勝手な話

淺羽一

〈短編小説〉勝手な話

 出し抜けにインターホンが鳴ったのは、いそいそと出かける支度をしていた時だった。

 待ち合わせの時間まで、まだ十分すぎるほどに余裕はあるが、かといって関係のない来客に邪魔をされるのは面白くない。それに、僕はいつも彼女より先に到着しておいて、のんびりと待っている時間も好きなのだから。

 無視をしようと決めた。約束もしていない来訪者より、着ていく服に合わせるネクタイの色の方が重要だった。彼女の好きな黄色にしようか、それとも爽やかな夏空に倣ってたまには水色くらいを試してみようか。シンプルな姿見の前で、白いシャツの上に二本のネクタイを交互に載せてみる。穿いているズボンの黒と調和するのは、やはり黄色の方だろうか。

 と、そこでまたインターホンが鳴った。どうやらまだ帰っていなかったらしい。けれど関係ない。居留守を使うと決めたのだから。だが……。

「……嘘だろ」

 信じがたいことに、三度目のインターホンまでの間隔は短かった。四度目、五度目に至ってはもっと短かった。一回の音が鳴り止むのを待たずに、次の音が機関銃の弾よろしく生み出される。次々と、連続して、際限なく、延々と――

「分かったよ、出れば良いんだろ、出れば」

 いい加減に忍耐も限界を迎え、僕はネクタイを両手に掴んだまま足早に玄関へと向かった。さして広くもないワンルーム‐マンションでは二秒とかからずにそこへと行ける。にも関わらず、さらに三度、電子音は鳴らされた。

 腕時計をはめた左手でまとめてネクタイを持つと、チェーンをドアにかけてから、乱暴に取っ手を握る。頭に血が上っていたせいか、ドアの覗き穴の存在などすっかり忘れていた。

「はい?」

 鬱陶しいという気持ちを可能な限り表したくて、本来のものよりも遙かに低い声を出しながら、勢いよくドアを開けた。直後に生まれたチェーンの音が、八つ当たりじみた行為を避難するみたいに大きく響いた。

 他に誰もいない廊下に立っていたのは、まるで見知らぬ女だった。それも、まだ少女と呼んでも差し支えなさそうな。装飾品など無く、小柄な体に袖のない、ふわりとした淡色のワンピースを纏った可愛らしい姿は、とても悪戯や嫌がらせをする風には見えなかった。

 少なからず思いがけない相手だったせいで、むしろ僕の方が驚いてしまう。少女の方はと言えば、いきなり鼻先に迫ってきただろう鉄の板にも全く表情を変えていなかった。唯一の動作は、今にも折れそうに華奢な腕が、真っ直ぐにインターホンへと伸ばされていた状態からゆっくりと下ろされていった事だった。

「……あの、どちら様ですか」

 敬語気味に話しかけている自分に気付いたのは、言葉を発した後だった。

 女の声は、丸みを帯びて少し高かった。「シノです」

「シノ?」

「はい」

 知らない名前だった。

「えっと、で、一体どんな用件で」

「とりあえず中に入れてもらえませんか」

「は?」

 最初、聞き間違いだと思った。それから続いて冗談だと。しかし、そうでないと言うことはシノの眼差しが物語っていた。両肩に垂らされた黒髪に縁取られている小さな顔、そこにはめ込まれている風にも見える大きな黒目は、微塵の揺らぎもなく扉の隙間から覗く僕の事を見据えていた。化粧っ気などほとんど感じられないのに、病的なほど白い肌と、そのくせ妙に艶っぽい紅唇は、瞳と相まって人形めいた雰囲気を醸し出していた。

「中に入れろって……。この部屋に?」

「はい」

「ここ、僕の部屋なんだけど」

「はい。あなたの部屋ですね」

 淡々と答えるシノの口調によどみはない。だからこそ、僕は正気を疑いたくなり、彼女の顔をまじまじと見つめた。

 すると、ほんの僅かに視線を逸らされた。仄かに白い肌へ朱の差した気もしたが、それはきっと錯覚だろう。それよりも今、重要なことは、この「シノ」と名乗る女への対処法だった。何となく、危ない感じがしてきた。

