雨ではなく、雪でなく(前)
時刻は十六時。俺の机には、食べかけのカレー弁当がまだ乗っている。さっきから一口飯を突っ込むたびに、職場の電話が鳴り響く。
「令太くん、足利のサーバ落ちた。足利ってどこ?」
「足利はえーと……あれ、あそこ、栃木」
「あー令太、足柄のリモート監視やって! 疎通も!」
「ちょっと待って!」
「令太さーん今日十六時開始予定の足寄、大雪でまだ現地にたどりついてないそーです!」
「えぇぇぇ、お客さんに電話入れといてー」
一斉に三人から声がかかる。落ち着け俺。
足利は栃木県。原因不明のサーバダウン。
足柄は神奈川県。現在サーバ電源の交換作業中。
足寄は北海道。ネットワークハブの交換依頼で現在出動中。
アシカガ、アシガラ、アショロ。今日は足の日か。
俺の職場はとある保険会社の中にある、ネットワークと機械の保守と管理を受け持つ部署だ。といっても、俺はその保険会社の社員ではない。流通会社はあくまでお客様。俺の身分はお客様と保守管理契約を結んでいる某大手メーカーの社員という設定になっている。実際は系列子会社の社員で出向の身分。よくある話だ。
どこの誰であろうと、俺たちはお客様の会社のネットワークを支える要であることに違いはない。全国に散らばる七百箇所近いの拠点の円滑な業務がわずか数人のメンバーの肩にかかっている。
保守と管理といっても、俺たちが直接現地の営業所に行くことはない。全国に契約を交わした保守会社がある。トラブルが起きた時は現地の作業員が出動して作業を行う。
俺たちは彼らの電話報告を聞いて指示を出す。作業担当者は必ずしもここの会社の機械やネットワークに精通しているわけではない。本部の俺たちは現地には行けないが、ここのシステムに関しては誰よりも詳しい。現地と本部が密に連絡を取り合い、二人三脚で協力して「熟練の作業者」という業務に必要な存在ができあがる。
保守業務そのものは、定期点検の時期をのぞけばさほど件数はない。だが今日のように、障害があちこちで起きて電話が鳴り続ける日もある。トラブルってやつは淋しがりなのか、連れ立ってやってくるのだ。おかげで十五時から食べ始めたはずの弁当がまだ半分も減らず待ちぼうけをしているわけだ。机の上がかぐわしい。
俺は行儀悪くスプーンをくわえながらキーボードを叩き、遠隔操作で稼動状況をチェックする。たしかに足利のネットワークが落ちている。再起動も受け付けない。異常事態。現地に人を手配しないとダメだ。
「令太さーん、足……えーと、足利……のネットワークどうかって確認来ました」
「ふぁわ、はめー」
冷めたジャガイモが喉につかえた。適当な返事だったが、有能な派遣くんは俺の意味を理解して先方に返事をしている。その隙にお茶に手を伸ばすと、今度は会社携帯のバイブレータが響いた。トラブルは続けてやってくる。また、どこかで障害だろうか。
「もひ、もし」
「俺だ、益田だ! 令太、足立の図書館ネットワークのことを教えてくれぇ」
相手は会社の先輩だ。アダチも足。
「すんません、俺も今忙しいっす」
足立の図書館は俺がこの部署の常駐作業員になる時、引き継いでもらった案件だ。本来なら懇切丁寧に答えさせていただく立場なのだが、
「令太さーん、足寄の件でお客さんから問合せ入ってます、俺じゃ負けるっす!」
後ろで派遣くんが呼んでいる。足寄は北海道で雪で遅れてるとこ。
「すんません十九時以降なら多分暇なんで」
「俺は十八時に作業に行くんだよ」
「ほんとすんません」
「二点だけ教えてく」
えい。
益田さんがまだしゃべり続けていたが、耳を離して電話を切った。最後の言葉は聞こえなかったことにする。お客さんと同じ社の人間。どっちが大切かなんて比べるまでもない。
「お電話変わりました、担当の佐藤と申しますが」
「あのね、お宅の作業の人まだ? 帰るのが遅くなって困るんだけど」
