いくつ罵倒の言葉をつけてもつけたりない。深雪を。深雪と。あいつが。はぁ。

 内ポケットが震えた。今度は社用携帯の方だ。画面を見るとメールだった。


【題名】サービス二課の小山田さん本日ご逝去

お疲れ様です。サービス二課小山田さんが、本日夜八時頃、お亡くなりになりまし

た。急性心不全だそうです。葬儀等どうなるかまだ見通し立ちませんが、おそらく

年明けでしょう。会社的な対応もまだ決まってません。取り急ぎ同報メールでした。


 声も出なかった。ついに今の営業所からも死人が出た。隣の課とはいえ、欠員が出た影響は大きい。俺の所属するサービス一課でもフォローをする必要があるだろう。ますます忙しくなるってわけだ。

 小山田さん。去年の忘年会で少しだけ話をした。五十近い落ち着いた人で叩き上げのサービスマン、管理職にならず、あるいはなれず、二十年近く主任のはずだ。現場に居続けた代償。

俺が曲がりなりにも大卒だと知るとしきりに勿体無い、勿体無い、大学まで出たならもっといい仕事があるはずだ、早く使う側になりなよ、と言うのだった。でも、田舎の工業高校を出ただけだから学がなくて、と笑う小山田さんの方が俺にはよっぽど羨ましかった。家庭があり、生涯一サービスマンとして勤めて行こうとする姿勢があり。身体を支える確かなものが俺にはない。

 その小山田さんが亡くなった。間違いなく過労だ。でも労災なんて下りはしないだろう。そういう場所なのだ。さっきまで生きていたはずの人が、今、いない。なんてあっさりした現実。

「泥みたいだな、俺ら」

 不意に言葉が漏れた。

「俺もいつか、死ぬのかな」

 ははっ、いつ死んでもかまわない。俺には何もない。守るべきものはない。そんなに大切なものもない。好きなものもない。もう、何もない。辛いと感じる心すら。どうして運命みたいなものは俺じゃなくて小山田さんを選んだんだろう。

 城の前の欄干にもたれかかる。頭が重い。寒くはない、むしろ今、眠ったらさぞかし気持ちがいいだろう。俺は目を閉じた。雪のふりをした何かがべた、べた、と音を立てて身体に載る。一向に雪に変わる気配はない。このまま眠っても、凍死すらできない生温い東京の冬。手に握り締めた携帯が重たげに身震いした。えーと、これは私用。兄の理一からだ。

「令太……落ち着いて聞いてくれよ」

「よう、おめでとう」

「バカッ!」

 あまりの勢いに耳がきーんとなった。理一の声はいつだってデカい。

「ノレコが、死んだんだ」

「え」

 ノレコは俺と深雪が河原で拾った猫だ。ダンボールに詰められて川を流れていたところを、無理やり引っ張り上げたのだ。ノレコ。変な名前だ。

「十五歳だからさ、猫としては大往生だけど……」

「なぁ」

 電話の遠くからすすり泣く声が聞こえた。三十四歳、男の嗚咽が三百キロ以上を越えてやってくる。とても結婚のことは聞きだせそうにない。

「去年の写真メールするな。仙台に帰ってきたらノレコに手を合わせてくれ。令太のこと、好きだったから」

 死んだ鳩やら鼠やら、青と黄色で彩られた小鳥やら、を枕元にせっせと運んでくれることが好意であるならば、ノレコに一番好かれていたのは俺だろう。その後も理一はぐすぐすとノレコのことばかり語り、一方的に電話を切りやがった。

「嫌味も言えなかった」

 小山田さん。ノレコ。みんな死んでしまった。俺はここにいるのに。握り締めた電話がまた唸る。叔母さんだ、もう話すことはない。

「死にでもしなけりゃ、放っておいてくれないのかね」

 一生、誰かの思惑に使われたり、誰かの気持ちを推し量ったり、うまくいかないことだらけだ。仕事は面倒くさい。故郷は面倒くさい。とにかく生きることが面倒くさい。自分を停止したかった。この世界の記憶、記録から消えられないものか。

「死んだら、誰か悲しんでくれるのだろうか」

「死ねたらいい……かな」

 独り言を橋の下に一つ一つ、落としていく。

「死ぬのって、どうやるんだろう」

 

