猫に恩返しできない

テトラ

猫に恩返しできない

 平日、真昼間の駅前ロータリー、噴水の前で座る少女と、少し離れて眠る三毛猫がいた。少女のことは、この場所でたまに見かけたこともあった。その度、少女は三毛猫に餌をやっていた。

 少女は、どこかの高校の制服を着ている。学校には行かなくていいのだろうか。小さく丸まって、なんだか捨て猫のようだ。

 一方の三毛猫は、ゴロンと横たわっていた。体も態度も大きかった。たまに、人間じみた仕草で欠伸をしながら、まばらにしか毛の生えていない腹を掻いている。まるで、休日のおっさんのようだ。

 その二人の間には、微妙な距離があった。だらしなく見える猫だが、少女に気を使っているように感じられた。本当はもっと近づきたいが、これ以上は寄れない、でも側にいたい、そんな雰囲気だ。俺は暇だったので、その二匹を観察することにした。


 しばらく眺めていると、ふと感じたことがあった。

 あの子は何かを待っているのではないか。

 悩み多き年頃なのだろう。何を待っているのかはわからないが、切実な面持ちである。俺のことを待ってくれているのなら嬉しいんだけどな、と空しい妄想をした。そして、思い切って話しかけてみようかと、あらぬ考えもよぎったが、今の自分の状況を思い出し自嘲した。


 ずっとここにいるのだが、どうやっても誰にも認識してもらえないのだ。

 どうやら俺は、本当に死んでしまったらしい。死因は忘れてしまった。ある日突然、交通事故だか病気でポックリと死んでしまったのだ。俺に訪れた死は、とても事務的だった。怒りも、悲しみも、絶望も感じなければ、感謝も、喜びも、希望も感じない。なぜなら、俺はここに存在しているから。生きていた時と全く同じだ。正確には、死んでから他人に自分の姿が見えなくなったようだが、生きていた時から誰にも相手にされていなかったので、結局何も変わらない。


 そして俺は、相変わらず駅前ロータリーに来ていた。俺は、いわゆるストリートミュージシャンで、夕方になるとここで歌っていた。生前俺が歌っていた歌を、真剣に聞いてくれた人なんて誰もいなかった。それでも、一人くらいは……、という未練があったらしく、相変わらずここにいる。

 だから、もしかしたら俺のことを待ってくれているのかもしれない少女、という妄想で死んでから初めて気持ちが動いていた。

 日が傾き始めた。ここは、たくさんの若者が、音楽や大道芸を路上で披露して、己の力量を試す場所だった。それなのに少女が他の路上ライブをしている連中には目もくれなかったことから、自分にとって都合の良い妄想は加速した。つまり、彼女はこの俺の登場を待っている。


 まず、存在を認識してもらわないと話にならない。俺はウロウロと少女の前を何度も通り過ぎ、効果がないとわかると、触ろうとしたり、至近距離で変顔をしたりと、色々試した。しかし、全てが徒労に終わった。残念ながら、俺の行動のどれにも反応はなかった。歌えば気づいてもらえるかもしれないという考えも浮かんだ。ギターは持っていたが(死者が持つギターは死んでいるのか?)、歌うことだけはどうしても気が乗らなかった。

 夜も更けてくると、彼女はトボトボと帰っていった。


 何もしてやることができないのか!

 俺は、自分の不甲斐なさに嫌気がさして落ち込んだ。

 いつまで経っても来ない奴を、いつまでも待っている少女に苛つきもした。そんな人は死んだ人と同じことだ。有名な歌じゃないか!

 年頃の女の子がすることなんて、他にいくらでもあるだろうに。


 とはいえ、俺は死んでいて、他に何もすることがない。次の日も、その次の日も、少し離れたベンチから、彼女を眺めて、思いを募らせていった。三日目、今日こそは気になるあの子に振り向いてもらおうと意気込み、渾身の一発ギャグをひねり出そうとした。死んだときに半分壊れたらしい脳みそをフル稼働させる。『これじゃ、まるで中学生だ。努力の方向が間違っている!』という内なる声は、無視し続けていた。太陽が西の空に傾く頃までそうしていると、俺の脳細胞たちは大層御疲れになったようだった。使えそうなギャグは一つも浮かばなかった。彼女はそこにいるのに、結局何もできないまま、今日も終わる。


 俺の隣にいつの間にか、あの三毛猫が寝そべっていた。そう言えば、なんだかんだこいつも毎日ここにいるな。こいつもやっぱり俺のことを待っているのだろうか?いや、彼女がくれる餌を待っているのか。しかし、彼女は世界の終りのような表情のまま、周囲の人や物や動物に一切興味を示さない。無駄な努力に疲労困憊した俺は、ぼんやりと猫に話しかけていた。

