ゲーム
群青更紗
第1話
幼い頃、ずっと慕っていた女の子がいた。彼女はお寺の一人娘で、名を汐里といった。僕はその寺の檀家の息子で、ある年の寄り合いに連れて行かれたものの退屈で仕方なく、それじゃうちの娘と遊ぶかい、と紹介されたのが汐里だった。日本人形のような漆黒のおかっぱ頭の彼女は、涼やかで美しい瞳をしていて、僕は思わず恥ずかしさで目を反らした。でも汐里は臆することなく僕の手を取り自室へと連れて行った。
汐里の部屋は洋間だった。お寺なのに、と少し意外に思った。本棚、勉強机、ランドセル、ベッド。整然と並ぶそれらの間に、ぬいぐるみの飾られた棚があった。キョロキョロと途方もなく見渡していた僕だったが、その棚には惹かれるものがあった。思わずじっと見つめていると、汐里が言った。
「気になるの?」
僕はこくりと頷いた。
「どの子?」
言われて僕は、戸惑いながらも棚に近付き、白いクマのぬいぐるみを指した。汐里もやって来て、僕とクマとをゆっくり見比べた。
「いいよ」
汐里はクマを手に取り、僕に渡した。
「この子あげる」
僕はクマを抱いたままキョトンとした。後で思い返せばもっと不思議だった。けれどこの時、僕の戸惑いは、突然クマを貰ってしまったことにあった。確かに惹かれた。目が合った。そしてその目を逸らせなかった。バカみたいだと思われるかもしれないけれど、
「でも」
僕は汐里にクマを返そうとして、逆に汐里に押し返された。
「いいの。その子、スナオっていうの。大事にしてあげて」
あらためて手にしたスナオを見た。子どもの僕の手にさえ収まるくらいに小さなスナオは、棚にいた時と同じように、両足を広げてどっしりと僕の手の中に座っていた。つぶらな黒い瞳に、ほんのり笑みを浮かべたような口。ただそれだけのスナオに、なぜ僕が惹かれたのかは分からない。
汐里は学習机の抽斗から、青いリボンを出してきた。そしてスナオの首に結んだ。
「ゲームをしましょう」
汐里は言った。
「奏太君がこの先、どうしても困った時が来たら、このリボンをほどくの。ほどいたら私の勝ち、ほどかない間は奏太君の勝ち」
僕は再びキョトンとした。汐里は続けた。
「但し、このゲームに『負け』はなし。私か奏太君か、どちらかが勝つだけ。それじゃ始めましょう」
そう言って汐里は、いきなり僕をくすぐり始めた。僕はケタケタと笑ってしまい、危うくスナオを落とすところだった。
「やめてよう!」
「困ったならリボンをほどけばいい」
「いやだよこんなことで!」
僕は笑って、くすぐり返そうとした。汐里はヒラリと身を交わし、二人で部屋を飛び出して追いかけっこが始まった。あとで汐里の父である住職と僕の両親に二人とも叱られたが、この日以降、僕はしばしば汐里を訪ねた。汐里は僕の二学年上で、姉が出来たような心地だった。スナオは貰って帰ったあと、汐里のところへ行く以外は、学習机の鍵のかかる抽斗を彼の部屋にしていた。よく分からないがそうしたかった。夜寝る時は一緒に寝た。いつしか彼に、その日にあった出来事を、そっと話すようになった。
さて、こうしてこの話をするのは、ほかでもない。今僕は、スナオのリボンをほどくべきか、とても迷っているのである。そう、汐里の言った、「どうしても困った時」が、来たようなのだ。
しかし、ほどいたところでどうなるのだろう。汐里の勝ちだ。それだけだ。汐里は言った。「『負け』はなし」だと。
けれど僕は、どうしてもリボンをほどくことが出来なかった。汐里はああ言ったけれど、ほどいたら僕は負けてしまう。
いやむしろ、「私の勝ちね」と汐里が笑ってくれるなら、思い切ってほどいてしまいたい。汐里にはもう何年も会ってなかった。思春期を迎えて何となく足が遠のき、それでも会えば汐里は変わらず挨拶をしてくれ、互いに地元を離れて進学した。汐里はよく手紙をくれたが、僕はなかなか返せなかった。そして永遠に返せなくなった。汐里は死んでしまったのだ。訃報を聞いて地元に飛んで帰り、通夜に出て実家へ戻ってきたところだ。そして鞄から、思春期を経ても地元を離れても、片時も離すことのなかったスナオに話しかけている。
なあ、スナオ。僕はどうしたらいい。
スナオの首に、汐里の結んだリボンがある。
ゲーム 群青更紗 @gunjyo_sarasa
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