Return of the lost one/To freedom

【Return of the lost one(Nowadays)】


 〈泣歌〉が小さくゆるやかにすすり泣いている。

 涼やかな木陰のベンチに腰掛けて、一同は薄荷の香る冷茶を手に一息ついた。

「さて、先ほどの件ですが」と、案内人が口火を切った。「〈失われた貴公子〉に関する、面白い見解とおっしゃいましたが、どのような?」

 それなのですが、とウィンスビートは噛んでいたストローから唇を離し、浮いている氷をカラリとひと混ぜする。

「先にひとつ確かめたいことが。質問をしても、かまわないでしょうか?」

 どうぞ、と、了承を得て、ウィンスビートはすぐさま探索する者の顔つきになる。

「こちらのホテルに、あの亡霊が棲むという井戸以外に、井戸はありますか? もしくは、過去に存在しましたか?」

 案内人は、記憶を探るように眉根を寄せる。

「いいえ。周囲を湖に囲まれておりますので、水には不自由しておりませんから。他に井戸が掘られたことも、おそらくはないと思います」

「なるほど。では、亡霊が棲むというあの井戸が、実際に使用されていたことも、一度もないということでよろしいですか?」

「古いことはわかりませんが、かれこれ五、六十年――私が知っております範囲ですが、使われたことはなかったと記憶しております」

「ありがとうございました。欠けていた断片ピースがうまくはまりました」

 探索者は、質問を終える。

 〈泣歌〉がゆるやかにすすり泣く。西側から城の庭に入り込んだ風が、おだやかに梢を揺らしていく。各々の手の中のグラスは、汗の玉を浮かべ始めていて、溶けた氷が小さく音を立てる。

「この風」とウィンスビートは口を開いた。

「〈泣歌〉ですが、ここでしか耳にすることができない珍しい現象ですよね」

「ええ。他の地方では、このように風が泣くことはないと聞いております」

「〈泣歌〉は――この辺り独特の風の音は、乾季の終わり、季節が変わる直前にのみ耳にすることができます。昔からお住まいのあなた方は慣れきっていて気にも留めないかもしれない。ですが、改めて考えてみれば、これはどこから聞こえてくるのだろうかと、不思議に思われませんか」

「と言いますと?」案内人は、ほんのわずか、片眉をあげて見せる。先を続けて欲しいと。

「〈泣歌〉のすすり泣く声に似た音が聞こえるのは、乾季の太陽にあぶられきった湖の水位が低下する渇水期、さらに西から風が吹く場合に限られています。西からの風は、ちょうど湖の東岸、洞窟群へと強く吹きこみ、それからほどなく、

 おそらくは、湖の下を通りこの城へ通じる何らかの空間……洞窟かそれに類するもの、東岸と城を繋ぐ、風の抜道となるものがあるのです。〈失われた貴公子〉――肖像画の人物は、渇水期にのみ入口が現れるその空間へと、城にただひとつ存在する井戸から入った」

 湖とあの井戸は通じています。そう、ウィンスビートは言った。

「僕は地図と地形図、それに水脈図を調べた結果、こう仮説を立てました。『先住民によるものか、城主の一族によるものか、どちらの手によって作られたものだったのかはわからないが、あの井戸は、当初は井戸ではなく、緊急時の抜け穴への入り口として掘られたものなのではないか。』それがいつの頃からか、湖の水位の上昇により、井戸であると誤解されてしまった」

 隣に座る案内人は、じっと耳を傾けている。反対に、リュトナイアは、蒸し暑いのだろうか、喉上まで覆うシャツの胸元をしきりと弄っている。

「幸いにも今は渇水期、湖の水位が低下している時期です。同じように井戸の水位も低くなっているはず。僕は井戸を覗きこみ、低下した水面の近くに人が這い込めるほどの大きな穴が口を開けているのを発見しました。そして、〈泣歌〉は、そこから聞こえていた」