お客さまからのお問い合わせ。当然だ。本当ならとっくに作業が始まってる頃合なんだから。俺はへーこらへーこら、今向かっていますので、もう少々お待ちいただけないでしょうかとかなんとか言いながら、足寄に降る雪はドカ雪かな、それとも地吹雪かな、そんなことを思う。口と頭が別々に動くのにはもう慣れっこだ。とはいえ、お客さんに延々と謝り続けるのもいい加減堪える。足寄の作業担当者めー雪じゃしょうがないけど、早くつけー今すぐ到着しろー。
「じゃああと二十分だけ待ってあげるから!」とか言っているところを、くどいくらい「申し訳ありません」を連呼しておいてやっと受話器を置くと、今度は個人携帯のバイブレータが鳴った。誰かタイミングでも計ってるのか。番号を見ると知らない番号だ。でも、知らない番号から電話がかかってくることは珍しくない。どうしても連絡を取りたい相手の場合、会社携帯ではなく、あえて個人携帯にかけて様子を見る作戦がある。きっと益田さんが誰かの携帯を借りてかけてるんだろう。仕方がない。わかってはいるが、出てやるか。
「五分だけっすよ!」
「え? レイくんの電話だよね?」
耳に飛び込んできた声は女の声だった。聞き間違えるはずもない。
「深雪!」
声を荒げそうになって慌てて廊下へ出る。
「今仕事中なんだよ、悪い」
「あのね、今、私、東京に来てるの。今日帰るんだけど、その前に会えないかと思って」
「悪いけど、忙しいんだ」
「ちょっとだけでいいの。レイくんの会社の近くまで行くから」
「夜も仕事なんだけどな」
「レイくん、私、結婚するかもしれない、だから」
電話の向こうでは、ふぅぅっと、深いため息が聞こえた。それっきり、何も言う気配がない。俺は小さく舌打ちをした。
「三分で折り返す」
深雪の返事も待たず電話を切った。
喫煙所で一本吸って気持ちを落ち着かせ、部屋に戻ると派遣くんが待ち構えていた。
「令太さん、さっきの足利、偶然エンジニアさんが現地近くにいたんで、もう営業所に入ってもらいました!」
「足利ってなんだっけ」
「サーバ落ちたとこですよ。もうごっちゃになっちゃいますよね。足だらけ」
派遣くんがニコニコと笑っている。バンドをやりながら派遣の仕事で生活費を稼いでいるという話だが、彼は非常に頼りになる若者だ。うちの社員になっちゃえばいいのに。
「それで原因もわかりましたよ。ブレーカー落ちです」
「栃木足利って、電源足りないのか?」
「違います」
派遣くんはこらえきれないように、ぶふっと噴き出した。
「焼肉です。ははっ」
「焼肉?」
「お客さん、今日は業務を早めに切り上げて、営業所で焼肉大会をやったそうなんです。で、ホットプレート二枚つないだら、ブレーカーダウン」
「サーバも巻き込んでか」
「現地で『肉がぬるくなってます』って言ってました」
「そりゃあ」
よりによって、今日、焼肉をやるとはね。
いや、今日だから、か。
「現地には無停電電源装置のバッテリ交換依頼しました。再起動して、ネットワーク疎通確認取れたら完了っす」
派遣くんの言葉を聞いた主任が指で丸を作る。
「今、ネットワーク通ったよ」
「作業やってた神奈川んとこと雪で遅刻してるとこは?」
「足柄は作業完了。あとは現地から終了連絡を待つだけ。足寄も今、現地も入ったって」
一気に肩の荷がおりた。思ったより早く案件が片付いて実に助かった。これなら……。
「あの、お願いがあるんですけど」
「何だよ」
「もう急ぎの業務はないと思うんですが」
「十七時からミーティングだよ」
「その後に、事務所に戻らせてほしいんですが」
「何か用事?」
「ちょっと足立の図書館の資料を取りに」
本当は、俺のノートパソコンにもその資料は入っている。
「さっき、益田くんが電話してきたよ。『令太のバカァ』って言ってた」
「益田さんなら簡単な作業だと思うんですけど、一応資料ないと電話アシストもできないんで」
「ん……いいよ、行ってきて。あ、そのまま直帰にして忘年会出る?」
今日は俺の本来の事務所の忘年会か。忘れてた。
「や、まだ決めてないっす」
