雨ではなく、雪でなく(後)

 俺は駅前を走っていた。まだまだ長引きそうな部内ミーティングを、電話に偽装した携帯のアラームで脱出したのだ。街はイルミネーションで彩られていて人がやけに多い。家族連れやカップルがLEDで作られた動物を見て笑いあっている。電球でデコレーションされた木々をじっと見上げている。木のてっぺんには大きなまがい物の星。クリスマスと呼ぶにはしまりのない、気温の下がらない東京の冬。

 深雪。

 あいつは十分も待たせていたら、すぐにどっかに行ってしまう。早く行って、首根っこ捕まえてやらなきゃいけないのに、もう時刻は十九時を過ぎている。会うのは二年ぶりか? それとも三年ぶり? 駅の階段を駆け降りて、小田急と京王の改札、両方に素早く目を配る。

「あ」

 百七十センチオーバーの身長が壁に寄りかかっていた。正直いるとは思っていなかった。

「深雪」

「遅いじゃないのよ」

 胸元がV字に開いたシンプルなニットにロングスカート、足元はブーツ。うまくいえないがすっかり女らしい格好に変わってしまった。髪の毛は短くしたのをふわっとしたパーマにして、そこいらを歩いている洒落た女の人に引けを取らない。深雪なのに。

「仕事中だって言っただろ」

「でも遅い」

 深雪はすたすたと駅の外へ歩き出した。

「どこ行くんだよ」

「何その格好」

 職場からそのまま逃げてきたから、社名入りの作業服を羽織ったまんまだ。

「会社ではこーいうの着るの」

「やだおじさんみたい」

「若くはない」

 深雪は歩くのが速い。周りの人間にもイルミネーションにも目もくれず、大またで歩く。俺もそれに合わせてすたすたと歩く。俺と深雪は爺さん似で、一族の中でもとりわけ背が高い。俺はいつの間にか猫背で歩くようになったけれど、深雪の姿勢は今でも美しかった。

