花と鏡

淺羽一

〈掌編小説〉花と鏡

 今日、久しぶりに訪れた会社の食堂を歩いていたら、こんな声が聞こえてきた。「マキちゃん、いよいよ駄目なんだってな」

「あぁ、もう手遅れだったんだとよ。それより、葬式には包んだ方が良いよな」

「一応は元同僚だしな。でもま、これくらいで良いんじゃないか」

 食堂の片隅で人差し指を立ててひそひそと言葉を交わしている二人の同僚を、彼らに気付かれないように窺いながら、おかしな事を言う連中だと思っていた。

 だって、マキなら今朝もマンションの部屋を出る俺を玄関で見送ってくれていたのだから。

 だけど、そこで唐突に思い出した。あぁ、そう言えば、自分達はもうずいぶんと前に別れ話を済ませていたのだったなと。

 ……だとすれば、家にいたあれは、一体誰なのだろうか。

 会社から帰った俺は、まず服を着替え、やがて台所で夕食の支度をしているその女に向かって聞いた。「お前は、誰だ」と。

 すると彼女は、まるで「おかしな人ね」とでも言いたげに微笑んでから、こう言った。

「私は、マキよ」

 その日、目の前に並んだ料理は俺の好物の中でも一番の品で、あぁ、やっぱりこいつはマキじゃないかと思った。それは彼女にとっても一番の得意料理であるのだから。

 ただ、俺は己の正面に見えるマキと楽しく食卓を囲みながらも、意識の端の方でぼんやりと考えていた。

 一体、死んだのは誰なのだろう。



 姿見の前に立ち、いそいそと喪服に着替えようとしていた俺に向かって、マキは「行かない方が良いんじゃないの」と言ってきた。

 俺はそれに首を横に振った。「いや、行くよ」と。どうしてだか、俺としては行くべきだろうと感じられていたからだ。やがて喪服に身を包んだ俺に、彼女はもう悲しげな笑みを浮かべるばかりで何も言ってこなかった。

 俺は無言のマキに玄関で見送られながら、やはり自身も何も言わずに部屋を出た。

 通い慣れた駅で降り、歩き慣れた道を進み、見慣れた住宅を通り過ぎ、しばらくして目的の家に到着した。少し広めの庭を持つ、二階建ての一軒家だ。

 弔問客はわりと多く、中には見知った人間もいたが、視線こそ露骨だったものの話し掛けてくる者は一人もいなかった。だから俺も誰かに声を掛けようとはしなかった。

 家の前に設けられた受付の所にいたのは近所の住人なのだろう、いかにも世話好きのおばさんと言った感じの人達だった。俺が「心からお悔やみ申し上げます」と香典を差し出し、氏名を記帳すると、彼女たちははっとした顔をしたが、敢えて何かを言ってくる事はなかった。改めて会釈をした俺は、小さな包みに入った塩を受け取ってそこから離れた。

 そして俺は他の弔問客と共に、庭の方から家の側面へと回った。雨戸や窓は外されていて、庭から直接に座敷の仏壇を拝めるようになっていた。

 整然と並ぶ幾つもの頭の隙間から、ちらちらと弔花や遺族の背中が見える。ただ、肝心の遺影は、延々と経文を唱える坊主の頭に隠れて見えなかった。綺麗に剃り上げられた頭は、空中に固定されているみたいに、一定のリズムで木魚を叩きながらもまるで動かなかった。仄かな防虫剤の匂いに紛れて、焼香の煙がゆらゆらとこちらにまで漂ってきていた。

 しばらくして、ようやく俺の番が回ってきた。弔問客に背を向けて居並ぶ遺族とは少しばかりのあいだを空け、縁側の上に用意される形で香が焚かれていた。そこで俺は何よりもまず仏前で手を合わせると、恭しく香をつまんで火にくべた。

 それからややあって頭を上げ、遂に見た。坊主の頭と並んで弔花の中に浮かぶように安置されている遺影に写っていたのは、享年よりも幾分か若い頃に撮られていたせいだろう、明るく健康的な肌つやで笑っている俺だった。

 あぁ、そうかと、納得した。それもそうだ、死んだのは俺だったのだから。不意に、部屋を出る前に見たマキの悲しげな顔が脳裏に蘇ってきた。

 俺は遺族に気付かれぬよう、無言で遺影に背を向けた。だが、その直後だった。

「あっ、マキちゃんっ」

 おそらく遺族の誰かが上げた驚きの声が、俺の耳に届いてきた。

「ねぇ、マキちゃんだよねっ」

 俺は立ち止まることなく、そのまま足早に庭を出た。背後では相変わらず何やら叫んでいる風な声が発せられていたけれど、関係なかった。一分も歩かぬ内に声は聞こえなくなった。

 帰り道、駅前の商店街で洒落た雰囲気の雑貨屋を見つけて、ちょっと覗いてみる事にした。喪服で、しかも葬式帰り。本来であれば避けるべきだったのかも知れないが、他に客も居なさそうだったし、今はそうしたい気分だった。一応、店に入る前に塩だけは体にふっておいた。

 それほど広くないものの清潔そうな店内の様子に、オープンしてからまだそんなに経っていないに違いないと思った。とは言え、並んでいる品物は、洋風アンティークと現代風のファンシー‐グッズを絶妙なバランスで足して割ったようなもので、人気はすぐに集まりそうだった。

 十分間ほどのんびりと見て回っていた俺は、やがて一つの商品の前で足を止めた。鮮やかなガラス細工の花が縁に咲いた、小さめの鏡だった。

 迷っていた時間は多分、二秒もなかったはずだ。俺はその鏡を静かに持ち上げると、レジへ向かった。こちらから尋ねるよりも早く、まだ二十代前半くらいの女性の店員が「包みましょうか」と聞いてくれて、「お願いします」と頷いた。マキへの土産に丁度良いと思っていた。

 そうして俺は買ったばかりの鏡を大切に抱えて、帰途に就く。果たして、これであの部屋にある鏡の数は一体幾つになったのだろうか。玄関に一つ、台所に一つ、食卓の上にも一つ、リビングには大小それぞれ一つずつ……いや、小さいのがもう一つ。それから洗面所と寝室と浴室と、そうだ、確かベランダにもあったはずで――

 歩きながらぼんやりと考えてみたけれど、結局、正確な数は分からなかった。だけど、それならそれで構わなかった。いずれにせよ、多ければ多いほど良いのだ。なぜならその分、マキの姿を見られるのだから。

 花に囲まれて笑うマキの顔は、きっと魅力的だろうと確信していた。

〈了〉

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