今日が終わりの誕生日

弓原もい

今日が終わりの誕生日



 たぶん貴方は覚えてないと思うけれど、私はしっかり覚えてる。だからね、柄にもなく緊張してるんだ。今日は約束の日。今日で私の片想いが終わる。



 ***



「ごめん、お待たせ!」


 いつもの居酒屋に駆け込むと、私を待っていたスーツ姿の水瀬が見ていたスマホから顔を上げた。


「おう、お疲れ」

「はー、まじで最悪だわ」


 私はカバンを荷物籠に投げるように入れてドカッとソファに腰を下ろす。


「定時に終わる予定の社内会議が一時間も長引きやがった。あ、生一つ! 長引く社内会議って結論も出ないし無意味だわ」

「あー、わかるわかる。非効率でただストレス溜まるだけだよな」

「最後にぐったり疲れちゃったわ」


 おしぼりで首や顔回りの汗を拭う。


「暑っつー!」

「走ってきたのかよ?」

「まぁね。あんまり待たせちゃ悪いと思って」

「別にいいのに。先に始めてたし」


 水瀬は持っていた箸でテーブルを指す。テーブルには、半分減ったビールと、おつまみがいくつか並んでいる。


「あ、どうも」


 早速運ばれてきた生ビールを手にして、水瀬とグラスを合わせる。


「はい、乾杯」

「お疲れー」


 ぐいっと一気に三分の一を飲み干した。


「はぁー! 美味い!」


 落ち着いた雰囲気のこの居酒屋は、社会人になってからの行きつけだ。初めて来た時は、ちょっとお高めの居酒屋にドキドキしながら入ったものだけど、今ではすっかり私達の定番の場所になっている。


 今日は木曜日。週の真ん中でノー残業デーの定番である水曜日でもない今日は、流石に店内は空いていた。私達も半個室みたいな席にいるけれど、隣には誰もいない。


「誕生日、おめでとう」

「あー! ありがと。水瀬に祝われなかったら、忘れるところだったわ」


 嘘だけどね。今日だけは忘れるものか。


「普通に平日だしさ、誕生日感ないよね」

「会社で祝われなかったの?」

「祝われるわけないじゃん! 誰も私の誕生日なんて知らないよ。それに、おじさん達に祝われたって何も嬉しくないしさ」

「それもそうか」


 水瀬は笑いながらビールを飲む。


「それにしても、30かー。もう若いとか言ってらんないね」

「だな」


 胸に溜まった重苦しさを吐き出すようにため息をつく。


「つい最近まで大学行ってた気がするのになー。あっという間だよね」

「俺達も気づけば友達歴12年だぜ?」

「げー! 数字にするとすごい長いね」


 12年、か。水瀬と私は同じサークルで出会った。月1ペースで体育館を借りてバドミントンをする、お遊びサークルだった。


「昔は誕生日と言ったらみんなで集まって飲んでたのに、とうとう残ったのはうちらだけになっちゃったね」

「25になったくらいから、だんだんと会わなくなってきたよな」

「大学にいる時はさ、一生友達だー! って本気で思ってたのにね」


「仕事始めて、結婚するやつも出てくると、そう上手くもいかないな」

「そうそう。みんな今は子供もいるでしょ? 飲みになんて誘えないよね。誘ったところでさ、独身のうちらとは話も合わないし」

「女は特にそうかもな」

「たまに会っても、向こうは子供の話とか旦那の話するでしょ? 私には無縁だからね、話合わせるにも限度があるっていうか」


「俺達の話となると、仕事の愚痴とかになるからな」

「そうそう! 取引先との話とか、できの悪い後輩の話とかさ」

「そういや、前言ってたお前のところのモンスター後輩、どうなった?」

「あ、聞く!? 聞いちゃう!? この前もさー」


 私達の話は止まらない。昔から気の合う友達だったけれど、社会人になってからは、会社の駅が近いこともあって、余計によく会うようになった。いつもお互いの仕事の愚痴を言い合ったり、仲のいい友達だ。


