5・2 せっしょうビタースイートサワー

「……ってぇ」


 自己主張を続ける頬を押さえながら、俺は喫茶店に向かっていた。

 渡り廊下を進んでいくと、コーヒーの香り漂う古びた扉が見えてくる。店内に入った俺は、店員さんから差しだされたお冷のグラスを頬に当てた。


「オレンジジュースをお願いします」

「かしこまりました」


 俺の注文を聞いた店員さんはすぐに奥へ消える。その帰りしな、いらっしゃいませ、と別のお客さんの対応をしていた。


 グラスを頬に乗せて転がしながら、さっきのことを考えていた。紅莉栖先輩や米家さんにまったく応えようがない。偽造事件は解決していて、俺は記名を拒んだ。もうすべてが手遅れだし終わってしまっている。


 しかしそれでは組織票を集められない。もう一度、部長に相談してみようか。


「ご注文はオレンジジュースでいいのかな?」

 すると耳元でささやき声がした。


 注文はさっきしたはずだよな? 不思議に思いながら振り向くと、意地悪そうな笑顔の久利会長が立っていた。


「……喫茶店にはよく来るんですか?」

「来ない。誰かと違って暇人ではないからな」


 じゃあその暇人ってのは誰だなんだと考えていると、会長は反対側の席についた。


「なら、まずいじゃないですか。生徒会を抜けてくるなんて」

枯匙かさじがいる。私がいなくても生徒会は安泰だ。そういう風に作ったからな」

「……暇なんですね」

「何を言う。生徒会の時期エースが浮かない顔をして喫茶店に向かっていたのだぞ? 会長として放っておけるはずがない」


 会長は店員さんを呼び止めて、コーヒーを注文する。


「実はさっき、文芸部に遊びに行ってきたのだ。社をうちによこせとな」

「は、はぁっ!?」

ひど剣幕けんまくで追い返されてしまった。あと八重歯の娘にも怖がられたぞ。ほうほうのていで帰ろうとしたら、あれだ、その……」


 くくく、と会長の肩が揺れる。絶対に笑っている。


「ラ、ラクロス部の前で平手打ち……ははは、大変なところを目撃してしまった」


 ついに会長は堪えきれず、げらげらと笑いだした。

 すると店員さんがオレンジジュースとコーヒーを持ってくる。大笑いの会長を眺めながらジュースを口にすると、オレンジの酸味が傷口にしみてきた。注文を間違えたかもしれない。


「今さら彼女にアプローチか? 人工的な恋愛はお気に召さなかったのではないのか?」

「放っておいてください」


 会長は美味おいしそうにコーヒーをすする。

 俺もジュースを飲もうと思ったが、口内を切っていることを思いだし踏みとどまる。会長はその様子を、カップの縁越しから愉快そうに眺めていた。


「慎重に記名しなければな。もう書き換えはできなくなるのだから」

「明日は発議ですか。急ですね」

「誓約書を偽造しようとする不埒ふらちな連中を放ってはおけない。ここで成立した誓約関係は、卒業後も続くことがほとんどなのだ。軽々に扱ってもらっては困る」

「恋愛感情を校則でどうにかしようって発想のほうが、不埒だと思いますけど」


 思わず眉間が緊張してしまう。


「なるほど。文芸部のエースが板についてきたな」


 会長は余裕綽々よゆうしゃくしゃく。コーヒーカップをテーブルに戻す。


「あのラクロスの娘を狙うのなら、やりかたを考え直せ。準備してきた台詞を読みあげるところなどは見ておれなかったぞ。あれでは小学生の学芸会ではないか」

「い、いつから見てたんですか……!」

「さあな」


 にやり、と会長は口角をあげる。

 俺はオレンジジュースのグラスを頬に添えた。ずきずきとうずいている。それにしても、と俺は会長の様子を眺めながら別のことを考えていた。


 ――もしかして知らないのか?


 米家さんに署名を集めてもらおうとしていることを。さっきから俺が復縁を迫っていると考えているみたいだ。もし勘づいているなら妨害してくるに決まっているからな。


「もっとシンプルに考えろ。意中の相手の恋愛対象になるためには、まず好きだという気持ちを伝えないといけない。ただのお友だちでは近づけない」

「そりゃそうですけど」

「用意した話題から入る。こんなビジネスライクな態度で好意を伝えられるか? その話題以外は話したくないと言っているようなものだ。訪問販売に恋する人間などいない」

「……はあ」

「正面から言え。当たって砕ける覚悟のないやつは立ちん坊のまま崩れ落ちるのが相場だぞ」


 俺はグラスをテーブルに戻した。


 ――なるほど。


 どうやら会長は文芸部の狙いについて分かっていない。だったら伏せておこう。いずれはばれることだが、少しでも先手をとっておいたほうがいい。


「でも正面から当たったら砕けるじゃないですか」

「これがエースのお言葉か」


 会長はコーヒーを飲んで顔をしかめた。


「記名できない連中の常套じょうとう句だぞ。本音でぶつかったら嫌われるしめられる。実に愚かな発想であり、事実、愚劣の極みだ。そんな臆病者を好きになる奴などいるか」

「誰だって怖いじゃないですか」

「誰だって怖いから、本音を語る勇気ある者を、人間は好きになるようにできている。恐怖心を抱えたまま、相手に好かれようなどと、笑止千万だ」

「でも、そんな臆病な人間の背中を押すためにあるのが、恋色エクリチュールなんですよね?」

「おや、ちゃんと分かっているではないか。さすが生徒会の次期エース」


 会長はコーヒーを飲み干した。

 今度はプレゼントでも用意しろと勧めながら、カップを置く。


「プレゼント? 用意したものはだめなんじゃないんですか?」

「だめなものか。あなたのために手間をかけましたと態度で示すのだからな」

「こうなる前に聞いておきたかったですね」


 俺は自分の頬を指差す。


「何を寝ぼけている。脈なら十二分にあるではないか」

「……え?」


 会長は間の抜けた男子を見たときのように、にやりと笑った。


「どうでもいい相手をわざわざ引っぱたくか。ままならぬ想いがあるからこその愛情表現だぞ」

「…………」


 俺は一気にオレンジジュースを飲み込んだ。甘酸っぱさが傷口を責めてくる。


「どうして会長は俺に助言するんですか。忙しいんですよね」


 痛みをごまかすために質問をする。


「社が欲しいからな。さっさと文芸部を辞めろ。長居していいことなどないぞ」

「本当に隠さないんですね、本音……」

「さきほどから当たりが厳しいようだが、もしかして私にも気があるのかな? あの娘がだめなら記名してやってもいいぞ?」

「……結構です」

「そう恥ずかしがるな」


 会長はコーヒーカップの縁をなぞる。そろそろ時間か、と言いながら立ちあがった。


「今日は楽しかったぞ。検討を祈る」

「あ、いえ」

「反対――いや廃止の署名が集まるといいな」

「え」


 俺が振り向くと、会長は手を振りながら颯爽さっそうと店をでていった。

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