第16話 11日目

「本日はありがとうございました」

「いえ、こちらこそ貴重なお時間を割いていただきまして、ありがとうございました」

一通りの挨拶が済み、来客を見送る為にエレベーターを待つ間、微妙な沈黙が降りる。

番匠社長と底山部長に貼り付けたような笑顔を向けられ、なんとなく気まずい来客がふと通りかかった従業員に目を留めた。

「おや?」

「どうかされましたか?」

「あ、いえ。今、知り合いの息子さんを見かけて。あれは―――」




――これ、何の匂いだ?

5階の営業で荷物を開ける手伝いをし、廊下に出た瞬間、微かに匂うガスのような刺激臭に、首をかしげる。


「どしたの、西原くん」

「なんか……ガス?臭くないですか?」

よほど変な顔をしていたのか、3階まで降りてきた階段のところで廊下に出てきた国立さんに訊かれ、曖昧に答える。

「そう?……ホントだ」

クンクンと鼻を鳴らし、国立さんが真顔に変わった。

「どっかでガスが漏れてるのかも」

少し慌てて、2階へ急ぐ。

「3階はいいんですか?」

「ガスが漏れるなら、たぶん1階か2階だから」


2階作業場に飛び込むと、ハンドメイド課で1番偉い人を捕まえる。

「織部課長!廊下でガスの匂いがします!どこかで漏れていませんか?」

「うーん。ここでは特に感じないなあ。でも一応、声をかけておこうか」

「じゃあ私は1階に聞いてみます。あ、西原くんは仕事に戻って」

国立さんはくるりと背を向けると、織部課長が声を上げる。

「みんな、ガスが漏れていないか、自分の周りのガスを確認してくれるかな」

“ガスの匂いなんてする?”“いや全然”と顔を見合わせながらも、皆一斉に手元のバーナーや足元の確認を始めた。


ハンドメイド課で多く行われる“ロウ付け”に必要なバーナーは、彫金用の各作業机に1つずつ取り付けられている。ざっと見渡すだけで、15台弱はあるだろうか。

バーナーのガスの調節ネジが緩んでいないか、バーナーに繋がるゴムホースの根元や途中のどこかが切れていないか、張り巡らされたガス管や元栓などを各自チェックする。


「こっちは大丈夫です」「問題ありません」

あちこちで異常のない事が確認され、ガスの匂いの原因はこのフロアではないと結論づけられる。

“全然匂いもしないのに、なんでそんな話になったの?”“ほら、さっき国立さんが来て、なんか言ってたじゃない”“あー、あの迷惑美人?”

そんなヒソヒソ話が聞こえ、反論しようとした矢先、国立さんが戻ってきた。階段を駆け上がってでもきたのか、顔が紅潮している。


「1階はガスが漏れているところはありませんでした!でも、廊下の匂いがさっきよりも強くなってて……」

眉をひそめ、織部課長が速足で廊下に出る。

「ガス……いや、ガソリンの匂い……?」

織部課長の判断は早かった。


「みんな、とりあえず火の元を確認して、窓を開けたら急いで外に出て!奥谷くん、俺は上に注進してくるから、このフロアの人、全員外に避難させて!国立くん、君は3階に行って――」


突然、部屋中にガソリンの匂いが充満する。窓を開けた男性社員が、サッシに手をかけたまま、大声で騒いだ。

「うわ、外だ!外がガソリンくせえ!」

「窓を閉めて!早く!」

匂いの原因は社内ではなく外だと分かり、ホッとしていいのか不安に思えばいいのか迷う。


東京湾に面した匠美鎖は、屋上からなら海面を見えるほどの近さだ。東京湾には京浜工業地帯や京葉工業地域があるから、どこかの工場などで深刻な事故が起きた可能性だってある。


課長が携帯でなにかを検索し始め、少しして「あー、これだな」と呟いた。

「『東京湾でタンカー原油流出事故』。ほら、流出状況の航空写真が、もうアップされてる」


そういえば5階にいる間、何度も上空をヘリコプターが飛ぶ音がしていた。気にも留めていなかったが、すぐそばでそんな深刻な事故が起きていたとは。たまたま風向きで風下になり、廊下の通気口から匂いが入ってきたのだろう。この時期は、昼はともかく午前中はまだ窓を開けるような気候ではない為、作業場にいる人間は気付かなかったのだ。


ひとまず会社が爆発するような事態ではないと分かり、ホッとした空気になる中、意地の悪い囁き声が耳に入る。

“また、余計な事を言い出す人がいるから”“ほんと、迷惑だよね”“ちゃんと確認してから言ってほしいよね”


