6・9 アンインストールパソ子

「私たちだけだね」


 品近茜と品近社は、校舎の屋上にいた。

 まるで観光地のように舗装された遊歩道に間接照明。午前中の屋上には、人気のない公園のようにゆったりとした時間が流れていた。


「少し、歩こうよ」


 茜は弟の手を引きながら遊歩道を進む。

 弟には言いたいことが数えきれないほどあったが、口をつぐんでいた。姉との再会を素直に喜べないからだった。


「どうしたの社? 無口だね」


 茜はぱっと手を離し、後ろを振り向いた。屈託のない笑顔。弟はフェンス越しの風景へと視線を逸らした。


「もしかして楽羽のこと怒ってる?」

「……あんな言いかたしなくても」


 弟のわだかまり。その1つは姉による文芸部への仕打ちだった。自分が無記名でもいられるように手を貸してくれた祭門部楽羽。


「だってエクリチュールをなくそうとするんだもん。社の名前を書けなくなるじゃない。きつく言っとかないと」

「けど部長は、姉ちゃんのことを想って……」

「それはそうだけど、その気のない人に一方的に親切にされても困るじゃない?」


 茜は1枚ずつ、遊歩道の板を飛び越える。

 くるくると弟の周囲を動き続けたかと思うと、背後で止まった。


「校則で恋に落ちるのは簡単だし、カリキュラムにしたがって距離を縮めるのだってすぐだけど、思いやりのある関係になるのは難しいってことだよ」


 私と社みたいにね、と茜は背中から腕を絡めてきた。


「会長はどうするんだよ」


 背後の姉に、もう1つのわだかまりを伝える。

 姉を半年以上も自宅にかくまってくれた久利蕗奈。利害が一致していたというだけで片づけられるものなのか。


「どうもしないよ。会長を辞めちゃうかもね。私の指示がないと蕗奈は何もできないし」

「かくまってくれたのに、礼の1つもねえのか?」


 品近社は久利に恩義があるわけではない。それどころか利用されたのだから。

 ただ、それでも祭門部を気遣ったり、自分の力になろうとしたり、文芸部の敵対者という言葉には収まらないところが、たしかにあった。


「蕗奈は自分のために協力した。私が感謝したりけなしたりしたら、逆におかしいんじゃない?」


 弟を抱きしめるその腕は、じれったそうに動いた。


「それは……」


 弟は答えられぬまま我が身を託す。私からおしゃべりしよっかな、と茜は耳元でつぶやいた。


「米家初夏って子も、恋に落ちることはできたけど、社と両想いにはなれなかったでしょ?」

「よっ、米家さんのこと知ってんのか!?」

「社のことならなんだって分かるよ」


 弟に回された両腕がその首を締めつけてきた。「浮気はだめだからね」と酸素を奪っていく。「悪かった」と腕をタップして、弟は許しを請うた。


「社が嫉妬させるから、つい声をかけちゃったじゃない。今日まで我慢するつもりだったのに」


 弟の首は解放され、呼吸を取り戻す。


「……声をかけたって……、そんなこと、あの電話から一度だって……」

「社を騙せるなんて、お姉ちゃんの演技もまずまずだったんだね」


 息も絶え絶えに反論する弟の肩に、茜は手を添える。

 弟の横顔を覗き込みながら、実はね、と喜色満面の顔になった。


「パソ子さんって、誰だか知っているですー?」


 弟にとって聞き覚えのある、不自然な口調で言った。


「あっ、あれって!」

「そうなのですよー? 実はお姉ちゃんだったですー」

胡散うさん臭えとは思ってたけど、まさか、だな……」


 あのパソ子さんのプログラムは、かなり以前から文芸部に仕込んでいたという。ただ監視するほどの動きもなく、久利蕗奈の報告で十分だったため、しばらく何もしなかった。


 それが米家初夏の一件から、文芸部が慌ただしさを増していったため、リアルタイムで監視する必要が生まれてきた。品近茜はそう説明した。


「やけに馴れ馴れしいと思ったら」

「だって社なんだもん」

「あの設定はどうにかならなかったのか? 人工知能とかパソ子さんって名前とか、適当にもほどがあるじゃねえか」

「だって社とお話したかったんだもん。ただデータを横流ししたり、盗聴したりするだけじゃ悔しいし」


 茜は甘えるように、弟に身体を預けた。

 自分の欲望にどこまでも忠実な姉が、弟は恐ろしくていとおしかった。それほどまでに自分が我慢を強いてきたのだろうか。抵抗しようとする気力をがれていく。山ほどあった言いたいことが雪のように溶けていった。


「誓約書持ってる?」


 茜は弟の正面に回る。お姉ちゃんに渡してくれるかな、と。


「記名したら誰にも邪魔されなくなる。そしたらお姉ちゃん、ずっと我慢してきたことをいっぱいしたい。社だって遠慮しなくていいの。だから、一緒に書こ?」


 品近社は、ポケットに入れてある生徒手帳に手を伸ばした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る