第17話 最終日
最終日という“特別な日”感のおかげか、それともほとんど立ちっぱなしの洗浄での仕事だったおかげか、午後特有の眠気も感じずに仕事を進めていると、4時を少し回った頃に社長室に呼び出された。
社長に呼び出される、なんて普通の下っ端社会人には一大事なのだろうが、僕はただのバイトだ。最終日だから何かねぎらいの御言葉でもあるのだろうか、などと思いながら階段を上っていったのだが、それが能天気過ぎたと痛感するのは、このすぐ後だった。
「何が目的だ!?」
ノックして部屋に入るなり、犬顔こと宗藤部長に詰問される。
「は、はい?」
今この会社で1番話題の3人組――番匠社長、宗藤部長、底山部長が目の前に並んでいた。
初めて入った社長室は、印象派風の絵画や裸婦のブロンズ像が置かれた、よくドラマで見るような典型的な社長室だった。そういえば国立さんが一言で俗物と評していたっけ。
「あの、お話が見えないのですが……」
「しらばっくれる気か!?」
「まあまあ宗藤くん、落ち着いて。相手はまだ高校生なんですから」
取り成すように割って入った底山部長の猿顔は、一見表情も口調も優しいが目は笑っていない。
「君、“にしはら”くん、だったね?でも本当は、“さいはら”くんなんじゃないかな?」
はあ。思わず額を手で押さえ、溜め息を吐いてしまう。
まったく。昨日の今日だというのに、あっちこっちでバレている。
「来客に偶然君を見かけた人がいてね。教えてくれたんだよ。SAIHARAと言えば、日本のジュエリーメーカーでも屈指の規模だ。この苦しい時にまったく我々はツイている。さっそくだが、お父上に連絡してもらえるかな。息子さんについて、大切なお話があると」
言葉の意味を理解し、ゾッとした。
こいつら、僕をネタに父さんをゆする気だ。
底山部長の言う“苦しい時”とはつまり、倒産は社長たちの使い込みが原因という噂は事実で、父さんに資金の援助をさせるという事だ。
ダメだ。このままでは父さんやじいちゃん、田辺部長にも迷惑がかかってしまう。
「僕はこの2週間ちゃんと働いていたつもりですが、何か、その、問題がありましたか?」
悪あがきではあるが、名前を故意に偽ったという言質を取らせずに、なんとか解決策の糸口を探る為、会話を繋ぎ時間を稼ぐ。
「問題があるのかとは厚かましい」
「身分を詐称する事で金品を騙し取った場合、詐欺罪になるんだぞ」
唾を飛ばして宗藤が人差し指を突き付けると、部屋に落ち着いた声が響いた。
「いいえ、詐欺罪には当たりません」
振り返り、あまりに意外な人物の登場に思わず声が裏返る。
「――瀧本さん!?」
なんで瀧本さんがここに?
「誰だお前は」
苦虫を噛み潰し飲み下したような表情で、社長が唸った。
「私は瀧本といいます。浩之様にお仕えする秘書のようなものと考えてください」
「はっ!バイトの分際で秘書とは、ずいぶんといいご身分だな」
瀧本さんに続いて田辺部長、西保木課長が部屋に入ってくるのにも気づかず、宗藤が続ける。
「だが契約書に偽名で署名したら有印私文書偽造に――」
「それはこれの事ですか?」
田辺部長の手元に広げられた契約書に署名されているのは“西原 浩之”、のみ。
「彼はちゃんと自分の名前を偽らずに書いていますよ。ただ残念ながら、うちの雇用契約書にはふりがなをふる様にはなっていない。何しろ短期のアルバイトなんて初めてだったので、即席で簡易的に作成したもので。ああ、もちろん会長にはこれでいいと承認を得てますが」
「じゃ、じゃあ履歴書はどうなんだ」
探して来い!恫喝された底山部長が慌てて事務所に探しに走り、少しして戻ってくると手にした書類を恐る恐る社長に渡す。
手にしているそれは、僕の履歴書だろう。
確かにあそこには“にしはら”と書いてある。決定打だ。もう言い逃れはできない。
勝ち誇る3人を覚悟したが、ギリギリと歯ぎしりの音がするだけだ。
社長の目線が何度も書面を撫でてから、じろりと睨みつけ、「これはお前の仕業か?」と僕の鼻先に突きつける。
「あ……え?」
そのふりがなの欄はインクをこすったように汚れていて“にしはら”と書いてあるのか “さいはら”と書いてあるのかは判別できなかった。
でも確かにあの時、ここでにしはらと清書したのに――…。
その時、田辺部長が万年筆を見せてくれた姿が思い浮かんだ。面接の後、田辺部長が万年筆で筆跡をなぞり、インクの乾かないうちにわざとこすっておいたのだ。このような事態に陥った時の為に。なんという――深慮遠謀。
