水から光の差す

 梅雨の半ばに穏やかな、しとしとと小雨の降る朝だった。空梅雨ではないが降雨量は例年より少なくなるという。

 水族館へ続く遊歩道の丸い屋根の下を、何人もが連れだって歩いていく。両親それぞれの手にぶらさがってはしゃぐ子供、それを後ろからにこにこと眺める老夫婦。入口前には待ち合わせでもしているのかメンソールの煙草をふかす女性。切り取られた情景はおおよそ幸福そうなものばかりだ。

 その人波でひときわ目立つ二本の角と小柄な黒髪を、物陰から窺う影があった。

 目深な帽子に隠れきらない人好きのする狐目と、伊達眼鏡で誤魔化した黒目がちの目と、眠たげな半眼。どれも金治郎ならば、青高アオコーの教室で見覚えのある顔だった。


「なーんであたしまで巻き込む」

「男二人はキツくね? やっぱこう、彩りっていうか華がさー」

六島むしま誘ったらマジ説教喰らったんだとさ。転ばされなかったのは温情だろ」

「あまりにも頭が悪すぎる、むっちゃんと氷室を組み合わせたら放送事故」


 紅一点と化した目貫めぬきのすくめた肩に、顔についているものよりもぱっちりと開いた瞳があった。百々目鬼とどめきの先祖返りであるところの彼女の体には、いたるところに追加の目がある。おかげで着る服を選ぶ、というのは事実であって悩みの種ではなかった。

 その目のいくつかが二人の鬼を見た。


「あの服危なくない?」

「雨に白の……ワンピースかアレ? 泥が跳ねたら即死じゃないかあんなもの」

「でもカワイイし……」

「汚れたら無になるカワイイってのがある」


 金治郎は先日見繕った品をそのまま着込んだ、手抜きと言ってしまえばそうだが間違いはない格好だ。一方の小柄な黒髪の少女は、白いワンピースの上に水色のカーディガンを羽織っている。手に持った小さな鞄も似た系統――おそらくは全て同じブランドの品物――でまとめられ、なるほどコーディネートとしてはお手本のようなものだった。


「あーいうのって衣装さんとかいんの?」

「……いい家ならそういうのを決める人ぐらいいるんじゃないか?」

「だとしたら出かけることを想定してほしい、心配になる」


 常ならば。

 いつでも側に控えている、女中の方の氷室が適当なちょうどいい服一式を見立て、薊本人の確認を得てから着替えの手伝いをするのだが、今日はどうにもそういうわけにはいかなかったのだ。なにせ、今の八瀬本家で薊より上にいるものから供を頼まれてしまうと、一介の女中にすぎない彼女にはそうそう拒否権もない。

 逆に考えるならば、そのような状況でもなければ氷室が窓口までには着いてきていて、氷室たちが拙い尾行を咎められることになっていたこと、ぐらいは容易に予測できるが――学生の彼らには知るべくもなかった。


「で、追うなら入らないと紛れないか?」

「寅尾、デカいから大丈夫」

「トラだもんな」


 級友からの雑な扱いは本人の知るところではない。いや、実際対面している時のほうがよほど気安かった。

 窓口を通り過ぎて入っていく二人を追って、気持ち程度の変装を試みた三人も水族館へ滑り込んでいく。





 体格差は激しいが、傍から見る分にはお似合いといっても差し支えない。とはいえ兄妹と思われてもおかしくはない。おおむねそのような認識を三人は共有した。

 廊下は薄暗く水槽から光が差し込むようになった館内では、人目もはばからず仲睦まじさを見せる――かなり婉曲な表現だ――カップルも相応の数いるようだ。しかし、真剣に水槽を覗き込む二人の視界にそういった邪魔な物体は入っていない。


「デートっぽさは……ないな」

「遠足」

「もしかしなくても二人とも初水族館とかいう?」


 小学校の授業で連れてこられるには、水族館そのものがまだ新しい。"彼女"はともかく出不精の気がある金治郎なら来たことがないというのも頷ける話だ。三人は揃って頭を押さえた。


「色っぽい話にはなりそうにないな」

「未成年にそういうのよくない」

「……なんかドッキリハプニング起きない? ダメ?」


 空調で暑くなってきたために脱いだ帽子を指で回しながら、氷室は唇を尖らせた。


「故意に起こしたら僕は縁を切る」

「なんでそう……」


 わかってないな、とばかりに指を振る。つるつるとよく磨かれた床へ落ちた帽子は月埜が拾った。


「仲の進展にイベントは不可欠じゃん?」

「だからなんで」

「そもそも幼馴染の恋愛にそこまでかかずらう理由がわからないんだが?」

「俺はねえ、ってのにアコガレがあるワケよ。だからトラにもこう、ね?」

「ねじゃないが」


 雪女の婚姻譚の多くは不幸な結末に終わる。

 多くの逸話が残る妖怪の血を引くものたちは特に、その逸話そのものに縛られやすい。本人がそうでなくても色眼鏡で見られることも多くある。金治郎を筆頭にした鬼などは特にそうだ。氷室自身としても、こうして自分が存在している以上先祖の結婚は幸福なものだったと考えたいが、ひっかかるものはあるようだった。


