第6話 初日・午後

「ポアロっぽいですよね、平城係長」

周りにいた数人から「あ~」と、“やっぱりみんな最初はそう思うよね”という溜め息が漏れる。

「――プレスはどうだった?」

同じテーブルにいたフレンドリーというかチャライ感じの内勤らしい男の人に聞かれて最初に出てきた言葉だった。


ようやくの昼休憩だ。

手が潰れる事を覚悟した午前中を思い起こし、ゾッとする。


“そういう事故を防ぐ為に、安全装置も付いている。こことここにあるのが赤外線感知器で、手が通ったりして遮断されると自動でプレスが上がるんだ”

事故にならなかったとはいえ、平城係長が少し苦い顔で言った。

初めての現場の慣れない作業と緊張で、体力的にも精神的にも消耗している事を実感する。


「それもデビッド・スーシェ版だよね~」

お、その名前がさらりと出てくるなんて。好奇心で振り返る。

「あ、お疲れさまです。国立さん」

「疲れた顔してんのはどっちだ。そんなにこき使われたん?」

「いえ、そういうワケでは……」


ちなみに食堂は、調理場があるような社食ではなく、長テーブルがたくさん並ぶ間にテレビが数台置かれただけの広い部屋だ。

昼食は、仕出し屋が毎日配達してくれる日替わり弁当を頼むか、コンビニで買ってくるなど自分で用意するか、または外に食べに行くしかない。

今日は神品係長に日替わり弁当を頼んでもらったけど、明日からは忘れずに自分で頼まないと。


……それにしても、疲れた。正味たった2時間しか働いていないというのに。

午後が思いやられる。

疲れのせいか、そもそもの味付けなのか、まったく味のしない卵焼きを、もそもそと飲み込む。

「午後もプレス?」

いつの間にか向かいの席に陣取った国立さんが、焼き鮭をつつきながら聞く。

「今日は1日プレスの予定です」

「ヒッキーにはもうイビられた?」

あの人、そういうキャラなのか!?

それにしても梅崎さんも呼んでいたけど、比企さんの愛称にヒッキーって。あんな感じの人なのに、可愛すぎないか?

「えっと、教育的指導を受けました」

「あいつSだよねー。まあ気にすんなって。ほらこれあげるから」

ポケットから取り出したのは、いくつかのアメ。

「ありがとうございます」

「夕方になるとお腹へって、頭回んなくなるからね。必需品だよ」

大阪のおばちゃんみたいに手に押しつけてくる。

こうして応援してくれる人だっているし、何よりこれは自分の為だ。失敗だって貴重な経験。経験する事自体が目的なのだから。

それでも絶対に守らないといけないルールがある。


田辺部長に迷惑をかけない事。


怪我をしないよう注意するのはそれに含まれる。

何かあれば当然父さんにバレる事になるだろうし、お膳立てをしたじいちゃんにも合わせる顔がない。


絶対。絶対に怪我はしない。

当り前だが、わざわざそれを自覚した事はなかった。普通ではない今の立場だからこそ、常に意識し注意しなくてはいけない。

こういうの、何て言うんだっけ?危機管理?

あっという間に弁当をやっつけ、マジックで大きく名前を書いてあるプリンのフタに手をかけている国立さんに聞いてみる。

「怪我とか事故とか起きないように気をつけるのって、危機管理で合ってますか?」

「休憩中に難しいコト考えてるねえ…あむ……合ってると思うけど、危険予知ともいうかもね……あむ」

プリンを頬張りながら聞いた事のない言葉を放り出す。

前向きに考えを転換したせいか、国立さんの食いっぷりにつられたのか、止まりがちだった箸を持つ手が、急に忙しなく動き出す。

僕の弁当と、国立さんのプリンが同時に食べ終えた。

「昔、“KY”って空気読めないなんて略語が流行ったけど、私がKYって聞くと、実は“危険予知”って思うんだよね」

「それも略語ですか?」

「そ。まんま、危険(K)予知(Y)。例えば、動線――通路とか人が通ったり動いたりする部分にゴミ箱とか工具箱が置かれてたとするでしょ?それを見て、“誰かがつまずいたら怪我をするな”“ひっくり返したらゴミが床に散らばって汚れるな、片付ける時間が無駄になるな”っていう予測をして回避するように働きかける事だよ」