「お前も彼女に気があるのか?あ~、餌がほしいのか!」

 もちろん返事はなかったが、そのまま独り言のように続けた。

「あの子はなんで、ずっとあそこにいるんだろうな?」

「にゃー(そんなに気になるなら、本人に直接聞いてみればいい)」

「ん!?」

 俺はびっくりして、まじまじと猫を見つめた。けだるそうに尻尾をプラプラ揺らしている。

「お前まさか、俺のこと見えてたのか?」

 ツンとそっぽを向く猫。この反応は、やはり見えている。しかも、喋った。いや、人間の言葉は喋っていない。「にゃー」という短い一言に、信じられない程たくさんの意味を無理矢理詰め込めんで、放り投げてきやがった。

 こりゃ、参った。この太ったおっさん猫には俺が見えていた。しかも、なんだかとても怒っている御様子だ。身に覚えがない。

 混乱の中にいる俺に向かって、猫はもう一声鳴いた。

「にゃー、な(彼女の夢に入ればいい)」

「は!?何それ!?どうやる?というか変態じみてないか?」

「にゃお(自分で考えろ)」

 その後、何を聞いても猫は反応してくれなかった。仕方なく、俺は貴重なアドバイスを胸に、もう一度少女への接触方法を考え始めた。そして、閃いた。俺は、グダグダと寝返りを打っている三毛猫を起こすと願い事をした。報酬を約束すると、猫は渋々といった表情で願い事を叶えに行ってくれた。しばらくして猫は、俺の携帯音楽プレーヤーが咥えて帰ってきた。よだれまみれだ。

 俺はそれを受け取ると、寝てしまった少女の横にそっと腰かけた。近くで見ると、かわいらしい顔で寝息をたてている。白い頬はほんのりピンク色に染まって……。おっといけない。年齢差を思い出し、気を引き締めた。「ごめんなさい」と言いながら、イヤホンを彼女の耳にさす。


 俺は彼女のおでこに手を触れると、大きく深呼吸して目を閉じた。そのまま、気持ちを落ち着かせていく。すーっと視界が真っ白になる。焦らずに、もう一度目が見えるようになるのをじっくりと待った。すると、徐々に物の輪郭が見え始めた。そこは、学校の教室の中だった。それから、淡く霞がかったいくつかの場面が映し出されていく。

 どうやら彼女は、周りから完全に無視されていた。理由は、はっきりしない。でも、学校で話しかけてくる者は、一人もいなかった。自分から話しかけようともしない。家の様子もなんとなく垣間見えた。両親ともうまくいっていないようだ。どちらも、彼女の主観なので、真実はわからない。とにかく、彼女には居場所がなく、孤独に閉じ込められていた。

 彼女の夢がループし始めたところで、俺は突然歌い始めた。彼女はびっくりした顔でこちらを見た。人の夢を覗き見た罪悪感がチクリと刺さるが、笑顔で覆い隠す。彼女は、怪訝な顔でこちらを見つめていた。なんせ、学校の教室でおっさんが歌っているのだ。無理もない。やがて、夢だと気が付いたのか、彼女は声をあげて笑い始めた。それを見た俺は、幸せだった。


 それから毎日、少女の夢の中で俺は歌った。世界は大きいだとか、小さいだとか、一つだとか、たくさんあるだとか。真実の愛にいつか出会えるだとか、そんなものはないから現実を見ろだとか……。恋とか、愛とか、夢とか、希望とか、友情とか、なんとかかんとか……。許すの、許さないの、忘れるの、思い出すの、なんのかんの……。とにかく、夢に出てくる場面に合わせて、都合の良いことばかり歌いまくった。これじゃ誰も聞いてくれないわけだ。主張がブレブレで、浅はかすぎるもの。でも、今更気が付いても遅いのだ。俺は開き直って、オリジナルもカバーも節操なくやりたい放題歌いまくった。どうせ死んでいるんだから。何を歌っても、すごく楽しかった。特に猫のアニメ映画の主題歌が彼女にヒットした。彼女は猫が好きなのだ。


 俺は、生前歌っているとき、自分の中にある真実を、言葉にして伝えようとしていた。周りの奴らに何とかこの気持ちを伝えてやろうと、もがいていた。しかし、一向に伝わらなかった。たまに、真剣に聞いてくれる人もいたが、本当に大事なところは、そう簡単に理解されても困るのだという、不要なプライドもあった。そうして俺は、誰かに何かを伝えることを諦めかけていた。それでも歌うことをやめなかったのは、そんな自分に酔っていたからと、何かを為したいという思いをどうしても消せなかったからだ。今なら無意味だったことがよくわかる。あれだけ悩んでも振り切れなかった思いが、すっきりと割り切れそうだ。名前も知らないこの子を笑顔にできれば俺の勝ちで、ダメなら俺の負けだ。


