シュレディンガーな彼女

ともども

シュレディンガーな彼女


――雨が上っていく。


――雨粒が登っていく。


――上でも、空でもない過去方向に向かって、雨粒が逆行していく。




これは、一種の時間記憶の逆行だ。


ある時間点tから、時間点t-αまでの施行によるノイズ的遅延。


その逆行許容範囲から逸脱した周逸的誤差だ。


もちろん、僕はここにはいない。そんなこと、当たり前だ。


あるとき、ある場所での、地理的概念がなす記憶の紐づけに、不可逆性有効期限――それ以上の作用があってはならないのだから。


タイムスケールでの不可逆性有効期限は、ITEA(International Time Energy Agency)でー0.4756848+37e[s]と定められている。


これは人が認識し得る誤差の最低規範だったが。それでも、なお強情に、僕はある一つの可能性について思いを巡らした。


僕が彼女の存在する次元へと到達出来得る可能性――トレーサビリティについてだ。


この絶対なる有効数字の中で、この主観時刻の中で。


僕が、僕だけが彼女のことを憶えている、知っている。その在りし日の姿を脳裏に描き出すことができる。


世界はそんな人はいないという。

世界はそんな時間は無かったという。


追従し、追従された科学の発展が、彼女の存在を全否定する。


それでも、僕は逆行する。


この雨が、たどり着き得るすべての帰結に通じるならば、またこの僕もそれと同じ場所に到達するのは当然の帰結なのだから。


その先はほんの一瞬の未来かもしれない。

その先は気の遠くなるような永遠、さらに無為と感じる領域かもしれない。


それでも、僕は時間を跳ぶ。


全ての時が縫い止められたこの限られたコンマ秒の世界で僕の目に映るのはこの雨粒だけには足りえない。


夜空が開けていく。

開闢の星々が、延々と宇宙を彷徨い届けた光。


その光の束を僕は無遠慮に押し返しながら、このタイムスケールで限られた自己の存在を確立させる。


もし宇宙が何の意味も無く広がったり、縮まっていたりするのなら、この有効数字の中の彼女もきっとそんな風に漂っているのかもしれない。


でも、それはきっととても意地悪なことだ。意味がないなんて、ホントは誰よりも純粋である証明にはならない。そう気取っている法則風情に僕は彼女を取られたくなんてない。


最期にこの時間スケールを離れるとき、教授は理解に苦しむ最期だが……そう言った。最後も何も、この時間スケールで出会った教授とはこの最期が最初の始まりであったが。


それは途方もない作業だよ、と。それがどうであれ、君はもう自身の時間スケールを捨ててしまったのだから、意味はないのだがね、とも。


僕はそれを笑って受け流す。それは教授なりの優しさだからだ。毎スケールごとに教授は僕を気遣う言葉――彼自身は僕を引き留めようとしているみたいだが――をあえて別のものにする。


それは僕が毎スケール、違う僕であるという配慮からだ。僕は全てのスケールにおいて、唯一……いや唯全、僕を気遣う教授に感謝する。


僕は相対性が嘘を付いたその画一構造の底へと飛び込んだ。これはよくあるベクトル次元が形成する無解要素の特異点だ。


その穴は無限に落ち込んでいて、一見どこにも繋がっていないように見える。ただ一つ、彼女についての思い出を持つ僕を除いて。


今や、僕は光子を追い抜き、宇宙創成の速さで彼女を想う。

今や、パラダイムシフトも、パラドックスも、僕を止めることはできない。


その今が僕には決定的に欠落している。



――上でも、空でもない過去方向に向かって、雨粒が逆行していく。


――雨粒が登っていく。


――雨が上っていく。



そう、なんたって、あの娘はシュレディンガーな彼女なのだから。

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