Op.47
雨宮吾子
Op.47
日に焼けた壁の高いところに掛かった時計は、ちょうど朝の六時を迎えたことを彼に報せた。彼はベッドの中に潜り込んで彼女の残した痕跡を見つけ出そうとしたけれども、それは徒労に終わった。彼女が胸元に口づけをする癖のあったことを思い出して、自分の身を曝け出してその辺りに視線をやったけれども、そこには何らの痕跡も見当たらなかった。世話好きの友人から貰った、一人で眠るには広過ぎるベッドには彼一人だけが眠っていた。
季節は巡り巡って春を迎えていた。恩寵としてやって来た春の息吹は人々の乾いた心を癒すに足るものではあったが、窓から身を乗り出した半裸の彼にとってはまだ冷たさの残る風だった。それでも柔らかに人の肌に触れるようなその風の優しさに彼は気付いた。それに気付いた彼もやはり優しい男だった。彼は優しい男であり、同時に繊細な男でもあった。
世の中の動きは、彼の性格彼の性格とは対照的に力を誇示する者の手中に収まりつつあった。デモ行進やストライキやサボタージュは非暴力的な手段であるにも関わらず、警官隊の威力によって抑圧されることは稀ではなかったし、ときには小さな衝突が起こることもあった。三月には暴動が起きたばかりで、自然と彼の眉間には憂いの色が灯るようになった。そうした憂いの原因は、世の中の風潮であり、そしてある女であった。
彼女とは職場で知り合った。彼は古くからある小さなパン屋で働いていて、彼女はそこの常連だった。古くからあるだけに近所の人々からは絶大な人気を得ていて、彼もまた幼い頃からそこで買ったパンを食べて育った。彼はそんな、思い入れのある店で働くことを誇りに思っていたし、人々の口に運ばれていくパンに愛着を持っていた。職人気質の店主がパンを焼き、陽気な性格の妻がパンを売る、そんな小さな店だった。その二人の間には娘がいたのが、長じてからは北方の大学で学問を修めた。父親である店主は職人気質であったものの娘の教育には寛容な人で、女に学問はいらないというような古い考え方を持ち合わせてはいなかった。しかし同時に頑固なところもあった。娘がいよいよ結婚するとなったとき、母は店を閉めてお祝いに行こうと言ったのが、店主は店を閉めるわけにはいかないと言って聞かず、とうとう母だけが短い旅に出ることになった。彼にとっての転機はそうして訪れた。奥さん――と彼は呼んでいる――がいなくなる間、パンを売る人間が必要だった。偶然声をかけられた彼は、二つ返事でその提案を受け入れた。彼は店主にも奥さんにも好かれていたから、奥さんが帰ってきてからも可愛がられて、そのまま雇われ続けることになった。
さて、彼女のことに話を戻そう。彼女は彼と違って幼い頃からの常連客ではなかった。数年前に一人で移住してきたのだと、ある程度親しくなってから彼女は言った。彼女は踊り子として舞台に上がることが夢で、ある男性に師事するために移住してきたのだとも言った。彼はそうした華やかな世界とは無縁で慎ましい生活をしていたから、踊り子という存在については漠然とした理解しかできなかった。それでも彼女は美しかったから、きっと一流の踊り子になれるよと彼は虚心に言った。その一言が、事の始まりだった。
彼らがより親密になるのに時間はかからなかった。そうしてある日の昼、倦怠を誘う真夏の風を仰ぎながら恋人となった。
酒と恋とが夜のうちに行われるものだとすれば、それは異常なことであったかもしれない。しかしそれには理由があった。彼女はある宿に下宿していて、夜のうちはその宿で下働きをしなければならないのだった。彼はその仕事の内容を知らず、夢に向かって日夜邁進していく彼女を、やはり虚心に応援していた。彼は女性に初めての恋をしたが、彼女の方はそうではないらしかった。初めて恋をしたそのときのふとした仕草が今までに彼女が通ってきた道を示していたし、彼女はそれを隠そうとはしなかった。それでも彼はそのことについてはさっぱりとした感情を抱いていた。