「ちょ、ちょっとだけ待ってくれる?」

 早口に告げて、急いで扉を閉めようとする。とにかく、部屋に戻って警察に電話しよう。

 だが、僕が完全に扉を閉め終わる寸前、シノの声が薄紙一枚ほどの隙間から滑り込んできた。「もしも、あなたがこのまま扉を閉めて、その場を離れたら」 その声音がそれまでよりも僅かながら大きく聞こえたせいだろうか、僕はほとんど意識せず動きを止めていた。そして僕は、結果的にそれが正しかったことを直後に思い知らされる。

「私は、ここで手首を切って死にます」

 日本語そのものを忘れてしまったのかとさえ思った。だが、本能は理性を待たずに体を動かした。

 きっと、最初にそれを開けたときよりも遙かに激しい勢いで再び扉を押した僕の目に、いつの間に取り出されたのか、刃が剥き出しの安全剃刀が飛び込んできた。危険防止の為の工夫など何も無く、細い髪の毛でも容易く縦に真っ二つに出来そうな刃は、その名とはまさに対極的な迫力を放っていた。

 シノは、呆然とする僕の目を見て、微笑んだ、それも嬉しそうに。きっと、滑らかな左手の手首に、剃刀の刃がぴたりと当てられてさえいなければ、とても魅力的だっただろう。

「本気ですよ?」

 そう言って、剃刀を微動だにさせないまま子供みたいに小首をかしげてみせた彼女の姿は、あまりにも超現実的過ぎていっそ道化じみていた。言うまでもないが、全く笑えない最低の芸だ。携帯電話をズボンのポケットに入れていなかったことを心の底から後悔した。

「とりあえず中に入れてもらえませんか」 シノは再びそう言った。

 僕は何も返せなかった。すると彼女は、その微笑にかすかに悲哀をにじませた。

「警察が来るまで、もしくは救急車が来るまで、早くても十分から十五分。もしかしたら助かるかも知れませんが、でも、私は本気です。本気で死ぬ気で切ります。勿論、あなたにとって私の生死なんてどうでも良いことなんですけど、それでもやっぱり気分は悪いですよね。まぁ、もしもあなたが手当をしてくれると言うのなら、それはそれでされてみたい気もしますが」

 急かすでもなく、焦らすでもなく、シノは事実を事実として語ると言う風に言葉を紡ぐ。ただし、ほんの少しだけ、彼女が口を閉ざすと同時に、薄い刃が傷一つ無い肌を押して凹ませた。

 だが、それでも僕は何も言えないでいた。と言うか、何も言いたくなかった。そもそも一切の関わり合いを避けたかった。

 するとそんな想いを悟られたのか、シノは一度だけ小さく溜息を吐くと、「仕方ないですね」 信じがたいことであったが本当に躊躇う様子もなく右手を真横に引こうと――

「待って、分かった。分かったからマジで止めてっ」

 自分がそんなことを口走っていることに気付いたのは、それらを全て吐き出してしまってからだった。しかし、それも詮無きことだろう。

「本当ですか」

 一転して嬉しそうな表情で剃刀の刃を手首から持ち上げるシノ。

「……あぁ」と、噛み潰すように歯の間から声を絞り出した僕の網膜に、白い皮膚にうっすらと走った赤い線から、ぷくりと丸い玉が生まれる光景が映し出されていた。

「心配しないで下さい。あなたには絶対に、この刃を向けたりしませんから」

 自身の怪我も無視して嬉しそうに話す少女の様子に、僕は安堵を感じるどころかさらなる不安感を抱いてしまう。当然ながら、信じる気なんてさらさら無かった。

「それじゃあ、扉を開けて下さい」

「…………」

「開けて、下さい」

「……分かったよ」

 渋々頷きながらも、僕はすぐに従うことなく周りに視線を走らせた。靴やビニール傘など雑多なものが散らばっていたが、使えそうなものと言えば玄関脇の電気コンロの上に置きっぱなしにされていたフライパンくらいだった。数時間前に朝食と昼食を兼ねて作ったインスタント焼きそばのソースの滓がこびりついていたが、今更そんな無精を恥ずかしく思う余裕など皆無だった。