番匠社長ががっくりと肩を落とし、宗藤・底山両部長が青ざめる。
「だから言ったじゃないか。上手くいくわけがないと。何が“私に任せろ”だ」
「私が提案した時は乗り気だったではないですか」
「そんな事より、どうするんだ、負債は。もう当てはないぞ」
「大体、社長が会社の金をギャンブルなどに注ぎ込むから」
「お前らだって喜んでついてきていたじゃないか」
「人の事を言えるか。お前が開発参考用として買った何百万円分ものジュエリーを勝手に持ち出して、ホステスに貢いでいた事は知っているんだぞ」
「あなたこそ、甲府に出張するたびに豪遊した金を経費として請求していたくせに」
醜い責任の擦り付け合いを始める3人の論点はどんどんズレていく。
語るに落ちる不正の数々に、怒りを通り越して呆れ果てた空気が流れた。
とりあえず偽名騒ぎは収まったようなので、さっきからずっと気になっていた事を口にしてみる。
「ところで瀧本さんは、どうしてここに?しかも田辺部長たちと一緒に」
「実は、私は別件でこちらにお邪魔していたのです」
「父さんの用事で?」
「いいえ、浩樹様の使いで参りました」
「じいちゃんの?」
それはこのところ何か忙しそうだった事と関係あるのだろうか?
だがそれをこの場で追及する事はタイミング的にはばかられる。
窓から見える空には急激に夕闇に染まり始めていた。
――とんだ最終日になってしまった。
複雑すぎる感慨を噛み締める。
役に立つどころか余計な波風を立てた上に、結局何もできなかった。
本当に?本当に僕には何もできないのか?
このまま匠美鎖が倒産するのを傍観するしかないのか?
突然脳裏にこの2週間の出来事がフラッシュバックする。
働く事の大変さ。現場の現実。降って湧いた倒産騒ぎ。番匠会長の妙な視線。父さんに持ち株を売却するよう言われた事。安奈がしていた株の話。国立さんが話していたM&Aの事。そして、この状況。
バラバラなはずの出来事が、突然1本に繋がった。
―――あるじゃないか。僕にできる唯一の事が。
「確認させてください。負債額はどのくらいなんですか?」
「どうしてお前なんかに……」
「いいから教えてください。負債額を」
気圧されるように番匠が答える。
「い、1億だ」
「1億……。瀧本さん、この会社を買い取るとしたら幾らぐらい必要ですか?」
何故か瀧本さんはにこやかに、そして不思議な答え方をする。
「“売却希望額”で、1000万円です」
「僕のSAIHARAの株を売却した額面は?」
「3000万ちょっとというところでしょうか」
―――足りない。
会社を買い取る事はできても、負債を帳消しにできなければ経営はすぐに立ち行かなくなってしまう。
「瀧本さん。何か僕に、あと8000万を用立てる方法はありませんか?」
「この会社を買収し、負債の肩代わりをするおつもりですか?」
瀧本さんが向き直る。
「浩之様。本当に、その覚悟がおありですか?」
この場の雰囲気に流されてとか、そういうんじゃない。
まっすぐに瀧本さんの視線を受け止める。
「僕はこの会社を倒産させたくない。ここで働くみんなに路頭に迷うような思いをしてほしくない。安心して働く事ができる場と環境を守りたいです」
この2週間――たった2週間ではあるけれど、それは心からの思い。
ここで働くひとりひとりすべての人に生活があり、事情があり、家族がある。
それを守るのは経営者の義務だ。
瀧本さんは頷くと、1枚の書面を取り出した。
「これは、浩樹様からの譲渡証明書です。もし浩之様が自分から匠美鎖を再建する事を望まれた時には、浩樹様がSAIHARAの株をすべて売却して用意した金額を”条件付きで”浩之様に譲る、とお預かりして参りました」
「じいちゃんが……」
「浩之様の分に加えれば、匠美鎖を買い取り、負債の返済に充てるのに充分可能な額面です。そして、その準備は整っています」
「え?それってどういう……」
田辺部長が口を出した。
「不正の事実に気付いた我々は、半年ほど前から番匠会長を説得していたのだよ。ただ、この会社を買い取る相手は君のお祖父さん、西原 浩樹氏の予定だったんだがね」
だからさっき瀧本さんは“売却希望額”なんて変な言い方をしたのか。
「浩樹様はこの件も含めて、浩之様に経験を積ませ、そして心構えを測るいい機会だとお考えになったようです」