「痩せたか?」

「どーかな」

「ファミレスでいいよな? 俺すぐに仕事戻るからな」

「あ、ここにしよう」

 深雪は突然駅横の雑居ビルの中に入っていった。俺もよく使う居酒屋へ迷わず歩いていく。

「人の話を聞け」

「ここ、結構美味しいんじゃない?」

「なんでわかるんだよ」

「オーラ」

 深雪はそう言い放つと、店の中へ入っていく。クリスマスの夜、店はずいぶん繁盛していた。

「カウンターなら空いてるって」

 深雪は、顔を合わせてから、はじめてにっこりと笑った。

 今にも消え入りそうな細い目。その顔は爺ちゃんによく似ていた。認めたくないが、俺にも。


「はい、カンパーイ」

「乾杯」

 深雪が嬉々として中ジョッキを掲げる。俺はウーロン茶だ。

「久しぶりだねぇ、レイくん。いつぶりかな。君子おばさんのお葬式以来?」

「石巻の結婚式に呼ばれた時の方が後じゃないか?」

「あははは、どっちが後だったかなあ。ほーんと親戚多いから」

「まあ、二年ぶりってとこか」

「そうだねぇ」

 お通しの鳥のハツのしょう油煮をかみ締めて、甘い、と深雪はつぶやいた。

「ここはうまい方だよ」

「でも、甘い」

「俺たちの口にはな」

 深雪は不満げに大根サラダを噛む。

 俺はご飯セットの味噌汁を黙って飲む。ここで早めの晩飯にして、終電まで仕事をやろう。

「うちのお父さんねー、十二指腸潰瘍なんだって」

「ああ……あの人、周りに気を使いすぎてそうだもんなあ」

「それ、関係あるの?」

「ストレスが原因でなるって聞いたことある」

「へー。お父さん、気が小さいからなあ。性格で病気にあるのはたまらないね」

「まあね」

「塩分の取り過ぎに気をつけましょう、なんてのは出来そうだけど、他人の目を気にするのをやめましょうとか、小心者をやめましょう、って難し過ぎだよ」

「……まあな」

 俺も、深雪も、気は小さい。

 それだけに、時折とんでもなく投げやりになるのが深雪で、身動きがとれなくなってしまうのが俺だ。

 結婚……するんだよな、コイツ。

「なあ」

「東京には今日来たんよ。んで日帰り。終電で帰る」

「急だな」

 日帰りという言葉を聞いてほっとする。泊まる! とか言い出したらどうしようかと思っていた。

「日帰りで、何しに来たんだ」

「ん……すごく、好きな人、がいてね」

「それって」

 誰なんだ、相手は。

「役者さんなんだけどね」

「役者!?」

 そんな社会的身分の曖昧な人間と結婚するのか。茨の道じゃあないのか。

「そう。お芝居観に来たの」

「あ……」

 そうか。東京に来た理由だったっけな。

「でね、すっごく好きな役者さんがいるの」

 深雪はおだやかに笑いながら、ぐっとジョッキを飲み干した。店員に視線を投げると、店員がうなずいた。

「ああいうの、ひとめぼれっていうのかな。気が付くとその人のしぐさや表情のひとつひとつから目が離せなくなってた」

 カウンター越しに、すぐに深雪に新しいジョッキが手渡された。この店は味もさることながら、こういう部分が俺は気に入っている。

「格好いいとかイケメンとかじゃないのよ。どっちかって言うと……どこにでもいる人、だと思う。演技力がすごくあるわけでもないし、滑舌悪くてセリフもたまによくわかんないし」

 深雪の目がきらきらと光っている。暖色の灯りがよく映える。

「でも、すごく……柔らかい優しい声の人。それにね、身長百六十三センチくらいしかないのに舞台の上に立ってると、すっごく大きく見えるの あれ、不思議ね」

 小さいのに大きい人間、か。まるで兄貴のことみたいだ。兄貴は誰に似たのか背が小さい。俺はもちろん、深雪と並んでも十センチは下回る。でも……人間は俺よりずっとでかくできている。シャクだ。

「今日は千秋楽でクリスマスだから、客席にキャラメルを配ったんだよ。ほら」

 彼女の手の中に、黄色いキャラメルの箱があった。

「私、その人から貰っちゃったー。きゃー。あーもう、冷凍保存しておこうかな!」

 深雪の目がきらきらと光る。ああ、あいつの目が光るのは、好きなものについて話している時なんだな。子供のように目を輝かせる深雪の前に、カセットコンロと鍋が運ばれてきた。

「こちら、雪見鍋になります」

「カセットコンロだね」

「……そうだな」

 あの夜のことが心にのしかかる。あの日を境に深雪は頻繁に、いろんな男と付き合うようになった。自分の心に平気で嘘をつくようになってしまった。俺は心に鍵がかかってしまったようで、深雪をどうしてやることもできなかった。深雪を荒れさせたのは俺のせいだ。

「あのぉ、なんで雪見鍋って言うんですか?」

「大根おろしがたっぷり入ったお鍋なので、それを雪に見立ました」

「ああ、なるほどぉ~。綺麗な冬のお鍋ですね!」

 店員の兄ちゃんが顔をほころばせた。深雪は教える人間をいい気分にさせるのが上手い。知ってるくせに。

「みぞれ鍋だな」

「そうとも言うね」

 カセットコンロの青い小さな炎がともる。

「私、その劇団のお話も好きなんだ。必ずハッピーエンドになるから」

「ハッピーエンドねぇ」

「照明の当たってる世界くらい、そういう決まりがあってもいいと思うんだよね」

 深雪の頬がほんのり赤い。ジョッキももう空だ。こいつ、どれくらい酒飲めるんだっけか?

