4・5 自然ルーリング
俺が屋上への扉を開けると、そこには別世界が広がっていた。
足元からは木目調の遊歩道がなだらかに続き、ベンチが数個並んでいる。安全用フェンスからは景色を一望できる。ベンチ脇には間接照明が備えつけられており、沈む夕焼けとともに周囲を非現実的な空間へと染めあげていた。ベンチには男女が座っていて、肩を寄せ合っている。
――ここもか。
さすがに今さら驚かないが、いかにも花園学園らしい設備にため息がでてくる。
遊歩道に誘われるように歩いていくと、その先のベンチに久利会長が座っていた。
「隣が空いているぞ」
会長は言った。ちょうど2人分のスペース。俺はおずおずと座る。
「いい景色だろう?
「そうですね」
会長は肩に腕を回してくる。お互いの肩がくっつくと、彼女の甘い香りが漂ってきた。
「ここはそういう場所だ。よそよそしくすれば、かえって目立つ」
「……分かりました」
会長は、にぃ、と口を三日月形にした。
「君は恋色エクリチュールをあんなものと称していたが、本当にそう思っているのか?」
「少し言いすぎたかもしれません」
「ここに生徒会の人間はいない。本音を隠しても無益ではないかな?」
会長は俺の顔を覗き込んでくる。
前かがみとなった会長の襟元から、大きな胸を覆う下着が見えた。俺は慌てて視線を
「正直が一番いい」
してやったりとご満悦の会長。「で、なぜそう思うのだ?」
「……自然な恋愛感情じゃないからです」
「はは。恋愛感情が自然、か」
会長は肩を揺らす。
「おかしい、ですか?」
俺は少しだけむっとした。
「すまない。気分を害さないでくれ。私と正反対の考えだったものでな」
それでも会長の肩の揺れは収まらない。
スリット入りスカートや緩い襟元から下着がこぼれても、気にせず笑っている。
「人間は本能の壊れた動物である――こんな言葉を聞いたことはないか?」
だが会長は、ぴたり動きを止めた。
「いえ」
「朗報だ。説明のしがいがある」
彼女は俺の瞳を捉える。
その奥にある何かを
「人間には、動物として説明のつかないところがあるらしい。個体の維持や種の保存に無益なことをするからだ。たとえば、ダイエットと称してカロリーのない食事をする一方、ストレス解消のために過食に走る。他にも酒や
「はあ」
俺は、分かったような分からないような返事をした。
「もちろんこれは
ただ、それでも面白いことに気づかせてくれる
「面白いこと、ですか?」
「もし本能が壊れているのなら、それをどうやって補っているのだろうか? 本能が壊れたまま放っておいたら死んでしまうではないか」
さっきから会長の言いたいことがさっぱり分からない。本能が壊れることなんてなさそうだ。毎日、お腹は空くし、眠たくだってなる。
俺がそんな困惑した顔だったのか、会長はにんまりする。
「規則だ。壊れた本能を補うために、人間は規則を発明したのだ」
「……規則」
やっぱり分からないな。会長の話は難しい。
「たとえば常識と呼ばれるものがあるだろう? あれも規則の一種だ。人を殺すなかれ、
「……不義、ですか」
「怖い顔をするな。言葉の
俺が押し黙ると、会長は説明を再開する。
「常識によって
「……そうですね」
「もちろん常識にしたがえない人間だっている。そんな人間は普通の人間によって、諭され、教育され、脅され、暴力を加えられ、排除される。常識にしたがわないという選択肢は残されていない」
久利会長は、組んでいた足を組みかえた。
「大昔からそうだ。いつの時代、どの地域にも、必ず常識がある。それに無関心を貫けた人間はいない。古い常識が新しくなることがあっても、常識それ自体はなくならない」
会長は俺への視線を切って、景色へと移した。
「常識だけではないぞ。人間社会は規則であふれ返っている。法律や道徳、契約書や口約束、言語や数や論理、ボードゲームやスポーツ。どれもこれも、それにしたがう仲間を保護し、そうでないものを除外し、私たちの行動を決めている」
すると会長は、胸元から生徒手帳を取りだした。
片手で器用にページをめくり、とある条文を見せつけてくる。
1 花園学園の生徒は、恋に落ちなければならない。それが本学所属の条件である。
「見ろ。これはプリンターがつけたトナーの染みでしかない。だが生徒はこれにしたがっている。こんな奇妙なことをする動物が、他にいるだろうか?」
「…………」
部長と米家さんの顔が浮かんでくる。
「生徒会の権力が生徒を動かしているのだという反論もあろうが、それは大事なところを理解していない。このトナーの染みによって権力を行使し、それに生徒は逆らわないということを、誰もが理解している。それこそが、そしてそれだけが核心なのだから」
会長は、生徒手帳を閉じた。
「本能の壊れてしまった人間には、もう聞こえないのだ。したがうべき本能の命令がな。その不安や恐怖に耐えきれず、本能を捏造(ねつぞう)することにした。それが規則だ」
「つまり会長が言いたいことは」
俺は、これまでの話を、どうにかつなげようとする。
「恋愛感情は本能じゃなくて、自分たちで捏造した規則が生みだしたものだってことですか?」
この規則の話。
きっかけは、自然な恋愛感情があるのかどうか、にあった。
「さすが。文芸部のエースは切れるな」
「でも俺は、人に命令されて恋愛なんかしません」
「さっきも言ったはずだ。見ろと。みな進んで規則にしたがおうとする。記名を終えた生徒はどんな顔をしている? 自分は規則を守れたぞと得意満面ではないか。そのために恋愛をしたのだと言わんばかり。違うか?」
「違います。それは恋色エクリチュールがあるからじゃないですか」
意識しようがしまいが、誰だってそれに翻弄されているんだから。
「なら聞こう。恋色エクリチュールのないところは、自然な恋愛があふれているのだな? 常識など気にせず、思うままに惹かれ合っているのだな? まるで判で押したように、ある時期になると恋愛を始め、メディアで喧伝(けんでん)されたイメージどおりにイベントをこなし、適齢期という常識に引っ張られることはないのだ、と」
「……それは」
「花園学園には国の予算がおりている。恋色エクリチュールの誓約書システムが、それに値するからだ。この意味が分からないエースではあるまい」
自然な恋愛感情を害しているのは恋色エクリチュールのはず。だから米家さんだって、あんなに悲しまなければならなかった。
そう思っているはずなのに何も言い返せない。
「もし恋色エクリチュールが狂っているのだとしたら、それに入学直後から難なくしたがってしまっている私たちも、十分に狂っていることになるのではないかな?」
会長の笑顔は、欠点の
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