「鎖を外すから、いったん扉を閉めるよ」

 僕は素早く扉を閉めてチェーン‐ロックを解除すると、再び取っ手を掴むことなくそのまま空いた右手でしっかりとフライパンの柄を握った。

 およそ五秒後、ネクタイとフライパンを真剣な顔をして構えているという、端から見ればきっと滑稽に違いない格好の僕の前で、ゆっくりと扉が開かれた。

 左手で扉を引いて現れたシノは、にっこりと笑っていた。右手には、相変わらず剃刀が握られていた。血はもう止まっていた。

「ありがとうございます」

 シノが一歩、玄関へと足を踏み入れて、丁寧な仕草で頭を垂れた。静かに扉が閉まる。

 僕は何も言わず、彼女の歩幅と同じだけ後退した。一瞬の油断が命取りになるかも知れないのだ、ある意味ではお互いにとって。最早、猟奇的事件に巻き込まれた気分だった。

「上がって良いですか」

 問いかけのくせに、シノは答えを待つこともなく白いパンプスを脱いだ。小汚いスニーカーやサンダルに混じって、綺麗に揃えられた真新しい女物の靴が並ぶ光景は違和感たっぷりだった。

「ネクタイを選んでいたんですね。ネクタイ、お好きですもんね」

 聞き流してしまうには問題を孕みすぎている内容を、シノはさらりと口にする。「今日はその二本で悩んでいるんですか」 細い生足を滑らせるように、彼女は近付いてくる。

「……関係ないだろ」 僕はネクタイを背後に隠し、狭い廊下を後じさる。

 一定の距離を保ったまま、短い廊下を渡りきり、開けっ放しになっていた扉を抜けた。薄いカーペットの上には、ズボンやシャツが脱ぎ散らかされていて、部屋の真ん中ほどにある背の低いテーブルを見れば皿やコップなどがそのままになっていた。そんな状況で無いことは重々承知していたのだが、あまりにも生活感の滲む光景だったせいか、そこでようやくかすかながら気恥ずかしさめいた感情が湧いてきた。この二分ほどの間に、少しは頭の中にゆとりが生じたのかも知れない。もしくは己の部屋の中と言うことで安心感が多少なりと得られたからか。シノはと言えば、そんなこちらの心情などまるで気にした風もなく、部屋の入り口に立って興味深そうに室内を無遠慮に見回していた。

「とりあえず、座ったら」

 シノの様子から、どうせすぐに出て行ってはくれないだろうと悟った僕は、そんな提案をする。単純に、立ったままでいつ飛びかかられるか分からない状況よりもまだマシだと思えたからだ。彼女は「ありがとうございます」と素直に従った。

 カーペットに直接、腰を下ろすシノ。正座を斜めに崩したような女性らしい座り方は、今ひとつ緊張感を欠いていた。とは言え、床に置かれた右手には変わることなく剃刀の刃。恐怖よりもうんざりとした気分を抱き始めていた僕は、クッションなどを勧めるはずもなく、彼女が完全に動きを止めたのを確認してから同じくその場にしゃがみ込んだ。

 部屋の入り口辺りにシノ、二メートル弱の距離を空け、テーブルと姿見に挟まれて僕。

 さり気なくネクタイを床に置いた僕は、代わりにテーブルの上にあった携帯電話に手を伸ばす。しかしシノは何も言わず、ただじっとこちらを見つめていた。

 しばらく無言のやりとりが続いた。僕は下手に彼女を刺激しない為にも、フライパンこそ構えたままだったが、とりあえず携帯電話だけは体の脇に置いて気配を窺っていた。と、そこで不意にシノがくすりと頬を緩めて見せた。そして、「こうしていると、なんだか二人で寄り添っているみたいですね」

 すぐには言われている意味を把握できなかった僕だが、彼女の視線を追い、やがて理解する。シノは、どうやら僕の隣の姿見に映る自身の姿を見ているらしかった。

 僕は何気ない素振りを装って、姿見を押し、鏡面の向きを僅かにずらす。だが、それでも効果は十分にあったのか、シノは何も言わなかったものの、笑みを悲しげなものへと変えた。勿論、同情なんて微塵も抱かなかった。

「あのさ」 いい加減に、このままでは埒が明かないと思い、僕は本題に取りかかる為の話の口火を切った。「それで、君は一体、何が目的なの」

 シノは、一度だけ間を置くように唇を濡らしてから、言った。「私を、抱いてくれませんか」

 束の間の沈黙。それを経て、ようやく僕は聞こえた内容を理解した。しかしだからこそ、我が耳ながら疑わざるを得なかった。「……は?」

 彼女は再度、「一度だけで良いんです。私を、抱いて下さい」

 今度こそ、僕は彼女の頭の仕組みを疑った。戯れ言にも程がある。根本的に異常者であるとすれば話はそれまでなのだろうが、だとすればまともな会話など全く期待できない事になる。早くも、シノを部屋に上げた選択に対する後悔が津波のごとく押し寄せてきた。とは言え、廊下を血の海にすれば良かったとは、欠片も思っていないけれど。