 少女は、毎日駅前に来て、暗くなると家に帰っていった。俺が実在しているとは思ってもないだろう。ここに来れば、なんとなく良い夢が見られて、なんとなく良い気分になれる。そう思ってくれればよかった。毎日毎日飽きもせず、同じことを繰り返しているうちに、彼女は少しずつ明るい表情で帰るようになっていった。何日かすると、昼間には来なくなった。ちゃんと学校に行っているのだろう。夕方、ここに来て、ひと眠りして、家に帰るのが少女の日課になっていた。



 そして、俺が死んでから49日目の夕暮れを迎えた。


 俺は、自分のミュージックプレイヤーを少女にプレゼントした。目覚めた彼女は不思議そうにそれを眺めながら、でもしっかりと握りしめていた。もう大丈夫だ。

 彼女は、三毛猫に餌をやると(こんなおやじ猫の何がいいんだか)、暮れかかる最後の夕日に向かって帰って行った。後には、俺と猫だけが残された。

「なあ、俺、何か残せたかな?」

「にゃお(何も)」

 俺はムッとして、猫を睨む。だが猫は、全く意に介さず、俺の視線を正面から受け止めて、こう言った。

「にゃー、にゃー!(おい、いつになったら餌くれるんだ?これ以上待てないぞ!)」

 まったく、現金な奴だ。

「それは無理だ。もう俺には実体がないんだ。物はあげられないよ」

「ぬぉー(たばかったか)」

 やべ、怒った。

「まあまあ、抑えて。いい情報なら、教えられそうだ。知りたいか?」

「にゃ、にゃっ(もったいぶるな、早く言え)」

「いいか、よく聞けよ。日が暮れるちょうど今頃、雷鳴食堂の裏に行け。そこで、残飯をもらえるはずだ」

「にゃんにゃー、なぁ(そんなの誰でも知ってる。たまに行く)」

 知ってたか。

「うーん、すまんが、他にあてはないな」

「なーお(使えねぇ奴だ)」

 諦めたように、プイと後ろを向いて、猫はそこから立ち去ろうとする。どうやら、こいつには何も残せなかったようだ。俺は突然寂しく、申し訳なくなり、思わずそのたくましく年老いた背中に声をかけた。

「長生きしなよ」

 余計なお世話だってことは、わかってる。死んだ奴に言われてもな。猫は、一度も振り返らずに、そんなこと当り前だと言わんばかりに尻尾を一振りして、道路脇の茂みに消えていった。

 この世界との、最後の結び目が、あっさりとほどけていく。

「あいつ、あんなに辛口だったんだな」

 しみじみと口にする。何か喋っていないと、自らに迫る死の瞬間に押しつぶされてしまいそうだ。……まあ、もう死んでいるのだが。そして俺は一人、取り残された。この世界に、俺を見てくれる人はもういない。

 生きているときは、誰かが、何かが、終わらせてくれることを待っていた。だって苦しかった。いつまでたっても、誰にも見向きもされない。それなのに、全く諦めはつかない。自分で終わらせることができない。自分以外の何かに、強制的に終わらせてほしかった。でも、まさか死ぬなんて。人生丸ごとゲームオーバーになるなんて思いもしなかったんだ。悔しい、悔しい、悔しい。でも、一勝はした。それで良しとしよう。それで……。



 さて、そろそろか。

 これで最期だ。俺は、何かを……、
















 暗くなり始めた駅前ロータリー、噴水の前にギターを抱えた若い男がぼんやりと座っているのが、彼の目に留まった。何かが気になり、ふと立ち止まった。これから路上ライブでもするのだろうか。それとも、すでに終わったのだろうか。いずれにせよ、この場所ではよくある光景だった。

 一体、その男の何が気になったのだろう。

 男と目が合った瞬間、彼は悟った。しまった。また、やってしまった。気をつけていたのに……。

 見えないはずの人を見てしまうのは、本当に久しぶりのことだった。しかも、今回は最悪のタイミングだ。

 目が合った瞬間、その男は歓喜と絶望が入り混じったような表情を浮かべた。男の感情が流れ込んでくる。もの凄いめまいがした。そして、お互いに目をそらすことができなくなってしまった。もうどうしようもない。

 男は未練があるような、さっぱりしたような矛盾した表情のまま、少しずつ静かに消えていった。彼はただ、最後までそれを見つめているほかなかった。

 男が完全に消えてしまうと、金縛りから解けた。

 ああ、男から一つの使命を与えられてしまった。この町で一番大きな、しかもオスの三毛猫を探して、プレミアムなツナ缶をやらないといけない……。寒気がして、ぶるっと身震いをした。さっさと帰って、熱い風呂に入ろうと彼は決めた。猫探しは明日からだ。

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