7・6 リキャスト花園学園
「社から誘うなんて、珍しいね」
放課後。
俺と姉ちゃんは屋上のベンチから外の景色を眺めていた。
2人だけで腰を据えて話をするためだった。
自宅には母さんがいる。教室も大人数だ。部室や生徒会室には行けない。喫茶店や中庭だと人目がある。ショッピングモールはもってのほか。
だけどここなら比較的人目にはつかない。
「社もやっぱり男の子なんだよね。お姉ちゃんは分かってたけど」
「なんのことだ?」
「人目を忍んですけべなことしたいんだよね。学校だったら制服のままできるお得感――」
「――それはフィクションだって言ってきただろ!」
冗談だよぅ、とつぶやく姉ちゃん。……半分は本気だったな。
ごほん、とわざと
「俺な、姉ちゃんとは付き合えない」
俺は視線を合わせて言った。
すると姉ちゃんは吹きだす。またその話なのと。
「面白くないって、その冗談」
「何度も言ってるじゃねえか、本気だって。姉ちゃんは姉ちゃんだ。昔っからそれは変わらない」
「しつこいなあ」
姉ちゃんは笑うばかりで相手にしてくれない。罰としてパブロのチーズケーキを買ってこいなんて言ってる。
「もう
「でも姉弟は姉弟だろ」
俺はずっと言えなかった。
姉ちゃんが本気だって気づいてから。それを口にしてしまえば事実になる。事実は姉ちゃんを悲しませる。それが嫌で見ない振りをしてきた。姉ちゃんに甘やかされるのも楽しかったから。
けど、そのせいで姉ちゃんは傷ついた。全部、俺のせいなんだ。だから、これは俺がけりをつけなきゃいけないんだ。
「かわいそうな社。まだ正直になれないんだね。でも安心して。酷いこと言う人間がいたら、お姉ちゃんが退治してあげる」
「けど姉ちゃん」
――だから姉ちゃんを助けるのは俺なんだ。
「ここを卒業したら一緒だろ? それに母さんにどうやって説明するんだよ。俺と恋人だなんて笑えないジョークじゃねえか」
「社は優しいね」
姉ちゃんは俺の頭をなでてきた。
俺に向けられた「優しい」という言葉。自分とは異なる意見を、もっとも柔らかく、もっとも簡単に包み込んで消してしまう便利な表現だった。
「ここを卒業したあと記名相手と結婚する人がとっても多いの。国だって優遇してくれる。お母さんだって絶対分かってくれる。それでも社は不安なの?」
俺はその手を振り払うために、首を強く振った。
やっぱり姉ちゃんには伝わらない。姉弟は姉弟だって何度説明しても――だったらもう、これしかない。
「俺、実は好きな人がいるんだよ」
「ん? 今さら?」
振り払われた手で、姉ちゃんは俺の手を握ってくる。社の目の前かな、と。
「違うよ……。俺が好きなのは姉ちゃんじゃなくて なんだ」
すると姉ちゃんは動かなくなった。手も硬直している。
「社、本気で言ってる? お姉ちゃんをいじめるつもりじゃなくて?」
「だから……、ほ、本気だよ」
姉ちゃんは押し黙ってしまう。握っていた手も離れていた。
俺はうつむいたまま、返事がくるのを待つばかり。ベンチの足元にある間接照明は、まだ明るさを残している夕日に向かって、無駄に発熱していた。夏に向かって暑くなり続ける外気温のせいで、べとりと汗にシャツが張りついてくる。
「そっか」
どれくらい沈黙していたのだろう。
突然姉ちゃんはそう言った。私じゃないんだねって。
「ごめん。言おうと思ってたんだけど、ずっと言えなくて……」
「気にしなくていいよ。社だって男の子だもんね」
あっさりと姉ちゃんは納得してくれた。
よかった。こんなことなら最初から言えばよかったな。変に遠慮しちまってまずかった。
「お姉ちゃんが追いだしてあげるよ。二度と社を誘惑しないように」
姉ちゃんは、にひ、と変な笑いかたをした。
記憶にない、こんな顔の姉ちゃん……。
「社は優しいから狙われる。本当はお姉ちゃんのことが大好きなのに、つい誘惑されちゃう。かわいい女の子がたくさんいるもんね」
「誘惑とかじゃなくて、俺は純粋にそいつのことが」
「どうやって追いだしたらいいかな? 学園だけじゃなくてこの近隣にも住めないようにしなきゃね。どんな悪さをするか分かったもんじゃないから」