「勉強になります」

「じゃあ今の場合、君ならどう対処する?」

「ええっと……邪魔にならない場所に移動させます」

「そういう事。簡単でしょ?大切なのは目先の作業にだけ没頭せずに、周りをよく見て予測を立てる事だよ。いろんな意味で、目が良くないとダメだよね」

「視力は結構いい方です」

「うん、分かってないね?まあそのうちいつかきっとたぶん理解できる日が来るから、忘れないどいてよ。じゃ、午後も頑張って」

「?…はい」

ゴミを小さくまとめると、国立さんが席を立つ。


窓に目を転じると、外には同じくらいの建物と青い空が見えた。

食堂内は朝礼の時と同じように、スーツ、制服、つなぎ姿がだいたい同じ制服同士でかたまって食事をしたり談笑したりしている。

営業の人は外で昼食を取る人が多いのか数が少なく、圧倒的にアトリエの人がほとんどのテーブルを占めている。意外と女性が多くて、やはりというか女性が固まるテーブルは賑やかな感じだ。なんとなくチラチラと見られているような気がするのは……気のせいかな。若造が珍しいのかも。高校生のバイトなんて採った事ないって誰か言ってたし。

食堂の一部はガラスで仕切られていて、その向こう側は喫煙室だった。最近は会社でも分煙が義務付けられていて、後からつくられたそうだ。

まあ、未成年の僕には喫煙室に入る機会はないだろうけど、ここから見ても中はもくもくと煙って息苦しそうだ。つまみ出される以前に、入る気になれない。


国立さんと話したおかげで周りを見回す余裕が出てきていた。

――あ、比企さん、プリン食べてる。意外と甘いもん好きなのかな。

梅崎さんは雑誌を眺めながらコンビニのパスタだ。

さっき話しかけてきた見るからにチャラそうな男の人が、テーブルを立ってから何人もの女性従業員に声をかけているのは、まさかナンパしているわけじゃないよな?


偉い人たちはあんまり見当たらない。外食組みたいだ。

下々の者と一緒に飯が食えるかという傲慢な態度の表れか、はたまた自分たちがそばにいるとくつろげないだろうという配慮か。

もしかしたら部下と一緒に食事を取るのは、上司にとっても落ち着かないものなのかもしれない。


学校の昼食は人に迷惑かけない程度ならどこで食べてもいいけど、僕自身はほとんど自分の席で済ませてしまうから、こういう雰囲気で食事を取るのは初めてだ。

SAIHARAの工場を見学した時は、父さんたちと会議室で食べたし。

新鮮さを感じる以上に疲労を感じてしまっていたのが残念。もっといろいろな人と話したりしたいと思っていたのに。


予鈴が鳴り、立ち上がる。

さあ、後半戦だ。気を引き締めていこう。失敗を恐れずいろいろ吸収しよう。



「きたきた、社長回診」

梅崎さんが囁いた。

気合いを入れ直して始まったはずの午後だが、2時を指す頃には食後に襲う眠気と闘っていた。

「なんですか?それ」

部長回診なら聞いた事があるけど。

毎日午後2時半になると、2人のお供を連れた番匠社長が全ての部署を1階から徘徊、いや、見て回るそうだ。

全体朝礼ぶりの2度目の対面だが、なんていうかあまり好きになれない感じだ。

にこやかにはしているが酷薄そうな目は笑っていない。40代後半だと思うが、肉の厚い体格はしまりがなく、なんとなくただれた印象を受ける。

それでも雇い主だ。敬意は払わないと。

その場にいたすべての従業員が声を合わせた。

「お疲れ様です!」

「はい、お疲れさま」

どうですか?社長が平城係長に声をかける。

当たり障りないやり取りをすると、あれ?………僕らには目もくれずに行ってしまった。


あれは……どうなんだろう?

どう見ても“下っぱの従業員には興味ない”という態度だ。

たった数時間の経験だが、単純な加工であっても数をこなすというのは大変な仕事だ。誰のどんな作業も大切で欠かせないのに、いかにも会社を動かしているのは役職に付いている人間だけで、下の人間は雇ってやっているみたいな考えが透けて見えるのは、明らかにモチベーションを下げる。現に今、僕は下がった。


父が工場を見回る時は、声はかけないにしても全ての従業員と目を合わせていた。

たくさんいる従業員全ての名前と顔を覚えてはいないかもしれない。でも番匠社長のようにあからさまに見下した態度を取ったりはしなかった。感覚として、それが当たり前だと思っていた。


「もうちょい丁寧に扱ってね。傷入っちゃうよ」

「………すみません」

無意識にイライラが手元に表れてしまっていたらしい。

――ああなっちゃいけない。

ぴったりな単語を思い出した。

“反面教師”

考え方を変えればいいんだ。つまり、従業員の立場から経営者としてそれはダメだと感じた事を自分がやらないようにすればいい。


ふと気付いて、思わず笑ってしまう。

今まで、SAIHARAを継ぐ事を漠然と意識してはいても、それは“近い将来(いつか)”で、どこか現実的ではなかった。それがこうして現場に放り出されてみると、こんなに自然に考える方向が“経営者として”だった事が、自分でもおかしかったのだ。