一度、例の大きなベッドをくれた世話好きの友人は、優しく繊細な彼に忠告をしたことがある。それでも恋というものには一人の人間を大きく変えるだけの力があるもので、それは初めての恋であるだけに尚更のことだった。さらにいえば、彼らはお互いのことを強く慈しんでいたから、それを引き離そうとする力があると却って反発してしまうのだった。
そうした関係は、しかし未だ一年にも満たない脆弱なものでもあった。
春の遊歩道に人の姿はなかった。まだ街も人も目覚めきっていない時間だったから、それも仕方のないことだった。彼は遊歩道の中程まで来ると近くのベンチに深く座り、俯いたまま考え事を始めた。ベッドを出て朝食を済ませてすぐに家を出たので、目覚めてから三十分くらいしか経っていない。まだ頭が冴えているとは言い難いが、ここまで歩いてくるうちに脳も身体も温まってきてはいる。そうして始めた考え事の中心には、やはり彼女が大きな位置を占めていた。彼女の温もりの残ったシーツを思い出す。この甘い香りはどこからやってくるのだろう、よく整った髪の毛だろうか、小さなほくろのある首筋だろうか、脇だろうか乳房だろうか、それとも……。
彼の中には何か尋常ならざる気持ちが沸き起こりつつあった。それは恋への欲求だった。そうした気持ちを抱いた相手は初めてのことだったから、彼は恋への欲求と彼女への欲求とを混同していた。今そこにもう一つの欲求、つまり彼女への欲求が確かに存在したのかどうかは、外見には判然としないのだった。
彼は不意に立ち上がった。彼女の家へ行こう、そう思ったのだ。こんなに早い時間に彼女を訪ねたことはないが、彼女はきっと受け入れてくれるだろう。そのように恋人の未だ知らない側面が存在し、それを垣間見ることができるというのは一つの幸福だといえたかもしれない。
彼女の家はこの遊歩道を進んだ先にあった。何十年も前にあるロックスターが下宿していたらしいという家だが、今ではもう誰もその名を覚えていない。ふと、そのことが何かに似ているように彼には思えた。けれどもそれが何に似ているのかさえ思い出せず、それを思い出そうとする意欲すら、やがて忘れてえしまった。この街の住人の多くがそうであるように、彼もまた忘れっぽい性格をしていた。
そうするうちに彼女の家に着いた。正面玄関には何やら多くの荷物が置かれていて、彼は以前にもそうしたように裏口から入って二階の彼女の部屋の扉を叩いた。彼はその下宿の主人と懇意になっていたので、そうした振る舞いを窘める者はなかったし、そもそもまだ目覚めてすらいなかったかもしれない。何度か扉を叩いたが、部屋の中からは返答は帰ってこなかった。こんな時間にどこかへ出かけているということはないだろうが、まだ眠っているのだろうかと考えながら、彼は思わずドアノブを回してしまった。鍵はかかっていなかった。しかし、そのまま扉を静かに押し返した。恋人とはいえ、さすがに無断で部屋に入り込むような浅ましさは持ち合わせていなかったし、もし彼女がいないのであれば部屋に入っても意味はなかった。彼の元に届いたのは、部屋の中から漏れてきたあの甘い匂いだけだった。
その日は月曜日だった。彼の勤めているパン屋は日曜日を除いて毎日空いているから、彼は仕事へ出かけなければならなかった。彼は仕事の前に一目だけでも彼女に会いたかったが、その願望を叶えられずに遊歩道を通ってパン屋へと向かって歩いた。しかし、幸運の女神は向かい側からやって来た。彼は彼女の姿を認めたのだった。
「やあ」
「おはよう」
二人は当たり前のように挨拶をすると、やはり当たり前のようにベンチに座った。
彼女は薄手のカーディガンを羽織って歩いてきたので、いかにも肌寒そうに見えたのだが、彼は口に出してそれを云々するような性格ではなかったので、黙って自分の上着を膝の上にかけてやった。そして、彼女の手に自分の手を重ねた。