曖昧な返事をして廊下へ出た。非常階段から下のフロアへ降りて、誰もいないことを確認してから、電話をかける。
「もしもし?」
「もう十五分は経ったと思うよ」
不機嫌そうな深雪の声。コイツ、待つの嫌いだからな。でも、謝ったりせずそのまま話を進めてしまう。
「で、多摩センター来れるか? 京王線か小田急だ」
「その辺の人に聞いてみる」
「今、どこにいるんだよ」
「池袋」
「じゃあ、新宿まで山手線に乗れ。あとは一本だ。京王なら橋本行きで、小田急なら唐木田行きに乗るか新百合ヶ丘で乗り換えで」
「そんないっぺんに言われたって覚えらんないもん」
「ま、なんとかして来い」
「言われなくてもそーするよ」
「改札出たところに、十九時集合な」
「くじぃ?」
「いや、夜の、七時」
「なんでそう言わないの?」
朝とも晩ともとれる曖昧な表現より十九時という表現の方が正確で間違いがないと思うのだが、深雪にそんな理屈は通らない。
「仕事中だからな、あまり長くはつきあえないぞ」
「わかってる」
「じゃ、じゅうく……えーと……午後七時に」
「うん、七時ね」
本当にわかってんのかな、アイツは。
深雪。
父方のいとこ。三つ下の腐れ縁で幼なじみで兄妹も同然というか。どう表現しても違和感が残る。俺と兄貴と深雪はガキの頃、爺さん婆さんに面倒を見てもらっていた。
俺たちの年齢が進むにつれ、深雪の面倒を見るのは兄貴と俺になった。アイツは放っておくとどこかに行ってしまう鉄砲玉の性分で、危なっかしい末の妹分を追いかけては、俺達はよく駆けずり回ったものだ。
手元の個人携帯がぶるぶると鳴った。かけてきた相手は俺のいる席。時刻は十七時。
「やべ、ミーティングか」
俺は携帯をポケットに突っ込み、非常階段を駆け上がった。
ミーティングコーナーで主任の話を聞いていても、気がつけば深雪のことを思っている。
結婚するって言ったな。
本気かな。またどっかの男に騙されているんじゃないのか。もしくは冗談とか。アイツは平気でシャレにならない冗談を言い、それを解さない方が悪いと言う。
もし、本当だとしたら。相手はどんな男なんだろう。深雪は、平然と人を傷つけるダメな女だが、その倍くらい人に傷つけられやすく、すぐぼろぼろになる。彼女は偽悪的に人を傷つけようとする。が、彼女の仕掛ける攻撃は存外に可愛らしいもので、普通の人間がそれで傷つくことはなかなかない。でも彼女にとっては渾身の一撃のつもりだ。いつも彼女は他人の頑強さと、自分の脆さのギャップに戸惑っている。
結婚すればそんな危うさもなくなるだろうか。それとも、まだ深雪は逃げているのか。結婚でさえも逃避のための材料か。十二年経っても、あの夜から何も変わっていないのか。
* * *
「レイくーん、お誕生日おめでとー」
「祝ってくれるのは嬉しいけどよぅ」
「うん?」
「なしてこんな場所だよ!」
俺と深雪がいるのは川べりのグラウンドだった。夜もとっぷりと更けて、吹きっさらしのベンチが冷たい。まるで氷に腰かけているみたいだ。首筋から十一月の夜気が忍び込んで来る。近場だからと油断してマフラーをしなかったことが悔やまれた。
空はどっしりと重たく低く、今にも何かが落ちてきそうだ。遠くの水銀灯のおかげで、かろうじて互いの顔がわかる程度の明るさだ。
「だってさ、おうちだと……みんな、いるじゃない」
「みんなって?」
「パパとかママとか」
「んだら俺んちでやれ。兄貴も帰ってきてんぞ」
「知ってる。とにかくイヤなの」
「へいへい」
深雪の「イヤ」は、女の腹の底にくっついた「イヤ」だ。男の俺には理解できない。なんせ理屈じゃないんだから。だから俺はさっさとあきらめる。
「さ、ぐっとやりましょうぜ、旦那!」
俺の紙コップに傾けられた四合瓶から、とくとくと実にいい音色がする。
「何これ」
「初山酒造さんからわけてもらった、秘蔵の蔵出し冷やおろしだよ」
「なしてまたそんなものを」
「深雪ちゃんは中央商工会のアイドルだから」