「だから待てって! いくら姉ちゃんでも、そんなことしたら許さ――」「――いくら姉ちゃんでも?」
姉ちゃんは両手で俺の頬を挟んだ。2つの瞳が俺を射抜く。
「どうするのかな? 社のために頑張っているお姉ちゃんに」
俺は恐怖のあまり硬直する。
生唾を呑み込もうとしても喉が拒否する。
「怖がらないで」
姉ちゃんは笑った。
「社のことならなんだって許してあげる。誘惑した女は絶対許さないけど」
俺から両手を離し、ちょっと部室に行ってくるね、とベンチから立ちあがる。
「な、何をしに」
「挨拶してくるだけだよ。二度と手をだそうと思えないくらい徹底的に。昔からずっとつきまとわれて鬱陶しかったし」
「待って。行くな」
力の抜けた腰でどうにか姉ちゃんにすがりつく。あいつには関係ないんだから。
けど俺の腕はいともたやすく
「ちょっと嫉妬しちゃうな。社にこんなことまでさせるほどなんだね、あの子」
ここまできたら、もう姉ちゃんとの和解は無理かもしれない。
くそ。俺は何をしているんだ。姉ちゃんを
「社、退いて」
「嫌だ」
けどこの一線だけは譲らない。
「お姉ちゃんに逆らったら、どうなるか分かっているよね」
「嫌なものは嫌だ」
姉ちゃんが本気になったら俺は勝てない。頭でだって腕力でだって。それでも諦めてたまるか。意地でも姉ちゃんには分かってもらうって、そう決めたんだから。じぃとにらみつけると、不意に、姉ちゃんの視線が奥を捉えた。なんでだ。
すぐにがちゃりと屋上の出口の開く音が、背後から聞こえた。大股でゆっくりと歩くリズムが近づいてくる。
「私も入れてもらうぞ」
しゃがれ声が俺の肩にぽんと手を置いた。
「蕗奈」
姉ちゃんは久利会長と向き合う。
「茜が風紀を乱しているとの報告があった。今後、社といちゃつくのは控えてもらおう」
「風紀? 何を今さら。ここは恋に落ちるための学校じゃない」
「そういう意味ではない」
会長は肩をすくめる。「社には意中の相手がいるから邪魔をするなと言っているのだ」
「社だけじゃなくて蕗奈までその話? ばか言わないで。社には私しかいないの」
「ばかはお前だ。茜が邪魔をしなければ、社とそいつはとっくの昔に記名をすませて誓約書を提出できていた」
「できれば蕗奈とは
「すまないな。今回は利害が一致しないのだ」
会長は腕を組み、歩いてきた道を振り返った。
見れば2つの人影が近づいてきている。会長の横に並ぶ。それはずっと文芸部で一緒だった顔だった。
「お2人の関係は、文芸部の名にかけて証言します」「し、します!」
祭門部部長と素子。2人は姉ちゃんに言い放った。
「品近さんと素子さんは誓い合った仲なのです」「で、です!」
「あはは」
姉ちゃんは部長と素子を指差して笑う。「嘘をつくにしても言いようがあるじゃない」と。
本当におかしいらしい。ずっと腹を抱えている。
「だって社は無記名でいようとしたんだよ? 私の名前を書くために。たまに変なジョークを言うよね、楽羽って」
「ジョークではありません。お2人の考えかたが変わったのです」
すると部長は素子に目配せした。それを合図にしたかのように素子が一歩前にでる。
「ま、真面目ですっ! 私は本気ですからっ!」
素子はポケットから紙切れを取りだすと、姉ちゃんに見せつける。
姉ちゃんは笑いながら視線を向けたが、それを一目見るや、すぐに色を失う。
「何よこれ……そんなはずないじゃない……」
姉ちゃんは
俺もその紙切れを見つめた。
品近社
宇井戸原素子
俺と素子の名前が記名された誓約書だった。目をこすって何度も確認する。
「ほらっ、社だって知らなかったじゃない。宇井戸原さんが勝手に書いたんでしょ」
俺の動揺に気づいて、姉ちゃんはすぐに態度を大きくし、素子を指差す。
「そこまで言うのなら社に聞いてみようではないか」
会長が挑発を重ねると、4人の視線が俺に集まってきた。
――トリノコトリだよ――
素子の口が、そう動いたように見えた。すぐに俺はその意味を理解する。
なるほど。そういうことなら遠慮なく利用させてもらうまでだ。
「姉ちゃん、俺は素子を記名した」
俺は言った。
「社?」
