6・2 キネマスコープ社姉弟

 姉と弟。


 どこにでもある、ありふれた関係。この世界には、きょうだいと呼ばれる人たちがたくさんいて、幸せだったり不幸だったりしながらすごしている。


 品近茜と品近社。


 1歳しか違わなかったけど、運動神経がよくて頭もいい姉ちゃんに勝てたことがない。冷蔵庫のアイスやプリンは奪われるし、鬼ごっこや腕立て伏せで勝負をすればねじ伏せられる。ありふれた上下関係だ。


 だけど、少しだけ、俺たちは変わっていた。



 □■



(社ぉー)

 学校から帰ってくると、姉ちゃんは机に向かっている俺に、背後から抱きついてきた。


 俺の部屋。狭いながらも畳のうえにはベッドと学習机。机にはライトもついているし、鍵のかけられる引きだしだってある。制服を収めるクローゼットもある。設備は十分だ。中学生になったときに与えられた念願の1人部屋――のはずだった。


(止めろ。べたべたすんな)

(だってぇ)


 甘ったるく身体を預けたまま手にしたテスト用紙を見せてくる。国語98点。自慢か。


(1つ漢字を間違えたからって、マイナス2点はひどくない? だから早く私を慰めてよ)

(なんで俺が慰めなきゃいけないんだよ。てか部屋をでてってくれ)

(そんなこと言ってないで、ほら。お姉ちゃんが悲しんでいるんだよ?)

(張り倒すぞ)


 張り倒されるけどな、実際問題。

 俺の部屋の真向かいには姉ちゃんの1人部屋――かつての姉弟兼用の部屋があった。だから自由気ままに姉ちゃんが遊びに来る。扉に鍵はない。俺にはつらさしかない。


(社の身体は正直だよ? お姉ちゃんが抱きついたら、変なとこ固くしてるし)

(どこでそういう台詞覚えてくんだ)


 俺は姉ちゃんを引きはがそうとするが、姉ちゃんは器用に身体を動かしてホールド状態を維持する。姉ちゃんの片手、テストを握ってて使えないはずなのに。

 あと固くしているのは両肩な。緊張するから。誤解すんなよ。


(どこって、天井裏の収納スペースにあるお姉さんものから、だよ?)

(はあ!?)


 それは収納スペースじゃなくて、隠し場所っていうんだけどな……また見破られた。


(社のことなら何でも知ってるよ。お姉ちゃんだからね)

 昔っからこうだ。適当な理由を見つけては抱きついてきたり、部屋に忍び込もうとしたり、風呂に一緒に入ろうとしたり、秘密のスペースを暴いたり……これで何度目だよ。


(ぱんつをズラしてするのって難しくない? とりあえずお姉ちゃんの身体で試してみよっか)

(実の弟に何言ってる!?)

(だってお姉ちゃんとしたいって妄想してるじゃない)

(違う違う! あれはフィクションで、俺らはノンフィクション!)

(恥ずかしがらなくてもいいのに。社のことなら何でも受け入れるよ?)

(こんな姉ちゃんを持ったことが一番の恥だよ!)

(恥部が一番? やだぁ、いやらしいやしろのえろすぅ)

(わっ、わざとらしいから! 字面だけで発音は似てないから!!)


 俺はどうにか姉ちゃんを振りほどいた。


(あーあ、離れちゃった)


 残念そうな台詞をこぼす姉ちゃん。だがそれもつかの間。すぐに鼻歌を歌いながら、その場でくるくると踊り始めた。


 いつものことだろ。無視だ無視。


 姉ちゃんは才色兼備の茜ちゃんとして、誰からも愛される存在だった。俺のいないところでは、模範的で真面目な生徒として振る舞っていたせいもあって、俺たちのおかしいコミュニケーションは秘密のまま。母さんだって知らない。


 だけど俺は不器用だ。姉ちゃんとは違う。相手を選んで態度を変えられない。姉ちゃんの行動を思わず口にするんじゃないか。そんな考えが俺から女子どころか友だちすら遠ざけていた。


(また茜さんといちゃいちゃしてんの?)


 ただし。そんな俺にも例外が1人いる。

 そいつはノックもせずに部屋に入ってきた。


(あら宇井戸原ういとはらさん、いらっしゃい)

(お邪魔しまーす)


 そいつはベッドに飛び込むと、枕元の漫画を読みだした。

 宇井戸原素子。姉ちゃんの本性を知っている唯一の友だち。しかも素子が部屋にいてくれるおかげで姉ちゃんは遠慮する。素子は救いだった。


(じゃ、お風呂でね)

(うるせえ!)


 部屋をでていく姉ちゃんに、素子から奪った枕を投げつける。


(品近って、昔っからシスコンなの?)