キリっと冷えた日本酒が喉を滑り落ちていく。
深雪は地元のおじさんたちに絶大な人気がある。飛びぬけて美人だとか愛想を言うだとか、そういうんじゃない。人の話をにこにこと嬉しそうに聞くのが異常に上手いのだ。あの爺さんの孫だからというのもあるが、深雪に笑顔でおねだりされて頼みを聞かない商工会の親父はいないだろう。
「くそぉ、うめぇなあ……」
そんな人間関係の果てに口に入った酒でも、うまいものはうまい。身体の奥に優しい灯かりが点る。
「んだしょ? セーラー服の女子中学生にお酌されてマズい筈がないすぺ?」
「そりゃ関係ねぇ。オマエは飲むなよ?」
「レイくんだって未成年でねぇがよ~」
商店街の親父たちとしゃべる時だけ使う方言で、深雪が歌うように抗議する。俺が酒を飲み始めたのは小学校六年の時だった。中学三年の深雪に飲んでいけないと言える立場ではない。でもその豊富な酒飲み経験があるからこそ、言えることもある。
「オマエはまだダメ」
「安心してけさい旦那。それは全部レイくんものなのっしゃ。レイくんさあげたんだから」
「ならばよろしい」
うん、まだ深雪は酒なんか飲んじゃダメだ。
「さらに深雪スペシャルがありまーす。じゃじゃーん!」
でかいリュックから、カセットコンロが出てきた。
「さらにぃ!」
続いてアルミの簡単鍋セット。モツ肉と野菜がパックされていて、火にかけるだけでいいという代物だ。
「さ、鍋やろう、鍋」
「オマエ」
あまりの準備の良さに絶句した。
「誕生日って、普通ケーキとかじゃねえ?」
「だって寒いんだもん」
カセットコンロに鍋を置いて、ぽっと火がともる。
闇の中に俺と深雪の顔が浮かび上がる。
「あんまり強火でねぇぞ。焦げる」
「わーってるって」
俺と深雪は、しばしアルミ鍋の様子をじっと見守った。ふつふつふつふつ……という小さな音が底の方から聞こえてきて、上にたっぷりと乗ったもやしやニラがしんなりとしていく。
「そうそう、先に渡しとくね、プレゼント」
深雪が無造作に紙袋を突き出す。リボンなんて気の利いたものはない。ただのスーパーの袋だ。黙って袋を開けると赤い毛糸の手袋が一組。値札には見事に「980円 長崎屋」と書いてある。どう見ても女物だ。
「……ありがと」
「何その微妙な表情」
「どうみても俺の手ぇ入んねだろ」
「だって深雪用だもん」
「誰の誕生日プレゼントだ?」
「今度レイくんのチャリンコに2ケツする時さ、レイくんこれを深雪に渡してけらいね。んで『使えよ、手、冷たいだろ』とか言え」
「何ば影響された」
「あ、私の誕生日は十二月四日なんでよろしく」
「知ってる」
深雪は割り箸でそっと鍋をかき回す。モツの味が野菜に移るように。野菜の水分を均等に鍋に回して、焦げ付かないように。
「レイくんはいいっちゃねー誕生日必ず祝日で」
「勤労感謝の日って、微妙っしょ」
鍋の音がぐつぐつぐつぐつという小気味良いテンポに変わってきて、辺りに良い香りが漂う。それを眺めながら、くっと酒を飲み干すと、清らかな流れが体に落ちていくような気がする。手袋はともかく、こっちは嬉しいプレゼントだ。
「さて、仕上げをします。じゃーん!」
深雪はジッパー付のビニール袋を取り出すと、中身を鍋に一気に投入した。沸騰寸前まで高まっていた音が急激にに落ち着く。
「今、何入れた?」
「大根おろしばたっぷり入れました! こういうの、みぞれ鍋いうんだと」
火を止め、何かをぱらっとかけている。辺りが暗いので何をやっているのかよくわからない。
「最後に糸唐辛子さ散らして完成でーす」
「へぇ……美味そだな」
「皿さ忘れたんで、これで食てけらい」
紙コップと割り箸を手渡された。
「台無しだっちゃな」
「うるせごだ」
具を取り分けた紙コップに顔を近づけると、ふわりと食欲を誘う香りが立ち昇った。真白い湯気のぬくもりが心地よい。
