標識

群青更紗

第1話

「それは何だね、」

 後ろを通りかかった課長が尋ねてきた。僕は書類整理から顔を上げ、課長の視線の先を確認すると、思わず「ああ、」と顔をほころばせた。

「長女が父の日にくれたんです。幼稚園で作ったとかで」

「なるほど、最近の幼稚園はなかなか洒落たものを作らせるんだな」

 課長がまじまじと見つめたので、僕は思わず差し出した。愛娘からの大切な贈り物だが、課長なら乱暴には扱わないだろう。案の定、課長はポケットからハンカチを取り出して、その上に乗せる形で手に取ってくれた。

「さすがに文字はまだ書けないか」

「そうですね。僕の持ち物を思い出しながら作ってくれたみたいで、それっぽい雰囲気だけ出したみたいです」

「よく出来てるな。四歳だったか?」

「もうすぐ六歳になります」

「もうそんなに大きくなるのか。早いもんだな」

 課長は娘からの贈り物を僕にそっと戻すと、視線を少し遠くへとやった。

「……標識自由化から、もうそんなに経つんだな……」

 娘からの贈り物――標識のミニチュア――をデスクに戻しながら課長のつぶやきを耳にして、僕も思わずあの頃を振り返った。


 標識自由化は、ちょうど僕の長女が生まれた年に制定された。それまで標識は一部の富裕層にしか掲げられないものとされてきていた。自由化運動自体は僕が生まれる前からあったようだが、大きな引き金になったのは「標識撲殺事件」だ。「一部の富裕層」以外に、外国人は自由に標識を掲げられる条約が戦後一方的な形で結ばれていたが、外国人基地のある都道府県のひとつで酔った兵士が自前の標識で民間人を殺してしまった。日本の規格では絶対に認められないサイズと材質のその標識による暴力は、あっという間に世界ニュースになるほどの衝撃を走らせた。僕はその頃大学生で、デモに参加したこともある。「標識の常識を変えて」「No More 非常識」とかいたプラカードを持って何時間も街を歩いた。

 この運動をきっかけにメディアや首脳会談が動き、現在の僕らは規定を守りさえすれば、自由に標識を掲げられる。男性はネクタイ代わりに標識をぶら下げ、女性はハンドバッグに標識を付けて歩く姿が常識となった。


「懐かしいな。キミの家に生まれたばかりのお嬢さんを見に行って、枕元にもう標識が置いてあったのには驚いたよ」

「今はどの病院でもやってくれるみたいですね。人生最初の標識になるので、それぞれ個性や特性を出して競合しているみたいです」

「俺の若い頃じゃ考えられないな」

「息子さん、お幾つでしたっけ」

「高校二年生だ。早いもんだな」

「わ、もうそんなに大きいんですか。何年か前のバーベキューでお会いしたっきりですね」

「最後に参加したのが小学校六年だったかな。標識を準備して張り切っていたなあ」

「覚えていますよ。あの時作った図案の幾つか、今世界基準登録されていますよね」

「大したことじゃないさ」

「いえ、そんな。進学は美術大学ですか?」

「そうだな、デザイン科に進みたいと言っていた。うまく将来仕事になればいいんだが」

「きっと大丈夫ですよ。息子さんのデザインした図案、僕も使ってますけど、皆に好評ですもの」

 課長が思わず頬を緩めそうになったのを、横を向いてごまかしたのを僕は見逃さなかったが、それは黙っておくことにした。


「ところでね、」

 課長は僕の向かいの自分の席に戻ったあと、あらためて声をかけてきた。

「キミのその標識なんだが、ひとつ困ることがあるんだ」

「え?」

思わず頓狂な声を出してしまった。

「キミの大事なお嬢さんの作った標識なのは分かるのだが……その図案の絵、気付かないか?」

 言われて首をひねったが、まじまじと眺めて考えて、アッと小さく声をあげた。

「――気付いたかね?」

「なるほど、分かりました」

 僕はその標識を、課長に図案が見えないように移動させた。

 標識の意味は、「脱・喫煙」。ヘビースモーカーの課長には厳しい命令だ。

「すまんね。贈り物のミニチュアとはいえ、気になってな」

「いえ。標識の効果は絶対ですものね」

(了)

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標識 群青更紗 @gunjyo_sarasa

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