「……何を考えているんだよ」

 僕は声を絞り出した。対してシノは即答した、どこか誇らしげに。「あなたが好きなんです」

「嘘だよ」

「嘘じゃないです」

「そんなの、嘘に決まってる」

「どうしてそんなことを言うんですか」

 シノの表情が翳る。まさか、本気で悲しんでいるとでも言うのか。

 唖然とするしかない僕の前で、彼女は「あなたが驚くのは、分かりますけど」と前置きをしてから、言い訳めいた言葉を吐き出した。「こんなやり方でしか、あなたに近付く方法が分からなかったんです」

 正直、ぞっとした。

「……いつから」

「え?」

「君は、一体いつから、ストーカーなんてやってるんだ」

「ストーカーなんて言い方、止めて下さい……」

「だって、どう考えたってそうじゃないか」

「私はただ、あなたの事が好きなだけで」

「それがストーカーだって言うんだよっ」

 あまりにも身勝手な主張に、思わず声を荒げてしまう。「こんな無茶苦茶な事をして、『好きだから』だけで済むはずがないだろ」

 シノは何も反論をしてこなかった。ただ、無言でこちらを見返していた。唇を引き結び、眉を寄せ、恨めしそうと言うよりも今にも泣き出しそうな眼差しを向けて。

 僕もまた、言葉を失ってしまった。卑怯だと思った。これでは、僕の方が加害者みたいではないか。

「……それでも、好きなんです」

 ぼそりとシノは言った。僕の方を向いているくせに、僕を見ていない。「一度だけで、良いんです。それだけで十分なんです」 卑屈な口調で、一方的な要求を繰り返す。「思い出を下さい。それ以上、あなたに迷惑は掛けませんから」

 僕は答えてやった、これが現実であることこそを思い出させてやる為に。「無理だ」 シノの瞳の焦点が、僕のそれに重なった。

「君の要求には応えられない」

「……どうして、ですか」

「僕には、付き合ってもう二年になる彼女がいる。その子を裏切ることは、絶対に出来ない」

「嘘です」

「嘘じゃないよ」

「だって、そんな人、一度もここに来たことなんて無いじゃないですか」

「……君がどうして、そんなことを知っているのか、それはとりあえずとして。デートは基本的に外だから。それに、この部屋に来ることが無くても、僕が彼女の部屋に行く事はあるし、しょっちゅう声も聞いている。喫茶店で一緒にお茶を飲んだり、たまには映画を見に行ったりもしているよ。洋画よりも邦画の方が好きな子なんだ」

 実際、今日だってそうだ。彼女の仕事が終わって夕暮れ前の小一時間、僕達は喫茶店で一緒にお茶を飲む。そこの店長お薦めのハーブティーを。それが最近の僕達にとっての定番なのだ。

「それにね」

「それに?」

「知っているからさ。君みたいな人種が、とても欲張りだって事を。もしも本当に、今は一度だけで良いと思っていても、必ずそれだけじゃ満足出来なくなる。必ずね」

 シノは否定しなかった。僕は「やっぱり」と心の中で頷いた。この類の身勝手な人間は、自分のことしか考えていないのだ。相手のことなど、考えている振りをしているだけに過ぎない。

「勘違いしないでくれよ。彼女がいなくなれば、どうにかなるとか、そんなことは有り得ない。ましてや、君がどうとかなんてもっと関係ない。僕達は愛し合っている。それはもう、絶対に、永遠に。僕にとって、この先、彼女以外の人間を本気で愛する事なんて無いと断言出来る」

 そして最後に僕はこう付け加える、はっきりと。「僕が君を愛することは、絶対に無い」

 数分間の、沈黙。睨み合っているかのごとく見つめ合う僕達。クーラーは正常に稼働しているはずなのに、背と脇に汗がにじんでいるのを感じた。いつも通りカーテンを全開にした窓からは眩しいほどに日差しが入り込んできていた。これからは、真昼でも蛍光灯の光を頼りにしなくてはならないのだろうか。ふと頭に浮かんだ考えに、気分がさらに滅入った。