1階を見終え、2階への階段を上りかけた番匠が、立ち止まってお供の者に話しかけた。

「さっきプレスにいたのは、今日入った田辺君の親戚の子だっけ?」

いかにも腰巾着といった風情の、猿顔の男が答える。

「はい。履歴書をご覧になりますか?用意させますが」

「いや、必要ない。どうせ2週間しかいないんだろう?」




……よ……ようやく………………………終わった……………………………………

「あ!お疲れ~!」

タイムカードを押して、着替えに3階へ向かう階段で、クタクタの僕の肩を力強く叩いたのは、梅崎さんだった。

満面の笑みで明るくねぎらう。

「大変だったね~。午後まるまる打刻なんて!」


そう、僕の午後の仕事は、刻印を打つ事だった。

その数、700枚。ただひたすら打刻機にプレートをセットし、レバーを下ろして一枚一枚に刻印を打つのだ。打刻機は机に乗る程度のコンパクトな機器だが、やっぱり気の遠くなるほどアナクロな単純作業だった。

まず刻印を入れるプレートが、薄くて小さい。小さすぎて最初は1枚1枚を指でつまむ事すら一苦労だった。

それに学校でだってこんなに長く椅子に拘束された事はない。何度立ち上がりたい衝動に駆られたことか。


プレートというのはネックレスやブレスレットを首や手首に着ける時に、引き輪やフックを引っかける受け金具の事だ。引き輪側をオス側と表わすのに対して、メス側と呼んだりもする。

いろいろな形のものがあるが、基本的には板材をその形にプレス機で型抜きして作られている。

普通、プレートには必ずそれが何で出来ているかを示す“金性”――K18やPt850など――の刻印が入るが、金性や品位の間違いを防ぐ為、形に抜かれると同時に刻印も打たれるような治具が使われる。

今日僕が、金性の入ったプレートの裏にひとつひとつ手で入れたのは、“ブランド刻”と呼ばれる納品先の指定のブランドロゴマークの刻印だ。


作業の前に、刻印の位置を決める調整を見せてもらったが、こんな小さな1枚のプレートにそんなに微妙に調整するのかと思うほど、律儀で几帳面なものだ。

今まで刻印の位置なんて気にした事なんてなかったし、もっと言えば刻印なんて入っていればいいものなんだと思っていた。


曲がらず真っ直ぐに中央に入っているか、浅すぎず深すぎず読み取りやすくて、この後に仕上げをして消えてしまわない深さで入っているか、裏に刻印のひずみが出ていないか、傷が入っていないか、裏に入っている刻印がつぶれていないか、などなど。

ジュエリーともなると刻印ひとつとっても、こんなにも神経を遣っているものなのだ。

――と、感心したのは最初だけで、その後は忍耐力を試されているかのような単純作業だった。まあ、おかげで小さいものをつまむ事には慣れたけど、器用なパートさんなら1時間で400枚、つまり5時間なら2000枚は打てると聞いて、ヘコんだ。僕なんて必死にやって700枚だったのに。



1日目を終え、平城係長に挨拶をしてからタイムカードを押しに5階へ向かう。隠しようもなくヘロヘロで吐きそうだった。プレスは1階だから、5階まで上がるのがめちゃくちゃキツイ。とはいえ押さずに帰るわけにもいかないから、着替えて帰る人とすれ違いながら、1歩1歩踏みしめるようにゆっくり上っていく。

18:21 

18時で終わりだが、片付けたり掃除をしたりでこんな時間になっていた。

なんとなくタイムカードを機械に差し込む手応えがうれしい。大袈裟だけど1日をやり遂げたって感じがする。とはいえそれだけでクタクタに疲れた体を癒すまではいかず、着替えに下りる階段の途中で、梅崎さんに会ったのだった。


ほい。

差し出された缶コーヒー。

「あ、ありがとうございます。えっと今、お金を……」

「いいって。奢ったるわ、お姉さんが」

こういうさり気ないねぎらいって、うれしいな。

3階の廊下の隅、休憩所とは名ばかりの自販機の前にいくつかの椅子が並んでいるだけの場所に座る。

「ヒッキーがキミを気に入らないのはぁ、たぶんキミがでかいからだね~」

梅崎さんがプルタブを開ける僕を眺めながら、耳を疑う事を言い放つ。

「は?」

「だから背が高いから。見下ろしたでしょ?それが気に入らないんだと思うな」

確かに比企さんの身長は僕の胸元くらいだった。

だけどそれが真実なら、大人気ないというか、なんというか。

「やっぱ男のプライドが許さないんじゃない?」

そう……か。

子どもの頃はそんなに周りと変わらなかった背丈は、中学に入るとどんどん伸びて今では大体180㎝くらいある。

確かに背が伸びると目立つのか、今までも何度か因縁らしきものをつけられた事はある。

でもまさか社会に出たいい大人が、そんな理由で気に入らないなんてあるんだろうか?

「う――ん。社会人って言ったって、中身はガキなまんまって人、結構多いよ?」

「そういうものですか。気を付けます」

具体的に何に気を付けたらいいのか見当も付かないが、とりあえずそう答えて、缶コーヒーを一気に空けた。

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