 ウィンスビートは乾いた喉をうるおし、再び続けた。

「僕は既に、井戸の傍の柱の、なにかで擦った痕のような古い傷も見つけていました。おそらく傷は、ウルタミネがつけた縄の痕です。

 想像ですが、ウルタミネは、あの井戸が抜け穴への入口だと知っていたのではないでしょうか。抜け穴は湖の水位が低下する時期にのみ現れ、〈泣歌〉は、それが使えるようになったしるしであることも。

 完全に忘れ去られていたものを、どうやって発見したのかまではわかりません。しかし、彼女は十一年もの間、父親に代わりこの城の主だったわけですから、疑問を持つことさえできれば、調べられたはずです。

 彼女は、戦場から戻り来た父親に何らかの理不尽を突きつけられ、それを使う決心をした。

 ここからは、もはや妄想に近いものですが。彼女はこんな計画を立てて実行したのでしょう。

 自分で、あるいは召使いに命じたのかもしれませんが、まず、丈夫な長い縄と携帯できる小型の刃物、なんらかの動物の血を用意し、井戸がある部屋の扉の普段はかけられている鍵を外しておく。

 次に上階にある父親の部屋へ赴き、わざと口論になるように仕掛けて、部屋を飛び出す。――召使いがすれ違ったというのは、この時の彼女でしょうね。

 階段を駆け下りた彼女は、鍵を開けておいた井戸のある部屋へ入り、用意しておいた血を床に撒いて、髪の一部を切り、血溜まりに浸した。――今のように判別する手段のなかったころです、動物の血であるのか人間の血であるのかは、撒いた本人にしかわかりませんから、細工としては充分でしょう。

 それから、井戸の傍にある柱に縄を回し、両端を結んで長い輪を作る。

 輪になった縄を井戸の内側に垂らし、体にそれを巻き付けて降りれば、井戸の壁に開いた抜け穴の入り口に入ることができる。

 縄は一か所を切ってたぐれば手元に回収できますから、あとは穴から少しだけ顔を覗かせて叫び声をあげれば、『井戸に棲む亡霊に襲われた者の悲鳴』が城中に響きわたり、もくろみは成功します」

 もくろみとは、つまり、貴公子は亡霊にとり殺されたと城の者たちに信じ込ませることだ。

「なるほど」と、案内人がうなずく。

「抜け穴を通って湖の東岸へ脱出したのなら、誰に見咎められることもなく、自由を手に入れることができたでしょうね。城から離れた場所へ出てしまいさえすれば、夜が姿を隠してくれる。面白いお考えですが、しかし、すべては推測でしかないのでしょう? これを広められて、今ある伝説を打ち消してしまわれますのは、こちらといたしましては――」

「ええ。もちろん、今となっては確かめる術のない想像ばかりですし、得意げに触れて回ってホテルの皆さんのお邪魔をするつもりもありません。けれど、不思議をこんな風に読み解いてみるのもまた、一興だとは思われませんか」

「……確かに。いや、まことに興味深いお話でございました。その後ウルタミネが生き延びたかどうかはわかりませんが、今でも彼女の血を引く者がどこかにいるかもしれないと考えるのは、真実ロマンティックでございますね」

 案内人が、そう話を締めかけた時。

「ウルタミネは、生き延びましたよ」

 ずっと黙ってシャツの胸元を弄るばかりだったリュトナイアが、口を開いた。

「夜陰に紛れてこの地を発ったウルタミネは、山脈を越え、逃亡の手助けをした側仕えの娘の出身地、すなわち大陸東岸まで旅をして、ある学院の図書塔に司書として腰を落ち着けました。彼女はそこで一生を過ごし、幸せのうちに生涯を終えたのです」

 なにが始まったのかと驚き注がれる二対の視線に臆することなく、麗人ははっきりと言葉を紡いでいく。

「強権的な父親に振り回され男性に失望していた彼女は、生涯伴侶を持つことはありませんでした。このため、子供を得ることもついぞなかったのですが。ただ、彼女の持ち出した指輪だけは、彼女に協力した側仕えの娘の手に託され、その子孫の元に現在まで伝わっているのです」