「大丈夫か、深雪」

「平気。レイくんみたいに二升は飲めないけど、五合くらいなら」

「そうでした」

 おばさんの葬式の時、ロウソク番の俺と深雪で三升空けたのは親戚中の語り草になったっけ。

 蓋をされた土鍋の奥で、具材が煮える音が高鳴る。

「そろそろ良さそうだよ」

 深雪が小皿に取り分けてくれた。大根おろしにたっぷりと七味を振る。糸唐辛子代わりのアクセントだ。

「こんな水っぽい雪じゃあ、やっぱりみぞれだね」

「まあな」

 仙台なら十一月の終わり頃に降るような、雨とも雪ともつかぬ何か。傘をさせばずっしり重く、雪だからと甘くみると人の肩や頭に積もり喰い付いてじっとりと服に染み、体の芯まで濡らしやがる。どっちつかずのやっかいもの。

「鍋って言えばさー、東京にリイッちゃんがすっとんで来たことがあったね」

「バイクの後ろにクーラーボックスくくりつけてな」

「真冬の東北道を三時間で駆け抜けた! ってすっごい自慢してたよね」

「ほんと、アホだ」

「でも……あの時、リイッちゃんが作ってくれた吉次鍋、すっごく美味しかった」

「あいつ、ご丁寧に白菜まで背負ってきたからな」

一年間だけ、俺と深雪が東京で学生をやっていた時期があった。理一だけが一足早く仙台で就職していたが、ヤツは必要以上に東京に押しかけてきた。


 * * *


 もう十年は前になるのか。

 林立する酒瓶とコタツに埋もれるようにして、深雪はすっかり眠っていた。理一は深雪の頭を撫でながら、じっと寝顔を見つめている。困ったような、嬉しそうな、ややこしい顔で深雪をじっと見ている。

「よだかみたいな、気持ちなのかな」

「深雪か?」

「うん、深雪ってさ。もう自分の居場所はない、って思い込んでる気がするんだよ。それであえて修羅場に身を突っ込むんだ。『よだかの星』に出てくるよだかが、地面に落ちようとするように」

 深雪は今度もまた手痛い恋愛をした。何角関係だか忘れたが、ややこしくてなんのメリットもなさそうな人間関係の渦に首を突っ込んで、巻き込み巻き込まれてもがいていた。

「令太はさぁ、深雪の側にいるんだし、年も近いんだし、もっとしっかり見てくれよ。頼む」

 煙草に火をつけて吹かして、理一への返事をうやむやにごまかす。俺は深雪のことを見ないようにしていた。深雪がどうしてよだかみたいに振舞うのか、その理由を考えたら、それは無理な相談だ。