一歩、後退りする姉ちゃん。
「俺は本気なんだ」
「止めてよ、そういうの……、今日の社はどうしちゃったの……」
姉ちゃんは頭を振りながら、後退りし続ける。かしゃんとフェンスの音がすると、姉ちゃんはもう引きさがれないところにいた。
「2人のせいで、社が変になっちゃったじゃない……!」
姉ちゃんは、部長と会長をにらみつける。
2人は横目だけでアイコンタクトをとると、姉ちゃんを見据え、「「茜」」と呼びかける。
「相手の幸せを願えないのなら、恋に落ちても意味はありません」
「お前は社を不幸にしようとしただけだ」
姉ちゃんは後ろ手にフェンスを
「茜、反論はないのですか?」
「間違っているなら言い返せばいい」
姉ちゃんは何も言わない。下唇を噛んでいるだけ。
部長と会長は、もう一度無言でアイコンタクトをとると、
「品近さん」
「任せたぞ」
そして2人は屋上から消えていった。
「品近、あとは茜さんと2人で」
部長たちについていくように、素子も屋上をあとにした。
□■
俺の目の前には、捨てられた野良猫のような姉ちゃんがいた。俺が近づいていくと、姉ちゃんはすぐに全身の緊張をほどき、弱々しくうなだれた。
「……ねえ、社」
俺の手にすがる。「お姉ちゃんのこと、嫌いになっちゃったのかな」
しゃべらないまま、俺はゆっくり頭(かぶり)を振った。
「……ならどうして、私じゃなくて宇井戸原さんなの……」
姉ちゃんだって分かってる。あの誓約書が嘘っぱちなことくらい。
でも俺が、覚悟していることに気づいていた。屋上で姉ちゃんから求められた誓約書に、俺は記名しなかったのだから。しかも無理に迫れば、俺が素子と恋人になってしまうって。部長と会長、そして素子自身がそう証言しているのだから。
「俺、思うんだ。恋に落ちるのに後ろめたいも何もないって」
俺の脳裏に米家さんの姿がよぎった。
でも前とは違って、彼女は笑っていた気がする。
「好きなんだから胸を張ればいい。なのに恋色エクリチュールに頼り始めると、その気持ちを置いてけぼりにして記名することそのものが目的になっちまう」
俺は姉ちゃんの手を握り返した。
姉ちゃんは一瞬だけ、俺から手を振りほどこうとする。
「俺は姉ちゃんのことが好きだ。だから姉ちゃんの気持ちには、たしかに異性としては無理だけど、いつだって本気で応える。だって姉ちゃんは俺の大切な姉ちゃんなんだから。これはエクリチュールなんかじゃ決められないくらい、ずっとずっと大切な気持ちなんだよ」
だから、と俺は手に力を込めた。
「姉ちゃんも本気になってくれ」
姉ちゃんの瞳が一気に開く。
「エクリチュールを抜きにして俺のことを考えて――いや、自分のことを見てもらいたいんだ。姉ちゃんが変えるのはエクリチュールじゃない。エクリチュールに頼ろうとする、姉ちゃん自身の気持ちなんだよ」
姉ちゃんは何も言わなかった。
さっきまでの怯えた様子は消えている。握られた手に視線を落としたまま動かない。
俺がどうしていいか分からずに見ていると、姉ちゃんはおもむろに出口へと歩きだした。俺の手が離れる。
「待ってくれ」
俺は背後から、姉ちゃんの手をとった。
「社は分かってない」
が、姉ちゃんは振り向かない。
「みんな、自分の気持ちを規則に決めてもらってるんだよ。自分じゃ分からないし、責任もとりたくないから。社だって同じ。理由もないのに姉弟はいけないんだって信じてる。花園学園の中も外も、社も私も。エクリチュールに賛成するか反対するかの違いでしかないの」
「姉ちゃん……」
俺は祈るように、手に力を込める。
「胸を張って、恋に落ちてるんだって主張するために、エクリチュールが必要なんじゃない。お姉ちゃんがここまでしてあげたのに、どうして社は分からないの。社はもっと勉強しないといけないね。そうすれば、お姉ちゃんが正しかったって気づけるから」
残念だけどまたお別れだね、と姉ちゃんは俺の手を振りきった。
「さようなら、私だけの社」
そして姉ちゃんは背中を向けたまま、屋上から消えていった。
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