「どこへ行っていたんだい」
「あのパン屋さんへ行っていたの。貴方はまだいないだろうと思ったのだけれど、どうしても行かなきゃならないと思って」
「この時間はまだパンも十分に焼けていないだろう。どうして急に?」
彼女は少しだけ沈黙を作った。それは自然に生まれたものというよりも、彼女が意図して作ったものだった。
「お別れを言いに行ったの」
「お別れ?」
彼は驚いた。それは自然に生まれた反応だった。
「留学することになったの。本当は他の人が内定していたのに、急に都合が合わなくなって私が行けるようになったの」
「前から行きたいと言っていた、あの留学……?」
「ええ、そう」
彼女は僅かに視線を外して頷いた。そこにはやはり、どこかわざとらしいものがあった。彼に分かったのは、彼女がその手に力を込めたことだけだった。
「貴方はどう思うの、留学のこと」
「君が、君が行きたいのなら僕は止めないよ」
「そうじゃないの。もう決まってしまったことだし、私の意志なんて問題にしてないの。貴方はどう思うの?」
彼は自分の気持ちをどう口にすれば良いのか分からなかった。行ってほしくはない、それは当然のことだ。ただこの街に暮らし続けることが彼女にとって良いことなのかは分からなかったし、それに彼女に嫌われてしまいたくはなかったから、結局はこんなことを口にした。
「僕は、良いことだと思う」
「それが、貴方の答えなのね。そうなのね?」
「……うん」
彼は静かに、しかしはっきりと頷いた。
すると彼女は突然立ち上がって、膝の上にかかっていた上着を彼に押し付けて、そのまま早足で宿の方へ歩き始めた。彼には何が起こったのか、まるで分からなかった。
「急にどうしたんだ」
彼は慌てて追い縋り、彼女に歩調を合わせて問いかけた。
「分からないのね。留学なんて嘘、嘘の話なのよ」
「何だって?」
「私、子供を身籠ったのよ。誰の子かなんて訊かないで、そんなことを知っても意味はないのだから。だから留学なんて口実を作って遠くへ行くの、やり直すの。踊り子なんてものを夢見たのが悪かったのね、こんなことになるなんて」
彼は呆気にとられて言葉も出なかった。そうして呆れているうちに彼女はどんどん先を行ってしまって、彼は遊歩道に一人の取り残されそうになった。なったのだが、彼女は一度立ち止まって、振り返った。表情の半ば以上が分からず、彼はその言葉に込められた気持ちというものを知ることはできなかった。
「さようなら」
彼はひどく打ちひしがれて彼女と座っていたベンチに身を委ねていた。彼女の言葉を信じないという選択肢はなく、同時に彼女の言葉を真正面から信じるということも避けたかった。動悸と眩暈と吐き気とが同時に襲ってきて、彼は真の意味で身を二つに引き裂かれるような痛みを味わったのだ。
それでも、彼はやがて立ち上がった。彼女の歩んで行った方角を一瞥すると、そちらに背を向けて再びパン屋への道を歩き始めた。ここで家に帰って一人で苦痛に耐えるよりは、見知った店主と奥さんの顔を見たかったし、彼女から聞かされた以上のことを話してくれるかもしれなかった。落ち葉やゴミやガラス片の散らばった歩道を進むと、そこには意外な光景が待っていた。
「遅かったじゃないか」
いつもなら店の奥にこもっている店主が店の前で彼を待っていた。一気に視界の広がるような思いがして、実際に今まで取り憑かれていた想念が取り払われると、街の様子がいつもとは違うことに気付いた。そして、昔から変わらずに街の片隅にあり続けたパン屋のショーウィンドウが粉々に砕かれ、店内には片付けをする奥さんの姿があった。
「何があったんですか」
「昨日の暴動を知っているだろう、そのときの影響らしい。店が閉まっていたから俺たちに被害はなかったが、これじゃあ今日は店を開けるわけにはいかんな。お前の方は無事だったか?」
「僕の方は別に何も……」