「早く仙台に帰ってこないかなあ、深雪」

「アニキ、そんなに深雪のこと気になるのか?」

「おうよ。令太は気にならんのか?」

「なるさ。妹分だからな」

「なるほど、妹分だからか」

 深雪の頭上に迫った俺の煙を理一がぱたぱたと手で追っ払う。

「俺はさあ、令太」

「おう」

「待てるから」

 流行の形をした伊達眼鏡の下から、理一がじっと俺を見ていた。くそ、視力いいくせに眼鏡かけるとか意味わからねえ。ド近眼の俺への嫌味かよ。

「何を待てるのさ」

「深雪がおまえを諦めるのが早いか、おまえが深雪を好きになるのが早いか」

「好きも嫌いもねぇよ、深雪は深雪だ」

「その保留をさ、俺はまだ待てるからってこと」

「どういう意味」

「俺は深雪で抜いた!」

 言葉より先に拳が出た。当たりは軽かったが、奴の眼鏡が部屋の隅に吹き飛んでいった。この小男は突然何を言い出すのか。深雪をそんな汚らわしい目で見てたのかこのド変態。

「おまえはないの? 深雪で抜いたこと」

「ないわこのロリコンッ」

 腹が煮え繰り返るってこういうことか。すごく大切なものを汚された気分だ。

「ふぅん……まーいいや、俺はまだ待てるから」

 グーはねぇよなあとぼやきながら理一は深雪の髪をいじりはじめた。それから後は、何も言わなかった。


 * * *


「リイッちゃん、あの時なんで東京に来たんだっけ?」

「さぁなあ、理一オタクだから、秋葉原とかに用事あったんじゃねぇの?」

 本当は、深雪が男に振られて傷ついていると知ったからだ。理一は、深雪には悟らせないくせに、俺にはその気持ちを最低の言い方で明かしやがった。

「リイッちゃんはさー、お兄ちゃんだから、辛い時いつでも来てくれる気がする」

「お兄ちゃんだから、って深雪は思うのか」

「うん。でも、レイくんはお兄ちゃんじゃないなあ」

「俺は頼りにならんか」

「お金を借りるならリイッっちゃんだね」

「将来の社長と下請けのサラリーマンじゃなあ」

「あ、でも今日はレイくんのおごりね?」

 深雪がちゃっかりと笑う。まあいいさ、最初からそのつもりだ。

「お前、どーせ金ないだろ」

「うん、今回のお芝居すっごく観たくってさー、神戸に名古屋でしょー。で、東京も今日で三回目だから、それで貧乏」

「どっからそんな金が出てるんだよ」

「実家暮らしだし……働いてるもん」

 深雪がジョッキを両手で持ちながら、むっと俺を上目遣いで見た。そうか。深雪だって働くんだよな。俺の中に、そういう発想が綺麗にすっぽ抜けていた。俺の中にいる深雪が、いつまで経っても大きくなってくれない。ずっと、セーラー服姿のままだ。

「どんな仕事なんだ?」

「仙台駅でお弁当を売ってる会社の事務」

「それって」

「レイくんのお父さんの会社にお世話になってます」

「親父の会社っていうか、爺ちゃんの会社だろ」

 あと十年か二十年も経てば理一の会社になるのだろうが。

「仕事、大変か?」

「どうせ田舎会社の総務だし、創業者の孫って立場でしょぉ? ラクなもんだよ」

「そういうもんかねえ」

「うん、どーせすぐに結婚して辞めるだろうって思われてたしさ」

 ついに恐れていた言葉が出てしまった。

「結婚、するんだよな」

 深雪は黙って店員を招いた。

「すみません、この久米仙ブラック、ダブルにしてロックでください」

 俺はずっとウーロン茶だってのにこいつ、泡盛なんか頼みやがって。

「なあ、結婚するんだろう? その、おめでとう」

「相手はどんな人? とか聞かないの?」

「どんな、ヤツなんだ」

「あ、ありがとうございまーす」

 深雪はグラスを受け取ると、ぐっとその透明の液体に口付けた。うらやましい。

「職場の人だよ」

「いいヤツか?」

「とても、いい人だと思う」

「深雪がそういうなら、間違いはないだろ」

「ねぇ」

 深雪がテーブルにグラスを置いた。氷は溶けてないのに、肝心の酒がすっかり空だ。

「止めないの?」

 目の光がぎらぎらと強い。何かを反射している光じゃなくて、自分から発光しているような。

「誰が止めるかって。お前には早く身を固めて、俺を安心させてほしい」

 深雪がどこかの男と結婚してしまえば、俺はもう『イトコと結婚できる』だの『イトコと結婚してはいけない』だの言われずにすむ。何より、俺の中に熾き火のようにずっとくすぶり続けている深雪、という名の選択肢が消える。未来永劫消える。

 俺は深雪の兄なんだから、そんな残り火がどこかに灯っていること自体間違いなのだ。だから俺は喜んで深雪を送り出す。みにくい炎を消すために。

「本当にいいの?」

「ああ」

「私……レイくんの、お義姉さんに、なっちゃうよ?」

 小さな炎に地吹雪が吹き付けてきたかのようだった。

 顔を上げると瞳の光はもう消えていて、その代わり深雪の頬が濡れていた。

「昨日、リイッちゃん、ううん、理一さんに、プロポーズされた。俺と結婚しよう深雪、結婚するならお前がいいって……理一さんが……」

 それ以上の言葉は、深雪からは出なかった。

 カウンターの中から、顔なじみの店長が俺を心配そうに見る。おっさんくさいな、と思いつつ、俺は両手の人差し指で×を作って見せた。カウンターごしに金と伝票がそっと行きかう。