 そう、友達。明日からは私もそう思うようにする。できるかどうか、自信はないけれど。


 ビールも3杯目に到達した辺りで、ようやくお互いの近況報告が終わる。その後に続くのは、だいたい思い出話だ。


「今じゃ徹夜きっついけどさ、昔はよくオールしてたよね」

「無駄にな」

「そうそう、無駄に。帰ればいいのに、カラオケで喋ったりとかしてさ」

「からの、早朝のファミレスな」

「あったあった! 始発まで時間潰してね!」

「だいたい誰か寝始めるんだよな」

「酔ってたもんねー! 最近はあんなに無茶しなくなったな」

「もう30だからな」


 誕生日を思わせるその言葉にドキッとする。だけど、表情には出さない。


「嫌だねー。もう若いとか言ってらんないね」

「おじさん、とか言われんだろうな」

「いやー! せめてお姉さん、にしてほしい……」

「いつまでそう言われるかな」


 水瀬はカラカラと笑う。


「俺なんて妹にも子供ができたんだぜ」

「おじさんだー!」

「親にも心配されはじめてるしさ、結婚」


 結婚。その言葉にもドキッとする。水瀬の表情はいつもと変わらない。


「私も。親どころか、会社の人にも心配されるもん」

「こっちも余計なお世話、とか言ってらんない歳になってきたもんな」

「流石に30にもなると、結婚してなくても彼氏いる子が多いからね」


 平静を装っていつも通り。できてるよね?


「友達にも婚活パーティとか合コンとか誘われること増えてきたよ。だけどさ、なんか行く気しないんだよね」

「わかる」

「結婚するには手っ取り早いのはわかるんだけどさ、そこまでして結婚したいのかなって」

「世間の結婚感に流されてる気がするよな」

「結婚しなきゃ負け組、みたいなね」


 私が婚活をしないのはそれだけじゃない。こじらせてるから。本当は結婚に憧れがあることもわかってる。だけど、それを言ったら本当に負けな気がするんだ。


「結婚したいって思う?」

「んー、どうだろうね」


 否定はできない。水瀬には。


「水瀬は?」

「俺?」

「うん」

「俺はしたいけどね、結婚」


 ドキっとする。いつもよりも真面目な顔でそんなこと言わないでほしい。


「水瀬なんて大学の時モテてたのにさ、未だに結婚してないなんて不思議」

「それを言うなら深谷もだろ。常に彼氏絶えなかった」

「それは流石に言い過ぎだわ! いなかった時期もあったからね」


 あの時は若かった。欲しいものが手に入らない時、待つことができなかった。待っていたら、何か変わっていたのかな。


「それが今はお互いに相手なし。とうとう30まで」

「そーだね」


 水瀬は覚えているんだろうか。あの、約束。


 突然の沈黙。お互いよく喋るから沈黙になることなんてほとんどないのに。私が冷静じゃないから、かな。何か喋ってよ、バカ水瀬。


「そうそう、プレゼントあるんだわ」

「……は?」

「は? ってなんだよ。誕生日だろ」

「そうだけど……」


 水瀬が誕生日プレゼントくれたことなんて、今まで一度もなかった。必死に冷静の仮面を被る。


「何くれんの?」

「手、出して」

「はいっ!」


 私は気持ちを切り替えて普段通りに明るく両手を水瀬に差し出す。水瀬は何やらポケットを探ってから、私の左手を取って裏返す。手が触れた、ただそれだけで、30にもなるのに心臓が跳ねる。


「ちょっときついか……? 入ったか」

「……え?」


 左手の薬指にはめられた……指輪。水瀬から解放された左手を、私は自分の顔の前に持ってくる。


「な……に」


 指輪の真ん中にはキラキラと光る……ダイヤモンド?


「本物……?」

「うん」


 普段アクセサリーなんてつけないから指輪のことはよくわからないけど、このダイヤモンドはなかなかに大きい気がする。え、何で? なにこれ? 何で私の左手の薬指にこんな指輪がはまってるの?


「ぶはっ!」


 水瀬が吹き出す。


「お前のそんな顔、初めて見たわ」

「ど、どんな顔? って……」


 もう私は冷静の仮面を被れない。何だ、これ。


「ど、どういうこと?」

「プロポーズ、しようかと思って」


 水瀬の顔からは冗談なのかそうじゃないのか判別がつかない。普段は静かにしている私の心臓はこれでもか! というくらい活動している。


「もしかして、あの、約束?」


 勇気を出して聞いてみる。間違ってたら恥ずかしい。だけど、聞かずにいられなかった。


「そう」


 水瀬は目を細めて微笑んだ。その笑顔が妙に輝いて見えるのはダイヤモンド越しだから?