「いつも見ていたんです」 出し抜けに、シノはそんなことを言い出した。

「見ていた?」

「見えるんです。向かいのマンションのベランダから、この部屋のベランダが。私、そこに住んでいるんです」

 再び、心の中で「やっぱり」と思った。むしろ間違っていて欲しかったのに。

「最初は、本当にただの偶然だったんです。でも、それからもたまに、あなたがベランダに洗濯物を干している姿とかが見えて……。見ているだけで、楽しかったんです。何か、可愛らしくて。どんな人なのかな、とか想像したり、出掛ける時の服の趣味はどういうのなのかなって、全身を思い浮かべたり。見ているだけで十分だったんです」

「…………」

「だけど、いつの頃からか、実際に会ってみたい、声を聞いてみたいって思ってきて……。気付いたら、この部屋の前に立っていたんです」

 それで、歯がむき出しの剃刀を持って、か。勘弁してくれと泣きそうになった。と言うかそもそもだ、今時、刃先に何も施されていない昔ながらの危険なものだなんて、それを使い慣れた年配の女性でないとすれば、普段からよほどのこだわりを持っていない限り、そんなものを常備している事こそが確信犯的な性格の証拠と言えるのではないのか。異性からこれ程までに褒められた事など、もしかしたら人生初の出来事かも知れなかったのに、ちっとも嬉しくなれなかった。むしろ、せっかくの初体験がこんな最悪なんてと、悔しくなりさえした。これが「彼女」から言われているのであれば、きっと飛び上がらんばかりに喜べただろうに。

「帰ってくれ、頼むから」

 それで、出来れば遠くに引っ越すか、そうでなければ窓に暗幕でも張ってくれ。警察沙汰にはしないままでいておいてやるから。

 しかし僕の願いも虚しく、シノはふるふると首を横に振った。「お願いです、一度だけ」

 話は通じているのであろうが、聞く気がないようだった。……余計に質が悪い。

 どうすればいいのだろうと考えた。やはり無理矢理にでも警察を呼ぶべきだろうか。しかし、そうなると十中八九、ここで一騒動あるだろう。最悪、床の上が血まみれになるかも知れない。それがどちらの人間の体から出たものであれ、後々までに問題を引きずるであろうことだけは確信出来た。ましてや、僕はまだまだ死にたくないし、間違っても殺したくない。だが、かといって、シノの要求を受け入れるという選択肢は、最も避けるべき事だ。彼女がその後でどういった行動に出るのか、そんな予測よりももっと重要な前提として、僕には裏切れない相手がいるからだ。いや、裏切りたくない相手が。その人を裏切るくらいなら、目の前でこの女が事切れる様を眺めている方が良いとさえ思えた。二者択一の極論だけれども。

 とは言え、やはり最善の策は平和的な話し合いによる解決だろう。改めてそう結論した僕は、心の底から面倒だと思いつつも、もう一度、「お願いだから、帰ってくれ」と言った。「そしてもう二度と、僕の前に現れないでくれ」と。

 果たして、シノの回答は拒否だった。「嫌です」 そろそろ頭が痛くなってきた。

「どうか、お願いですから」 シノがゆらりと立ち上がる。一緒に右手も上げられる。薄い刃が、こちらを向く。

「何を、するつもりだよ」 僕も慎重に腰を浮かしていく。剃刀よりも、シノの視線の行方に神経を注ぎながら。刺激しない為にも、フライパンは置いたままにした。

「そんなに、私が嫌いですか」

「嫌いだよ。二度と関わりたくない」

「どうしてそんな酷いことを言うんですか」

「今すぐにでも出て行って貰いたいからさ」

「私は、要らない存在ですか」

 その問いかけは、それまで以上に真剣な響きを持っていた。

 だからこそ、僕もまた本気で答えた。「僕には、要らない」

 ややあって、シノは小さく「そうですか」と呟いた。うつむき、前髪が僅かに目を隠している様子は、悲しそうで傷ついているのだと訴えている風であったものの、無視した。子供をいじめているみたいな、かすかな罪悪感が胸に湧いたが、押し殺した。今が正念場だという気がしていたからだ。

 と、唐突にシノが「ごめんなさい」と言った。「私なんかがここに来て、ごめんなさい」

 僕は「やっと帰ってくれるのか」と安堵しかけた。それこそが、最大の油断だった。

「もう、消えますから。あなたの迷惑にならないように」

「え?」

 そして僕は信じがたい光景を目にした。

「これで、終わりですから」 シノの左手が平を上にして掲げられ、変則的な「前へならえ」をするみたいな格好になった。直後、シノの右手が左手に重ねられた。細い筋状のかさぶたは、まるで切取線みたいだった。