「番匠会長が出した条件は2つ。1つは、“従業員全員、誰一人辞めさせる事なくそのまま働けるようにする事”。そしてもう1つは――“全ての業務を、3月1日付けで移行する事”」
3月1日……僕が面接を受けたのも契約したのも3月に入ってからだった。
つまり、僕がここに来た時、すでにこの匠美鎖のオーナーは僕だったという事になる。
それに、やっぱりあのじいさん、僕の事を知っていたんだ。
「あのクソじじい」
番匠が呻くように罵った。
「おかしいと思ったんだ。会長を引退するにあたって諸々の整理するから、俺の株を一旦譲渡しろなんて。俺に口出しさせない為に取り上げたんだな。
大体、何が”偽っていない”だ。ならなんで自分から言わなかったんだ。にしはらではなくさいはらだと。自分でもそう名乗っていたじゃないか」
八つ当たり気味に、終わったと思った話題をまた蒸し返してくる。
「それは私の責任かもしれませんね。全体朝礼で彼を紹介する時に、私が“間違えて”、にしはらと紹介してしまいましたから。間違いを指摘して私に恥をかかすまいと、その後も自分はにしはらだと名乗ってくれていたんでしょう。どちらにしても瑣末な事ですよ。すでに今月の初めから彼はこの会社のオーナーだ。たとえそれが故意であったとしても、会社には何ら損害は与えない。せいぜい小児病のように一部の人間が騒ぎ立てるくらいでしょうね」
西保木課長が眼鏡を直すと、田辺部長が咳払いをする。
「ちなみに履歴書を汚してしまったのは私です。“たまたま”彼から預かった日に万年筆の手入れをしていたら、インクを飛ばしてしまったのですよ。慌てて拭おうとして逆に汚してしまいましてね。一応芳村君には声はかけておいたのですが、“アルバイトとして”はたった2週間の事だし、わざわざ書き直させる必要もないだろうと判断したのですよ」
「俺はそんな報告受けてないぞ!」
「“前社長”はあまり従業員にご興味をお持ちではないようでしたので」
「な………」
怒りのあまり言葉が出てこず、口をパクパクしている。
瀧本さんが悪戯っぽい笑みを浮かべて確認する。
「オーナー、何かおっしゃりたい事はございますか?」
深呼吸。
この2週間で何が大切か学び、考え、感じてきた事。全てを総括してベストだと判断できるのは―――。
顔を上げ、きっぱりと言い渡す。
「匠美鎖のオーナーとして、社長職に田辺 雄基さんを任命します」
後始末、というか引き継ぎ業務で、3月に入ってから番匠が処理した書類関係を決算し直さなければならない。これから田辺部長、いや田辺新社長は忙殺される事だろう。僕もしばらくは学校の帰りに寄って仕事をしないといけなさそうだ。経営に直接タッチしないオーナーとはいえ、覚えて理解しなければならない事はたくさんある。
何より、僕が関わっていきたいんだ。経営にも現場にも。
社長室に呼ばれたのが、確か16時過ぎだった。それからざっと2時間以上経っている。外はとっくに日が落ち暗くなっていた。
着替えに戻ったロッカーにも各フロアにも人はまばらで、ほとんどの人が帰ってしまったようだった。最終日だったから、この2週間でお世話になった人たちに挨拶のひとつもしたかったのだが。
少し淋しい気持ちで従業員用の扉を開けると―――
「あ~~~!やっと来た!!」
思いがけない光景に遭遇した。
国立さんを筆頭に玖珂さん、梅崎さん、まさかの比企さん、他にも各部署でお世話になった数人が入口近くに集まっていたのだ。
「ど、どうしたんですか?」
びっくりして訊ねると、梅崎さんがいつも通りのテンションで答える。
「君が今日で最後だから、お疲れ様会をやってあげようと思って待ってたんじゃないかぁ。ちゃんと美味しいスペイン料理のお店、予約してあるんだよ~」
「え………」
言葉の意味を理解して胸に温かいものが流れ込み、この2時間張りつめていた気持ちが緩む。
「一体、何話してたの?長々と偉い人たちと」
国立さんが覗き込んだ。
「大した事じゃ、ありませんよ。この2週間はどうだったとか、また休みの時は働きにこないかとか、そんな話です」
何もかも、きっといい方向に向かう、そう信じて。
「さ、早く行きましょう!腹、激ヘリなんですよ。僕、パエリアが食べたいです!」
ラプソディ イン ゴールド! 春休みのゴールドスミス 真竹 揺音 @MatakeYusane
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