「深雪、立てるか。もうすぐ終電だぞ」

「まだ九時だよう」

「バカたれ、今日中に仙台まで帰るんだろ」

 深雪の肩を引っ張るようにして、俺は強制的に駅へ向かった。

「急げ、あと十五分くらいで終電だ」

「いやだ」

「仙台に帰れなくなるぞ」

「でも、やだ」

「明日仕事なんだろ!」

「やだったら、やだぁ」

 深雪の足が、ぴたっと駅の前で止まった。イルミネーション帰りの人の波が俺たちを取り囲んで流れていく。

 くそ。コイツは川辺で捨て猫を見つけた時も、屋台で気に入りのヨーヨーが取れなかったときも、いつだってこうなんだ。

 進歩がないのか、お前は。

 でもそんな時、俺が取る方法も進歩がない。

 俺は深雪の冷たい手を、そっと握った。

 わずかだけど、深雪も俺の手を握り返してくる。よし。これなら、ちゃんと着いてくる。俺と深雪のこのサインもまた、変わらなかった。

「ホームまで送ってやる。行くぞ」

 幼い頃、七夕の人ごみの中で迷わぬようにつないだ手。地下鉄が開通したお祭り騒ぎの時も、深雪にせがまれて光のページェントを見にいった時も。俺たちは、そっと手をつないだ。

 そして手をつなぐのはこれで、最後だ。


 深雪に東京駅までの切符を買ってやり、俺は定期で京王線のホームに入った。深雪を乗せるべき電車までは少し間がある。ベンチに座らせて、ペットボトルの水を渡しても、深雪はずっと黙っていた。でも、聞いてはいるはずだ。

「よく聞けよ、深雪。次の電車で調布まで行って、調布についたら反対側のホームにいる準特急、っていう電車に乗り換えろ。特急だからって追加料金はかからない。終点が新宿で、新宿からは中央線で東京まで一本だ。京王線の赤い方の出口にJRとの連絡口があるから、それを使うとすぐだ。池袋から来たなら、わかるだろ?」

 深雪が頷く。こいつだってもう子供じゃないんだ。

俺が子供じゃないように、深雪も、理一のヤツも、もう子供じゃない。

 電子音声がまもなく電車が来ることを告げる。電車の接近を知らせる鳥の鳴き声みたいな音が鳴り続ける。遠くから灯りが見えた。

「ほら深雪、しゃんとしろ」

「やっぱり、帰りたくない。私、帰らない! 仙台に帰らないッ!」

「ワガママ言うな!」

 深雪と俺の剣幕に、ホームにいる人間がみんなこっちを見ている。クリスマスの痴話喧嘩。そんな風に見えているだろうな。

 でも、これは、そんないいもんじゃない。

 深雪を……妹を、一人立ちさせてやるための、最後の背中の一押し。俺が、深雪の手をつないで歩いていけるのは、ここまでなんだ。

「理一は昔からおまえが好きだったんだ。しかもいい奴だ。安心して嫁に行け」

「私だって……昔から、レイくんのこと」

「言うなよ」

 電車がごぉっと音を立ててホームに滑り込んでくる。

「ねぇ、好きって、なんだろうね」

「さぁな。それは結婚してから見つけろ。アニキとな。そして、理一を幸せにしてやってくれ。お前も、あいつにうんと甘やかされて、幸せに生きろ」

 電車のドアが開いた。まばらに客が降りてくる。

 発車を告げるベルが鳴る。

「俺は、いつだって、お前の、アニキだから」

 深雪の手をそっとほどく。

「さ、行けよ」

 俺が下がると、深雪はよろめいたように電車の中へ下がった。それを待っていたかのように、電車のドアが閉まる。

「バカァッ!!」

 ガラスごしでも聞こえるほどのでかい声とともに、俺の顔に何か当たった。

「いてぇ……」

 過ぎていく電車の中から、深雪はまだ俺のことをにらみつけていた。

「なんだこれ」

 拾い上げてみると、黄色い小さなキャラメルの箱だった。とんだクリスマスプレゼントだ。

 身体のどこかに大きな穴が空いたみたいで、何も感じられない。

「いてぇよ」

 わざと声に出して言うと、はじめて何か痛みに似たものが湧き上がってくる気がした。


 駅を出ると目の前は光の洪水。浮かれ華やいだムードに耐え切れなくて裏道へ向かう。パチンコ屋の脇の階段をとぼとぼ昇りきると、目の前はちょっとした高台だ。多摩丘陵の灯りが眼下に広がる。駅前の装飾過多の光と違い、遠い家々に点る明かりは頼りなさげだ。