 と、進む先に何組かが写真を撮っている姿が見える。水族館の目玉ともいえる三階まで吹き抜けの大水槽だ。大小さまざまな魚が自由に泳ぎ回る円柱形の水槽で、飼育員が泳ぎながら給餌するパフォーマンスは相当な人気がある。アルバイトに入る岩瀬など水中で呼吸できる先祖返りは、ボンベなどを背負わなくて済むために特別な衣装で泳ぐこともあった。


 二人で撮ろう、とでも言ったのか。携帯端末を手にまごつく金治郎を横目に、背伸びした連れが懸命に自分の端末と腕を伸ばすが、さすがに身長差もあり自撮りではうまく入りきらないようだ。

 三人としてもできることなら手伝いに入りたい。が、尾行がバレればいかに温厚な部類でも鬼は鬼、ちょっとどのような目に遭うかわからない。そもそも彼女の側になにかされる恐れすらある。

 自業自得ではあるが三人がやきもきしていると、通りすがりのいかにも親切そうな青年が二人に声をかけた。手荷物は肩にかけた鞄程度で両手は空いている。声は聞こえないが何を言っているか程度は推測できた。


「なーるほど『よければ撮りましょうか?』だな!」

「よくやった。オマエの要求したイベントだ」


 男子二人のかなり勝手な賞賛は、もちろん親切な青年に届くことはない。ちょうど水槽のせいで逆光になるうえ、館内でのフラッシュは禁止だが、青年が二人に見せた画面とそれによる反応からすると、うまく撮れたようだった。


「いやーいい人だな! 俺もあんなんやってればモテっかな」

「…………」


 氷室の寝言に無視を決め込んだわけではない。

 目貫の肌に浮かぶ瞳のすべてが、あの親切そうな青年を凝視していた。


「なに?」

「あの人、ケータイ返す時に寅尾の財布かなんかスった」


 どうやって、と月埜は低く聞く。上着のポケットが不自然に膨らんでいる、ということもなければ、肩に提げた鞄は薄い。どころか塞がった両手でどうやって掏ったのか、疑問に思うのは当然だろう。


「見たらわかる。わかんなかったら説明する」


 三人が注視していると、男はさらに他の家族連れへ声をかけ、同じように写真を撮る。そして家族全員が画面を覗き込んだ瞬間に、男の後頭部からなにか長いものが飛び出して蠢いた。


「……暗いから見えづらいけど、あの人頭にもう一つ口あるよ。それ」

「二口女……いや二口男か? 氷室といいややこしいぞ」

「そこは俺関係なくなーい?」


 なにせ水族館だ。休日の人混みだ。魚そっちのけで周りの客のことを気にしている連中など、目に付く範囲ではこの三人ぐらいしかいない。

 その場で取り押さえるにしても、未だ大水槽をじっと眺めている二人に尾行が露呈する。だが放っておけば被害は増えるだろう。通報したとしても、到着までに逃げられたならば目も当てられない。


「ちょっと俺、悪いことを考えたんですけれども」

「言っておくが僕は顔がいい以外にとりえはないぞ」

「ごめん月埜には期待してない……」





 男には、急に冷たい風が吹いたように感じられた。

 雨に対応した厚着では暑いほどに効いている空調にしては不自然な風だったが、男はさして気にも留めず、足も止めない。

 ちょっとした不調かもしれない。長居をしすぎた、いい加減外に出なければ怪しまれる――そう考えたあたりで、視界いっぱいに天井の換気用ファンが映った。


「はいちょっと通してね、はい、はい現行犯。確保」


 警察手帳を掲げたスキンヘッドの私服警官が男を押さえ、なんとなくメンソールの香りを漂わせた私服婦警らしい女性が手錠をかける。

 とっさに体を受け止めようと舌が飛び出したおかげで、男の周りには口からこぼれた財布や手帳がばらまかれていた。





「……ケーサツの人いたんじゃん」

「見られなくてよかったな。もろとも逮捕か補導ものだったぞ」

「ルート見ながら死角狙ったあたしに感謝してほしい」

「ありがとう目貫愛してる」

「は?」


 三人組の、というかほぼ氷室一人が並べ立てた作戦はこうだ。

 氷室の力ではわずかな氷ぐらいしか生成できないが、それを二口男(仮名)の進路上にごく薄く張る。暖房のおかげですぐに氷は溶け、ワックスの効いた床にピンポイントな水たまりが発生し、少なくとも足はとられる。転ぶかもしれない。転んでほしい。

 もちろん氷ができたところを人に見られると、マズい。許可のない意図的な使用はほぼアウトだ。そこで他人の視界に極力映らないよう、目貫がいくらか目を飛ばしてタイミングを計って指示する。

 このように浅知恵に浅知恵を重ねた代物だったが、幸運にも張っていたらしい警察官がいた。ざわつく群衆を鎮める要員もいる様子で、どうも相当な人数が潜入に動員されていたようだ。よほど同じ手口での犯行を繰り返してでもいたのだろう。


 見当たらない貴重品はないかの確認を呼びかける声が響く。次いで、館内の全員に退出を求めるアナウンスが流れ始めた。

 三人は顔を見合わせ、氷室は帽子を被り直して、人の隙間を縫うように転がり出ていく。

 出口で鉢合わせたらバレる、それだけは共通認識だったのだ。

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