 素子は枕がなくなっても気にせず漫画を読み続けていた。


(あっちがブラコンなだけであって、俺はシスコンじゃない)

(ふぅーん)

(なんだよ、その反応)

(ま、いいけど)


 このときはまだ台詞の意味が分からなかった。

 姉ちゃんをどうやって避けて、普通の人生に戻ろうか。俺はそんなことばかり考えていた。自分は被害者だから悪くない。そう信じられていた。姉ちゃんが中学3年生になり高校進学のことを相談してくるまで。



 □■



(社、いい?)


 姉ちゃんがノックした。相談があるんだけど、とおずおず部屋をのぞき込んでいる。


(入れよ)

(うん)


 部屋に入ってきた姉ちゃんは、両手の指を絡ませじれったく動かす。俺に抱きついてこない。


(話があるんじゃねえのかよ)

 そう聞くと、姉ちゃんはもつれた指をほどいた。


(私ね、高校は花園学園にしようかと思っていて)


 花園学園?

 俺は断片的な記憶をたどる。花園といえば、奇妙な校則があって恋愛ばかりなのに評判がいい。とりわけ女子の支持が厚いところだ。


 ――姉ちゃんが恋愛をするのか?


 そう考えると、変な汗が流れてきて、喉が渇いてきた。


(私立だからお金かかるけど、いい大学行けるっていうし)

(……行きたいところ行けばいいじゃねえか)

(そっか、そうだね)

(まずは許可……、母さんに相談しないとな)

(うん)


 沈黙する俺と姉ちゃん。

 あんなに鬱陶しかった姉ちゃんを、今日はまるで感じられない。


(……どうして、そんなとこに、すんだよ)

(それは――社は、お姉ちゃんがそこに通うの、嫌?)

(いっ、嫌なわけねえだろ。あんなにつきまとわれたんだ。さっさと花園学園で彼氏でも作って、俺から卒業しろって思うに決まってんだろ)


 俺は無性に腹が立った。

 姉ちゃんが行きたいところに行けるんなら、それが一番いいはずなのに。


(覚えてる? 中学の頃、冗談っぽく社と結婚したいって言ったよね。でもお母さんにだめだって一喝されて、ほんとにショックだったんだよ)


 姉ちゃんは笑う。


(社も花園学園に来なよ。あそこなら一緒にいられるから)

 姉ちゃんは両手を合わせて首をかしげた。


(俺は……、そういうのには興味ない……)

(そっか)


 姉ちゃんはそれっきりしゃべらなかった。

 その日から、俺と姉ちゃんはあんまり話をしなくなった。抱きつくどころか声すらかけてこない。必要最低限の挨拶だけ。喧嘩けんかしたのかと素子に心配されるほどだった。


 そして何も変わらないまま、姉ちゃんは中学校を卒業し、花園学園へと進学することになる。



(社、いい?)

 入学から1ヶ月ほどがすぎた頃、姉ちゃんが部屋に来た。


(私のことをね、好きだって言ってくれる人がいるの)


 姉ちゃんの言葉を理解するのは大変だった。そわそわし始めて、気持ちが落ち着かない。あの日から仲直りもできていないのに、どうしてそんなことが起きるんだ。神様もっとのんびりしろよ……。


(2人もいるから、どうしたらいいのかなって)


 もう俺の意識は飛んでいた。どれくらい沈黙していたのか覚えていない。

 気づいたときにはきょとんとしている姉ちゃんがいた。急げ。なんでもいい。返事をしろ。


(……よかったじゃないか。一番いいのを選べれるし)

(そっか、それもそうだね)


 姉ちゃんは笑顔になった。久しぶりにまともな口を利いたのに、でてきた台詞はそれだった。


(じゃあね)


 姉ちゃんは部屋からでていく。

 その直後、姉ちゃんは行方不明になる。いつものように家をでたっきり戻ってこなかった。


 すぐに花園学園に連絡をとり、母さんと一緒に思い当たるところを足が棒になるまで探し回った。姉ちゃんの友だちも手伝ってくれた。でも見つからなかった。


 ――茜さんは、何か悩んでいたこととかありますか――


 手がかりを見つけられなかった警察の一言に、いいえ、と答える母さん。俺の心臓は締めつけられるように痛かった。ずっとあの日から、姉ちゃんの様子はおかしかったんだから。


 俺のせいだ。

 俺が冷たくなんかしなければ。

 花園学園なんてよせって、その一言があれば。


 姉ちゃんの気持ちに、気づかない振りをしなければ。姉ちゃんは行方不明になんてならなかった。母さんだって悲しまなかったんだ。


(品近が落ち込んだって、茜さんは帰ってこないんだよ)


 俺の気持ちを支えてくれたのは素子だった。一発、みぞおちにお見舞いされ、自分を責めて満足することを止めることができた。前向きに考えようと思った。


 だけどすぐに予想しなかったことが起こる。それは母さんと一緒に姉ちゃんを探すペースが、毎日から数日おきに落ちた頃のことだった。

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