「はいはい、大事にならなくてよかった!皆さん、仕事に戻ってくださーい」

パンパンと手を叩きながら、課長が促す。

本当なら次の部署である鋳造にすぐに向かわなければいけないけれど、その前にどうしても、国立さんに一言謝りたかった。3階に戻る為に作業場を出ようとしていた国立さんを廊下で捕まえる。


「国立さん、すみませんでした。僕が余計な事に気付いて、国立さんに話したりしたから……」

「いいよ。教えたでしょ?“最悪を想定しろ”って。もし、思いもよらない所からガスが漏れていて気付くのが遅れたら、会社が爆発炎上するような大惨事になる可能性だってあるんだよ?うちにはガスだけじゃなく、酸素も溶剤も硫酸もあるんだから。“余計な事”とか、言いたい奴には言わせておけばいいの!」

やっぱり国立さんの耳にも入っていたんだ。


「人の命にかかわる“気付き”なんだから!逆にすぐに相談してくれてよかったよ。西原くんの立場だと、なかなか言いづらいと思うから。気付いているのに“大丈夫だろう”なんて考えて事故が起きたら、それこそ後悔するでしょ?それに、嫌われるのには慣れてるからね。だから――」

一瞬、国立さんは続く言葉を躊躇する。


「――だから、私が何か言われているのを聞いても、庇うような事、言っちゃダメだよ?」

「それって、どういう――」

「ほらほら、戻った戻った!」

追い払う仕草で笑うと、国立さんは階段を上がっていった。




3階まで上がり、作業場への扉に手をかけようとして国立は僅かにためらった。

「しっかりしなさい!人に偉そうな事を言っておいて、なんなの、このざまは」

呟くと、両手で頬を叩き、気合いを入れてから勢いよく扉を開けた。




報告を受け、株式会社SAIHARA社長・西原 浩人氏は眉を上げた。

しばらく考えに耽っていたが、やがて深く深く溜め息を吐くと、

「やれやれまったく、親父ときたらやってくれるよ」

ひとりごちて、苦く笑う。

「瀧本、この数字は確かか?」

「はい。かなり正確な数字と言えます」

「そうか。それなら大至急、手配してほしい事がある」




明日でおしまいか……。ようやく慣れてきたのに惜しいなあ。

駅へと向かう帰り道、いろいろな作業も“働く”という事も、慣れてきたと思ったところで終わってしまうなぁなんて考えながら歩いていると、黒い国産車がそばの路肩に滑り込んできた。見覚えのある車――父さんの車だ。

後部座席のガラスが下りると、思った通り父さんのしかつめらしい顔が覗いた。

「乗りなさい」

一応さりげなく周りを見回し、匠美鎖の人が近くにいないか確認してから車に乗り込む。といってもほとんどの人の顔を知らないのだから、あまり意味はないかもしれないけど。


「あ、瀧本さん。お久しぶりです」

運転席の顔見知りに挨拶し、シートに落ち着く。

それにしても、なんだろう一体?


偶然通りかかったと思うほど楽天的ではない。父さんは僕のバイト先が匠美鎖だという事は知らないはずだ。もし僕を待っていたのだとしたら、じいちゃんが話したか、父さんが調べたかだ。でもじいちゃんが話したとは考えにくい。根拠はないけれど。


それにしてもこの空気――これは間違っても冗談を口にできる雰囲気ではない。それでも後ろめたさを隠し、努めて明るい声を出す。

「どうしたの?こんな所で会うなんて偶然だね」

「ああ。いや……」

歯切れが悪い。父さん自身もどこから切り出すべきか迷っている、そんな感じだ。

そして重い息を吐いた後の言葉は、あまりに意外なものだった。


「お前の持ち株全てを売却しなさい」




“――お前が偽名で他社に入社した事は知っている。それがどういう事か分かっているか?”

“――もしバレて、事実がこの業界中に広まったりしたら、SAIHARAの信頼に傷がつくんだぞ”

“――軽率な行動の責任は取ってもらう”


ふとんの上に仰向けに体を投げ出し、父さんの言葉を反芻する。


“売却しなさい”という命令形ではあったが、実際は勝手にじいちゃんと父さんが手配したもので、僕自身が希望したわけではないし、手元にあるのでもなければ実物を見たこともない。ただ“僕名義の株があってSAIHARAの大株主の一員である”という話を聞いた事があるという程度の認識だ。

だから実際の手続きは父さんたちがやるわけで、その話を僕にしてしまっている手前、確認したという事実をつくっただけの事だ。



宝飾業界は扱われる商品の性質上、深刻な額の盗難や詐欺などのトラブルが起こりやすい。それを回避する為に、各社さまざまな予防策・対応策を講じて信頼を保てるよう苦心する。

信頼によって支えられている宝飾業界で生き残るには、誠実な仕事をするしかない。相手が誰であっても公平である事、不正に対して毅然とした態度を取る事は、誠実であり続け、信頼を得る為に必要不可欠。