 ぷつりと襟元のボタンが外され、服の下に押し込められたやわらかな膨らみへと続く胸元が露わになる。さきほどまでしきりとシャツを弄っていた辺り、ちょうどその肌の上に、首から下がる細い鎖の先、鈍く光を弾く金属の輪が揺れていた。

 リュトナイアは鎖から指輪を外し、うやうやしく手のひらに捧げ持つ。

「私の一族が長らくお預かりしていたものです。お返しいたしましょう」

 肖像画に描かれたものと同じ特別な金属の輪を陽光が滑り落ちる。数百年を経て戻り来た継嗣の指輪に、グエンフィードの城が――〈泣歌〉が、歓喜にすすり泣いている。




【To freedom(Past)】


 冥界じみた暗闇の中から、星明りの差し込む洞窟遺跡の入口へよろめき出る。壁に手をついた拍子に掌に感じたざらざらとした感触は、岩に彫られている無数の紋様だろう。吹きつける風に顔をさらして、黴の臭いのしない新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込めば、肩に入っていた不自然な力が抜けた。

 井戸から続く穴を抜け、広がる迷路のような洞窟の中で迷いかけた際には、二度とこの暗闇から出られぬのではないか、と死の神の透明な羽根に項をくすぐられる思いもしたが。こうしてたどり着いてみれば、あの程度の道のりは、実にあっさりとしたものだったのだと思えてくる。

 かなた湖面にそびえる城を見やれば、騒ぎとなっているのだろう、いくつもの灯火がちらついている。どうやらは、うまくやってくれたようだ。

 視線をあげれば、黒々と横たわる湖とは対照的に、空には魚鱗を砕いたようなたくさんの星が瞬いている。ああ……、沁みいる……。覚えず口元がほころんでいた。

 グエンフィード当主の代理としてでなくなにかに接するのは、本当にどれほど久しぶりだろう。

 母を亡くした十一の歳に、戦へ出る父に強いられて〈宣誓乙女〉となり、グエンフィードの当主代理となった際、もう自分は女に――男たちの思惑に人生を左右される女に戻ることはないと心の底では安堵したのだ。法と始祖である竜血公の下に、一生を男として過ごすと宣誓した神聖な誓いが、破られることなど絶対にありえないはずだった。

 だが、所領を守り続け、十一年にもわたる戦がようやく終わったここにきて、戦場より帰還した父に、今度はその神聖な誓いをなかったことにされかけたのだ。

 なんと勝手なことか! 思い起こすとともに、改めて強く憤りがこみあげてくる。女に戻り、グエンフィードの血を入れる道具として他国へ嫁ぐように、だと? 男としての思考にも立ち居振る舞いにもなじみ切り、己は生まれつき男だったのだと錯覚するほどになりきってしまった後でか!? 今更ッ!

 ふぅと詰めていた息を吐く、怒りを逃すために。手のひらに爪が食い込むほどにぎりしめていた拳を開いた。

 己は、今夜グエンフィードの名と決別したのだ。側仕えの娘に縄と短刀、床に撒くための豚の血を用意させ、彼女の恋人である召使いの男にも口裏を合わせさせた。今ごろグエンフィード当主代理としての己は、亡霊に殺められて井戸底に引きずり込まれたことになっているはずだ。

 耳の底では、歓喜にすすり泣く風の音が聞こえている。己の代わりに、〈泣歌〉がうぶ声をあげるのが聞こえている。

 いまこそ彼女は自由だった。

 どこまでも、自由になれるのだった。

 グエンフィードの当主代理であった女は、中指に嵌めていた世継ぎの指輪を抜き取り、湖へと投げ込むべく腕を振りかぶる。

 だが、結局、その腕が振り抜かれることはなく。

 グエンフィードの名を捨てた女は、しばし手の中の指輪を眺めた後、革袋にそれを押し込み、崖の上へ続く道をたどり始めた。




(『グエンフィードの貴公子』了)

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美食猫は生命の塔を自在に泳ぐ 若生竜夜 @kusfune

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