「死にたいのか?」

 その声は雪みたいに上から降ってきた。低く抑えた、少女のような声。すぐ溶ける、みぞれみたいに現実味のない声。

「え?」

 振り返ると橋の欄干に少女が座っていた。俺の目を見て笑っている。まるで綿雪のようにふうわりとした笑顔。

「死にたい、って今言ってただろう」

 白い肌、栗色の髪。白いニットパーカーには雪の結晶模様。可愛いらしい格好と裏腹に、言っていることだけが物騒だった。

「死にたい……っていうか、その」

 顔立ちはどう見ても十代。女の年はよくわからないが、多分高校生くらい。十歳は確実に若い娘がおっさんに向かってお前とはなんだ。

「あの、何? 宗教の勧誘かなんか?」

「わたしは……そうだな、サンタの娘さ」

「はぁ?」

 寝言は寝てから言え。ややこしい奴に関わってしまった。


「あのさ、大人をからかうもんじゃないよ」

「大人? お前が?」

 そう改めて問われると困る。三十過ぎたって大人になれた自覚なんか持てなかった。

「少なくともお前よりは大人だ」

「ふぅん」

 俺の顔をまじまじと見て、薄く笑った。馬鹿にされてる!

「うるっさいな、なんだよさっきから!!」

「願いを叶えてやろうっていうんだよ。サンタクロース、知らないのか」

「バカか! サンタが来るのはクリスマス! 今日は十二月二十八日だ」

「バカはお前だなあ」

 その娘は、さも同情したかのように首を振る。

「本物のサンタは新年とともにやって来るんだ。新年に願いごとを叶えるのさ」

 そんなサンタ、聞いたことない。胡散臭い。すごく胡散臭い。やっぱり変な宗教だ。

「あーもうわかったわかった、よそを当たれよ、俺には願い事なんかなーんにもないんだ」

 手を振って女を追い払う。やだなあ、空気の読めない人って。

「いいのか? 死なせてやってもいいんだぜ」

 物騒なことをあっさりと言う。

「それとも、オヤマダの命でも請うか? 猫のほうか?」

 今、なんて言った。

「サンタの娘にわからないことはない」

 少女の後ろでピンクの城がぴかり、きらり、と光る。空から降るのはみぞれ。なのに背筋がすっと寒くなった。

「おまえ……」

「ま、死んだ命を救うのは、わたしにも無理なんだけど」

 少女はちらりと赤い舌を見せた。どうして小山田さんやノレコのことを知っている。

「命以外のことなら、まあまあなんとかなる。どうだ、すごいだろう」

 薄い胸を張って威張る娘がだんだん怖くなってきた。うまく言えないけれど、コイツ、なんかやばい。

「なあ、願いを言えよ。サトウレイタ」

 俺の名前まで言い当てた。

「願いなんかない」

「うそつき」

「嘘なんかじゃあない」

「なにかあるだろう、さっきは、死にたいって言ってた」

 死にたい……のだろうか。

 そりゃ願いならたくさんある。残業したくない。満員電車に乗りたくない。客に嫌味を言われたくない。いっそ働きたくない。ただぼんやりと人と関わりを持たず、ひっそりと生きたい。

 でも、それらを全部手に入れたとして、結局俺は何がしたい? 何が望みだ? 時間と金があったって、やりたいことなんか何もありはしない。楽に生きたいという願いは、楽に死にたいという願いとどこが違うのか。

「ふむふむ」

 目の前の少女が相槌を打つ。何がわかるっていうんだ。俺の前髪からみぞれの雫がぽたぽたと散る。くそったれ。

「じゃあ、最終的に死ぬとして、どこか最後に見たいものはないか」


「本物の……雪」


 俺の口から漏れたのは、俺自身も考えてもいない言葉だった。

「本物の雪が見たいんだ。ニセモノじゃなくて、雪がみたい」

 死ぬ前にもう一度だけ雪が見たかった。そうだ、雪。傘のいらない、本物の雪。

「面白いな、それ」

 少女が欄干からぴょんと勢いをつけて降りた。光り輝く城の前で、俺に向かって笑う。

「行こう!」

「どこへだよ」

「本物の雪のあるところさ」

 彼女が真っ直ぐ俺に手を差し伸べた。なんのためらいもない腕。俺は、小さなその手を取ってしまった。

「行こう」

 少女が俺の手をぐいっと引っ張る。俺の手からビニル傘が落ちた。


    ◇ ◇ ◇


 赤い。何かが赤く光っていた。プレゼンテーションをする時のスライドみたいな赤、光の赤。セロハンの赤。タタンタタン、と小気味良く世界が揺れる。それに混じって甲高いリズム。耳障りな音……まるで電車みたいな。電車?