そしてそうしなければ、対内的にも全従業員に対して示しがつかない。



株自体は別に惜しいわけじゃない。具体的にどのくらい持っていたのかさえ知らないのだから。だがSAIHARAの僕名義の株をすべて売却し、西原の大株主の座から下りる事は、跡継ぎには認めないという意味だ。

小さい頃から今までずっと、SAIHARAを継ぐという事を意識してきたのに、いきなり取り上げられるこの感覚は、悔しいというよりただただショックで、父さんにそこまでの決断を下させてしまった自分の迂闊さが恨めしかった。


ただひとつ引っかかるのは、じいちゃんがそんな危険な事を僕にやらせたという事だ。

言い出したのは田辺部長だけど、偽名の件はその日のうちにじいちゃんに話していた。そして問題ないと言われたのだ。

大丈夫だろうと高をくくっていたのだろうか?あのじいちゃんが?

なんとなく、らしくない。


言い訳するのは簡単だ。言い出したのは田辺部長で、じいちゃんも大丈夫だと請け合ったと言えばいい。それは嘘ではない。

だがそれに承諾し、実際に動いたのは僕自身だ。言い訳も人のせいにするのも“違う”と分かっていた。

だからあの場で僕に言えたのはひとつ。

「分かった」

落ち着いた声が出せたのは僕にしては上出来だった。たとえそれが、つまらない意地だとしても。



寝転んだ枕元で携帯が鳴る。

瀧本さんからだ。珍しい。

「……はい。もしもし?」


瀧本さんは子供の頃から知っている、従兄のような存在だった。

元々瀧本さんの父親がじいちゃんの秘書をしていて、内輪でバーベキューなどをする時は瀧本父に連れられて来ていた瀧本さんに、よく遊んでもらっていた。

今は父さんの秘書をしていて、父親を超える有能な秘書になるのが目標なのだそうだ。大学を卒業し念願叶って秘書になった時には、まだ子供の僕にまできちんと挨拶に来てくれたけど、僕自身は“浩之くん”だった呼び名が“浩之様”になった事に、なにか言い表せない寂しさを感じたものだ。


「浩之様、少しお時間よろしいですか?」

「はい」

「今日の浩人様のお話ですが――」

ぐるぐる考えていた今なぐさめられたら、思ってもいない事まで口走ってしまいそうになる、そう思って慌てて瀧本さんの言葉を遮った。

「あ、もしかして心配してくれました?本当に大丈夫ですから。父さんの言う通り、責任はとらないと。別に僕は株とかそんな惜しいと思ってるわけじゃないし、それが跡取りとして認めないという意味であったとしても、それは仕方がないっていうか………」


次の言葉が出てこない。

口に出して改めて気付かされる。仕方がないという一言で片付けられるほど、僕は潔くも諦めが良くもなかった。黙りこんでしまった僕に、瀧本さんは咳払いをする。

「………僭越ながら、浩之様。浩人様のおっしゃった本当の意味を、お分かりになっていらっしゃらないようですね」

「それってどういう……」

「私の口からこれ以上申し上げる事はできませんが、進言させていただけるのでしたら一つよろしいですか?」

布団に起き上がり、正座する。今は何を言われてもヘコむと思っていたが、瀧本さんの誠実な口調から、聞かせてほしいと真剣に思った。


「お願いします」

「浩人様を信じてみてもよろしいのではないでしょうか?」

「え……」

信じる?

「浩人様はとても思慮深い方です。目先の利益に囚われず常に先を見越し、時には非情とも思える決断を下さなければならない事もありますが、決して冷酷な方ではありません。ましてや一人息子である浩之様をただ一度思慮の足りない事をしたくらいでお見捨てになるはずがないと、きっと何か思惑があるのだと、そう信じてみてもいいのではないでしょうか――」

「瀧本さん……」

「――それが希望的観測だとしても」

おっと?

「ええっと、瀧本さん……いや、なんでもないです」


期待させておいて落とすようなアドバイスに一瞬がっかりし、それが早計だと気付く。瀧本さんは“これ以上は言えない”と言った。つまり父さんの真意を知っているのだ。その瀧本さんが“信じてみろ”と言うなら素直に信じてみてもいいのかもしれない。それが希望的観測でも。

「そうします。わざわざ電話をくださって、ありがとうございます」

「いいえ、大してお役に立てずに申し訳ありません。それから――」

「はい?」

「――明日は最終日ですね。“頑張って”ください」


当たり前の応援の言葉が妙に含みを持って聞こえたのが気になるが、素直に受け取る事にした。今考えても仕方がない。

明日でラスト。目一杯、今の身分での状況を、作業を楽しもう。

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