モツと大根おろしをいっぺんにほお張る。市販品のチープな味のモツを大根おろしがいい具合に中和してやさしい甘みに変えていた。糸唐辛子がぴりっとしたいいアクセントだ。野菜にもモツの味が移って申し分ない旨みが出ている。実によく酒に合う。
「なーなーうめごだな?」
「はい、美味しゅうございます」
火を止めた鍋があっという間に冷えていく。俺と深雪は黙りこくって鍋を平らげた。底にたまったスープを分け合うようにして飲み干す。酒とは違うぬくもりがじわりと腹から身体中へ広がっていく。息の白さがことさら濃くなった気がする。
「美味しかったね! これで、深雪ちゃんのお誕生日プレゼントは完了です!」
「おう」
「なんか言う事ないの、レイくん」
「ごっそうさんでした。本当にうまかった」
「もひとつ」
「ありがとう、深雪」
「まだないか?」
深雪の目が闇の中できらきらっと光ったような気がした。
「ないよ」
「そう」
目の光が消えた。気のせいか。気のせいだな。
「さー食ったし帰るか? 送るぞ。なんか降りそうだし」
「……もう少し居ようよ」
「おまえんちに電話してもいいか?」
「ダメ。ママがうるさいから」
「そりゃ中学生の娘が、こんな遅くまでぶらぶらしちゃ危ないだろ」
「違うの」
深雪がぎゅっと俺の手を握り締めた。金属みたいに、やけに冷えた手だ。
「ママは、レイくんと一緒にいちゃダメっていうの」
「俺と?」
「うん、あと、リイッちゃんも」
「俺と理一の、何がまずいんだ?」
俺と深雪と理一は子供の頃からずっと一緒に育ってきた。兄弟のいない深雪にとって、俺たちが兄弟代わり、深雪の両親の次に近い存在だと自負している。その俺たちがまずいってどういう意味だよ。
「『深雪ちゃんはどっちと結婚するの?』って、田中のおばさんうるさいから、ママ、イライラしてんの」
「どっちって?」
「深雪が、レイくんと、リイッちゃんの、どっちと結婚するのかって」
『イトコ同士は結婚できる』
子供の頃から、ずっと周囲の大人が言い続けて来たセリフ。俺と兄貴と、深雪の仲が良ければ良いほど、大人たちは囃し立てるようにそう言う。キョウダイなら仲がいいのは良いこと扱いなのに。イトコ同士は結婚できるだと? ふざけたことを平気で言いやがる。
「ママはイトコ同士が結婚するのは田舎の悪い習慣だって言うの。血が濃くなって、キケイが生まれたりしてよくないって。だからレイくんと仲良くするなって……」
すーっと体が冷えていく。もう鍋のぬくもりも酒の温かさも消えてしまった。
子供だって? 誰と誰の子供が出来るって?
そんなんじゃない、そんなんじゃない。
俺と深雪の間っていうのはもっとただの、普通の。
「レイくん」
深雪が猫のようにするりと体をすり寄せてきた。
手は相変わらず冷たいままだ。
「寒いよ、レイくん」
「もうすぐ十二月だってのに、セーラー服一丁でいる方が悪い」
とはいえ、俺の着ていたブルゾンをかぶせてやる。
「見栄っ張りは女子の特権なんだよ」
「なんだそりゃ」
「レイくんの上着はあったかいなあ」
いそいそと俺のブルゾンを着込む仕草は嬉しそうだ。顔が見えなくても、分かる部分の気持ちは、分かる。分からない部分は、顔が見えていても、さっぱりだ。
黙って空を見上げながら、冷やおろしに口をつける。ふわっとしたいい気分にはさせてくれるが、さっぱり酔いの気配が来ない。いい酒だな。深雪も空を見上げている。雲は分厚く、星なんかひとつも見えやしない。
目を落とせば暗い川べり。水面のあるあたりは水が動いているかどうかも定かでない。昼間の川を見慣れているから、あそこは川で水が流れていると思えるけれど、夜の川しか知らなかったら、間近へ行かない限りあそこに水の流れがあるなんて、気づかないかもしれない。
「レイくん、手ぇ貸して」
「ほい」
深雪の手に右手を重ねてやる。
「おまえ手ぇ冷た過ぎっぞ」
「正直、膝も寒い」
深雪に預けた右手がそのまま膝小僧の上にのっけられた。つるりとした丸いりんごのような滑らかさ。なんて微妙な位置だ。このまま少し手を上にずらしたらスカートの中に手が入ってしまいそうな。この滑らかさはどこまで続くのだろうか。