「ば、バカじゃないの。あんな約束……」


 5年前。酔っ払った私と水瀬はある約束をした。



 私の30歳の誕生日にお互い独身で彼氏彼女もいなかったら、結婚しよう──



 そして今日が私の30回目の誕生日。私達は独身で、付き合っている相手もいない。


「お前も覚えてたか」

「覚えてた、けど! 本気にするとか、バカでしょ……」


 私は指輪と水瀬の顔を見比べる。指輪がすごく重い。感じたことのない、重み。


「あんな口約束、ちゃんと守ろうとするとか、正気?」

「じゃなきゃ、そんな指輪買わないだろ」

「あんた、ホント……」


 バカ。真面目すぎるバカだ。


「だいたい、水瀬の誕生日はまだ先じゃん! その間に彼女ができるかも……」

「できねえし、作る気もねえんだな、これが」


「だ、だからってこんな簡単に決めていいと思ってんの? 結婚だよ!? これから何十年も一緒に過ごす結婚相手だよ!?」

「俺と深谷は気が合うだろ」

「ま、まぁ……」

「話も尽きないし、金の価値観も合う」

「う、うん」

「一緒にいて楽だ」

「それはそう、だけど」

「結婚できる、と俺は思う」


「だ、だけど! 好きでもないのに結婚していいわけ!?」

「そんなこともねえよ」

「……え?」

「俺は、な」


 いつもと変わらない調子の水瀬がとてもプロポーズをしていると思えない雰囲気でそんなことを言う。「好きでもないのに結婚していいの?」「そんなこともねえよ」そんなこともない、って?


「私のこと、好きなの?」


 声が震えた。情けない。30にもなって。


「うん、普通に」

「友達として、じゃなくて?」

「友達としてももちろん好きだけど、女としても」

「冗談でしょ?」

「お前、どんだけ信じないんだよ」


 水瀬が笑う。


「だって、もう12年も友達なんだよ?」

「そういうこともあるだろ」

「じゃあ何でもっと早く言わないのさ? 好き、とか」

「んー、なんかタイミング逃してて」


 タイミング逃してて、か。そう、私も同じ。ずっとずっと水瀬のことが好きなのに、友達だから言い出すことができなかった。


「あ、ちゃんと言うわ」

「何?」

「結婚してください」

「軽っ!」

「俺達らしくていいだろ」

「まぁ……そうだね」

「で、返事は?」


 そんなの、決まってる。


「お願い……します」


 瞬間、水瀬が笑った。いつもよく笑うけど、今日の笑顔は格別だ。30になっても格好いいよ。


 ずっと、本当にずっと好きだった。きっかけとかいつからとか覚えてない。好きになることが必然のように、気がついたら水瀬のことが好きになっていた。水瀬は私にとって特別。居心地がいいし、一緒にいる時間がすごく好き。


 だけど、お互いにフリーになるタイミングが合わなくて恋愛関係に発展することはなかった。お互いに相手がいなくなったあとも、付き合うことはなかった。自分からアプローチするのも今更だったし、この関係を崩すのが嫌だった。そう、友達の期間が長くなってしまったんだ。


 だから、5年前、約束をした日は嬉しかった。嘘でもその場の冗談でも、もし、もしこれが現実になったらって。その日に私は決めたの。水瀬を好きでいるのは30になる誕生日まで。30になって、何もなかったら諦めようって思ってた。そうやって、実際に30になった今も子供みたいな約束を胸に抱いてきた。


「何だよ、お前、そんなに嬉しい?」

「……うるさいな」


 水瀬にはわかんないよ。私がどれだけ長い間、不毛な片想いを続けてきたか。その長い時間を思えば、涙が出たって仕方ないんだ。


「ほら、店で泣くな、綾」


 私の隣に移動してきた水瀬が私の肩を抱いた。


「うるさいよ、司」


 ずっと好きだったんだ、っていつ打ち明けてやろうかな。今はまだ恥ずかしいから言わないけど、こんな奇跡が続くなら、40回目の誕生日辺りに打ち明けてやってもいいかな。


 今日で私の片想いが終わった。明日からも私の恋は続いていく。



 ***



「ね、聞いた? 水瀬と深谷! ようやくくっついたらしいよ」

「まじ!? ようやくかよ!」

「どんだけ時間かかってんだって話。両想いなのに、どっちも動かないんだもんな」

「じれったかったねー。うちらが気を利かせて二人きりにしてた甲斐があったか」

「じゃ、飲み会解禁だね! あいつらに奢らせようぜ」

「こんだけ待たせたんだからね!」

「結婚式、楽しみだなー」

「あたし、泣いちゃいそう!」

「めっちゃ盛り上げてやろうぜ!」

「だね!」

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