 金属製の手すりの冷たさが心地いい。この滑らかな冷たさ。東京では、本物の冬はよく冷えたステンレスくらいにしかない。身体を丸めて額を手すりにつけると、火照った頭の中からいろんなものがすうっと抜けていく。

 深雪のことも。

 理一のことも。

 俺を揺らす余分なもの全部、身体から追い出す。

「よし」

 携帯を取り出し、久しぶりの名前を電話帳から探す。

「さ、と、う、り、い、ち、と」

 出ないかとも思ったが、数コールですぐにアイツの声がした。

「ようリイッちゃん」

「おまえが言うな。……深雪行ったんだろ?」

「今、東京駅方面の電車に押し込んでやったら、キャラメルぶつけられた」

「それくらいされてもいいだろ、オマエは」

「うるせぇ。それより仙台駅まで迎えに行ってやれよ」

「実は東京駅に着いたとこだったんだ」

「ああ……」

 苦い笑いが俺とアイツの間に漏れる。

「もう、待つのは終わりか、理一」

「おうよ、待つのは終わりだ。状況が許さなくなってきてなあ」

「しないっていう選択肢もあるだろ」

「俺もそう思ってたんだ。でも、もう待てないんだよ。俺じゃなくって、状況が待ってくれん。……いろいろあってな」

 いろいろか。

「結婚しなきゃならんなら、深雪しか考えられんから」

「その言い方やめろよ」

「実はさあ、俺、アイツが中学の時にもプロポーズしてたんだよなあ」

「はぁ?」

「えーと、俺が大学三年だから、アイツが中学三年の時かな」

「ひょっとして、指輪やっただろ?」

「やったやった。そしたら深雪のヤツ『広瀬川に投げた』つーんだもん。あれは参ったよ」

「知ってたんだな、深雪は」

 知っていたんだな。理一が深雪のことを、妹としてはなく好きだったってことを。

「俺はさあ、やっぱりお前が止めると思ったんだがな」

「……止めねぇよ、あんな危なっかしい女。他人には任せられん」

「お前が止めたなら、俺は身を引いたかもしれないんだがなあ」

「うっせぇよ二度も言うなこのロリコン、俺は……妹と、結婚するシュミはねぇんだ!」

 理一の言い草がどんどん腹に溜まって据えかねて、俺は携帯電話をぶちっと切ってやった。

 理一も、深雪も、互いに互いの気持ちを知っていた。その上で理一は待ち、深雪はあがいた。

 俺だけが誰かを好きになるという気持ちに向き合わず、深雪のアニキであることにすがりついていた。そうすれば悪酔いのようなわけのわからない自分の気持ちを見て見ぬふりができた。恋愛対象として好きになることもできず、かといって完全に家族にもなりきれず。その俺の曖昧さが、二人を惑わせた。

 雨か雪か、どちらかになりきれたら良かったのに。

 雨か。雪か。

「……」

 胸ポケットの会社携帯が激しくふるえた。主任だ。

「もしもし」

「令太くぅん、ちょっと聞いたわよぉ。アナタ会社の忘年会さぼって、駅前で女の子と手ぇつないで歩いてたんですってぇ?」

 しまった。そんなこともあった気もする。

「主任、どんだけ飲んでんですか?」

「うるっさいわねっ! まだ二次会よ早く来なさい! もう今日はアタシ、令太くんが勘弁してって泣いても帰さないわよォ」

「あぁ……そうっすね、朝まで付き合ってくださいよ」

「あらどうしたの? 理由アリ?」

「失恋、したんすよ。……多分ね」

 電話の向こうから令太くんブロークンハートよッ! と盛りあがる酔っ払いどもの声が聞こえた。俺は奴らの居場所を聞き出し、静かに電話を切った。


 深雪。あいつはいつだって雪みたく清々しい。

 俺の……妹。そう、妹。どうか幸せに。

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あまいものはじめました 斉藤ハゼ @HazeinHeart

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