いかん。いかんいかんいかん。この考えはダメだ。
「肩も冷えたなー」
「それは自前でなんとかしろ!」
肩まで寄せてきた深雪の体を無理に引きはがした。
「ちぇっ」
「おまえもタイツとかはけ」
「せめてストッキングと言わねが」
「お遊戯会ん時白タイツ一丁で歌いまくったくせに」
「まーだ幼稚園の話さ持ち出す」
深雪ははぁとため息をついた。少々わざとらしい。
「やっぱレイくんは……レイくんなんだなあ」
「どういう意味さ」
「男子はさ、こういうとき、エッチなことするよ」
冷え切った体に火箸を突っ込まれたような気がした。
「……されたのか」
「した」
深雪がさっと、程近い、橋の下あたりを指差す。
「あの辺で」
俺よりも深く、彼女のことを知った男がいるなんて。急に悪酒を飲んだみたいに、頭がぐるぐると回り出す。どこで。いつ。誰と。エッチなことってなんなんだ。
「……痛くなかった、か」
「痛いよそりゃ。コンクリートだもんあそこ」
いや、俺が聞きたいのはそういうことじゃない。つまり
「彼氏か」
「……よくわかんない」
「責任とか、あるだろ!?」
みっともないほど声が裏返った。
「ちゅーがくせーに責任なんかないよ」
深雪も俺も悲しいくらいにまだ子供で、俺たちが「責任」なんて言葉を振り回しても、それは絵空事のようにむなしい。
「同級生の男子がね、私のことが好きなんだって。文化祭の日に言われてさー。一緒に帰ろうっていうから、一緒に帰ったの。ちょっと話そうっていうから土手に座ってさーしょうもない話して。で、話すネタ切れたなーって思ったら、突然キスされて、ぎゅっとされた」
「言うな」
「深雪は……本当に好きな人のことは好きになったらいけないから、誰か私のことを好いてくれた人と恋愛するしかないわけで、今は好きじゃなくてもセックスすればその人を好きになるかもしれない、だから……」
「やめろ!」
「深雪のこと嫌いになった? 好きでもない男子とエッチするような女子は嫌いになった?」
深雪の瞳がまた夜の中できらきらと光っている。そうだ、川面の光みたいだ。
「嫌いになんか、ならない」
深雪が不安そうに差し出した手を、俺はもう一度握りなおした。ちっとも温まる気配がない。
「俺はオマエのアニキなんだ。だから一生オマエの味方だし、オマエを嫌いにならない」
「リイッちゃんも?」
「そうだ」
「二人とも、深雪のお兄ちゃんなんだね」
「おう。だから……結婚なんかしない。おばさんにそう言っとけ」
「わかった」
深雪がするっと自分から手を離した。二歩、三歩、川の方向へ歩いていく。
「おい、深雪?」
「見ててね。私、ソフトボール投げ得意なんよ」
深雪は手のひらに何か小さなものを握りこむと、川へ大きく振りかぶった。
「とぉりゃぁぁぁぁッ!!」という叫びとともに、大げさなほどのモーションで腕を振り下ろす。遠くで何かが光った。
「何投げた?」
「ゆびわ、かな」
「投げていいもんか、それ!」
「いいの」
スカートの裾をひるがえして、深雪が笑う。
「私、ママもレイくんもリイッちゃんも、みんなが認めるような素敵な男子を見つけるよ」
「おう」
俺は深雪のアニキだ。深雪を家族のように大切にするんだ。深雪が誰を好きであろうと……そう、決めたんだ。でも、本当のアニキだったらこういう時どうするんだろう。妹の自暴自棄を殴ってでも止めるんじゃないだろうか。俺がそれをしないのは、やっぱり本物じゃないからか。俺が曖昧なところで揺れているからか。
「あ、降って来た」
差し出した手のひらにべたっと何かが張り付く。手に残る感触はすでに水。わずかに氷の残骸が手のひらにたゆたう。
「みぞれだね」
「もうすぐ十二月なのにな」
天から降る中途半端さは、まるでぐちゃぐちゃとした俺の象徴みたいだった。
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