「あ?」

 目を開けると電車の中だった。通勤電車みたいに横向きの細長い座席じゃない、新幹線のように席が行儀よく進行方向を向くやつだ。恐る恐る辺りを見回すと座席は八割方埋まっていた。みんな目を閉じている。腕時計に目を落とすと二時半。ここはどこだ。

「起きたか」

 空いていた隣のシートに、少女がするりと滑り込んできた。

「すみません、あの……どちらさま」

「なんだよ、覚えてないのかわたしを」

 むすっとして少女が頬を膨らませる。どこかで会ったか? 栗色の髪に白いニットパーカー、多分高校生くらい。細かい形容はよくわからないが、可愛い、と思う。

 俺が考え込んでいると、本物の雪、と彼女はそうつぶやいた。

「本物の雪、見たいつったろ、サトウレイタ」

「あー!」

「デカい声出すなよ、寝てる人もいるんだから」

「多摩センターの!?」

「やっとわかったのか。記憶なくすほど酔っ払うなんて馬鹿だな」

 頭の中に一気に記憶が流れ込んでくる。俺はこの娘と多摩センターで会ったんだ。ピンク色の遊園地の前で。そして願いを言った。それで。

「なあ、ここどこだよ!」

「さっき越後湯沢を過ぎたところだ。東新潟機関区の」

「東……ニイガタ」

 慌てて窓の外を見るとうず高く雪が積もっていた。踏み切りが眼下を過ぎていく。警告灯の赤が雪の壁に反射してぼうっと光る。

「まだ新潟じゃない。新潟着予定は四時五十一分」

 彼女はよどみなく答える。

「今乗っているのは二十三時九分新宿発、下りのムーンライトえちご、だ」

 職場から新宿まで約五十分。そこからムーンライトなんとかに乗って、新潟行きの電車か。やばい、本当に記憶がない。

「まあわたしに任せておけよ」

「何を任せろっていうんだ。だいだい何者なんだ? 何が目的だ」

「――セッカ」

「は?」

 彼女は身を乗り出し、俺のそばの窓ガラスにセッカ、と書いた。

「わたしの名前だ。覚えとけサトウレイタ」

「なっ! そのフルネームで呼び捨てにすんのやめろ」

「なら、なんて呼べばいい」

「普通いろいろあるだろう、佐藤さんとか、令太さんとか」

「じゃあ、レイタだな」

「なぜ呼び捨てる!」

「わたしのこともセッカとよんでいい」

「あったりまえだ!」

 なんで俺が推定女子高生にレイタ呼ばわりされなきゃいけないんだ。俺が向こうを呼び捨てるのは当然でも、年上の人間に対していろいろあるだろう。なんか、その、敬意とか。

「自分のことを大人だと思っているのか?」

「え」

 不意をつかれた。俺はまだ、大人だという実感が湧いたことがない。そりゃあ年齢こそ三十一になって税金も納めてるけれど。おっさんだなと思うこともある。でも、自分をまだ大人だと思えない、熟さないまま腐っていく青いだけの蜜柑。

「大人だったら、レイタさん、って呼んでやるけどな?」

「あーもう。好きなように呼べよ」

「じゃあレイタ」

 いちいち腹が立つ。しかし、このムーンなんとかが新潟に着くまでの辛抱だ。新潟に着いたら、そのまま始発の新幹線で帰ってやる。酔っ払ったあげくに、知らない女の子と電車に乗って新潟まで来てました、なんてとんだ武勇伝だ。誰も信じないぞ。ひょっとして何か盗られてたりしないだろうな。財布……ある、眼鏡、かけてる、腕時計、してる。携帯電話その一、ある……携帯電話その二……あれ?

「探し物はこれか?」

 セッカの手につまみ上げられていたのは、まごうことなき俺の会社用携帯だった。

「返せよ」

「しっかり起きたんなら、返してやるよ」

 セッカが携帯を放ってよこす。

「お前、酔っ払って落としてたんだぜ」

「そりゃどうも」

 慌てて画面を開く。特に新規の連絡は来ていない。あとは朝一番の依頼が来ないことを祈るばかりだ。

「ま、新潟に着くまではもう少しかかる。酔いを冷ますんだな」

 セッカがミネラルウォーターを放ってよこしてきた。黙って飲む。少し落ち着くと、また頭が重たくなってきた。窓の外は相変わらず見事な大雪だ。さぞかし新潟駅も雪に包まれているのだろう。新潟で久しぶりに雪を拝んで帰ってやる。電車のリズムが眠気を誘う。少しずつ意識が遠のいていった。

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