別に何もなかったと言いかけて、彼女から告げられた言葉が思い出された。そのためについ言い淀んでしまったのを店主は見逃さなかった。
「顔色が悪いな。おおい、ちょっと来てくれ」
店主は店の中にいる奥さんを呼び寄せると、二人で彼に全てを話すよう勧めた。彼の心は明瞭に機能していなかったから、同じことを何度も言ったり話が行ったり来たりしたが、それでも二人は辛抱強く話を聞いた。
やがて彼が全てを語り終えると、奥さんをが静かに口を開いた。
「私たちは随分前に聞いたけれど、それでもそういう事情だなんてことは知らなかったわ」
「しかし、お前はそれで納得したわけじゃないだろう。どうするんだ、これから」
「どうする、って……」
彼は吐き出した言葉の分だけ冷静さを取り戻していたが、これから先のことを考える余裕は持ち合わせていなかった。
「彼女はもう、この街からいなくなってしまうのよ。貴方にできることが何かあるんじゃないの」
「もう僕は必要とされてないんだと思います。僕にできることなんて、何もありません」
「良いか、お前はまだ大事なことに気付いてない。よく頭を働かせて、自分にできることを考えてみろ」
彼は深呼吸をして、努めて冷静になろうとした。彼女の言ったことに欠落した何かがあるとすれば、それは――
ちょうど近くを通りかかった老人がガラス片を踏み砕いた。その音に、彼は重要な欠落を見出した。
「僕、もう一度彼女に会いに行きます」
「おう、そうした方が良い」
「パンの一つでも持たせてやりたいけど、今は何もないの。でも何もない分だけ、重荷がない分だけ早く走って行けるはずよ。さあ、急いで」
奥さんが肩を叩くと、彼は雷に打たれたような気分になって、憂いが一気に振り落とされた。そうして生まれてきたのは、恋とは切り離された彼女への気持ちだった。
全身に力を込めて走るのは本当に久しぶりのことだった。人々の憂いの募った街中を通り抜けて、遊歩道へと急いだ。春先の風が吹き抜ける遊歩道に差しかかったとき、彼は思わず足を止めた。葉叢の脇から漏れてきた陽だまりの中に佇む彼女の姿があったからだ。どうして彼女がそこにいるのかは分からないが、きっと自分を待ってくれていたのだと、彼はそう直感した。
「……戻ってきたのね」
彼女は先程までの態度とは打って変わった様子で、息を切らして走ってきた彼を見つめた。
「君の言葉の嘘に気付いたよ」
「そう」
彼女はしかし、まだ打ち解けた仕草を見せはしなかった。彼女の表情の儚さに彼はぞっとさせられた。
「どこまでが本当でどこまでが嘘なのか分からないけど、でも君ともう一度話したくて」
「私が吐いた嘘はたった一つだけよ。後は、残念だけど全て本当なの。それでも良いと、そう思えるの?」
「僕はもう迷うことなく君と一緒にいたいと思える。君が、僕のことを好きでいてくれる限りは」
「もし好きじゃないと言えば、そのときはどうするの」
「君はきっと、僕のことが好きなはずだ」
「……そうね、そうだと思う。だから小さな嘘を吐いて貴方と離れようとしたのかもしれない」
彼女はようやく微笑んだ。その顔には真に血の巡った人間の活力があった。
「もう少し、歩きながら話しましょう」
「ああ」
どこか遠くからデモ隊の上げるシュプレヒコールが聞こえてきた。この静かな遊歩道にまでそうした声が届くのは珍しいことだった。しかしその声はすぐに途切れてしまった。通り雨のせいだった。
葉叢の間から繁る雨の中を、彼らはいつまでもいつまでも歩いた。通り雨だから傘は持っていなかったが、それでも時間を忘れて、もう少し、もう少しだけと言いながら歩き続けた。
そして、やがて起こった革命の時を、彼らはその街で迎えることになるのだった。
Op.47 雨宮吾子 @Ako-Amamiya
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