「止め――」

 言い終わるよりも早く、僕の体は動いていた。

 勿論、シノを救いたかったわけではない。少なからず薄情だと思われるかも知れないが、こんなストーカーの為にこちらが命を懸けなければならない謂れなど無い。

 それなのに、だ。それでも僕は動いた。小さな体に命を奪える力を備えた凶器に向かって、躊躇う間もなく手を伸ばして、掴んだ。素手で、むき出しの狂気を。

 刃が皮膚を裂き、肉に食い込む感触は、一瞬のものであったはずなのに、妙に鮮明に意識へと伝えられた。熱せられた鉄板に触れた時にも似た痛みは、その刹那の後で訪れた。

 反射的に腕を引くと、呆気なく剃刀は両方の手から離れて落ちた。一緒に、僕の手からは赤い飛沫が散った。カーペットに、脱ぎっぱなしだったシャツに、僕の靴下に、幾つもの紅点が斜めに走った。

 痛みのせいか、小刻みに痙攣する右手を開いてみれば、手の平の真ん中辺り、綺麗な縁をした流線型の傷口がさして長くもない生命線と十字に交わっていた。ただ、血の量は、恐れていたほどではなかった。決して止まることなく流れているのだが、もっと噴水みたいに溢れ出る様を想像していた僕としては、僅かに拍子抜けの感があった。しかし、脈拍につられるように刻一刻と激しくなる痛みだけは、否応なしにそれを酷い怪我だと認識させてくれる現実だった。

「大丈夫ですかっ」

 シノが悲鳴じみた声を発した。そして血の滴る手を心配そうに見つめてくる。

 僕は、その滑稽さに失笑しそうになった。大丈夫なはずが無い。そんなことは見れば分かるだろう。

 するとまたしても、シノが「あぁ、どうしましょう」と言った。打算も後悔も欲望も、突発的な事態を前にほとんどの事が頭から消えてしまっている風だった。

 だから、言ってやった。「勘違いしないでくれよ」と。決して忘れさせてはならないと、また期待させてはならないと悟ったからだ。

「君を助けたかったんじゃない」

 僕は低く威圧するみたいに言葉を紡いだ。「君なんかの血で、僕の物を何一つとして汚したくなかったんだよ」

 シノは無言で聞いていた。

「今すぐに出て行け。そしてもう二度と僕に関わるな。もしも次に現れたら、即座に警察を呼んでやる」

 彼女は黙って言われるがままだった。

「良いか、ちゃんと聞けよ」 それでも最早、容赦してやる気は微塵も起きなかった。

「死にたいのなら、一人で勝手に死んでくれ。誰に迷惑を掛けることもなく。僕はそれを止めやしないから」

 我ながら残酷な発言だと分かっていたが、言葉は驚くほど滑らかに外へと生まれていた。どうやら僕という存在は、考えていたよりも遙かに、興味のない相手に対して冷淡な人間であったらしい。

 そしてきっと、シノもまたそれを感じ取ったのだろう。限界まで開かれて丸くなっている眼差しからは、驚怖と失望、それら以外のものを見出すことなど不可能だった。

 変な言い方かも知れないけれど。僕はようやく、シノと気持ちが通じ合った事を確信した。絶対に顔には出さなかったが、宇宙人エイリアンと意思の疎通が叶った時にはこんな気分になるのだろうかとさえ思った。

 結果的に、シノは出て行った。何も言い残さず、一度として振り返らず、僕の足下に血の付いた剃刀を残して。玄関の扉の閉まる音が消えた直後、僕は傷の手当てをするよりも早くそこに行って鍵を掛けた。やっと、息をつくことが出来て、思わずへたり込みそうになる。不幸中の幸いか、血はもうほとんど止まっていた。

 普段履き用のスニーカーを踏み潰したまま、硬い扉に背をもたせかけてぼんやりと考えた。「あぁ、部屋干し用の洗剤を買いに行かないといけないな」とか、「折りたたみ式のハンガー‐ラックの置き場所も作らないとな」とか、「とりあえず警察に言っておくべきかな。でも、そんなに気にしなくてももう大丈夫かな。大丈夫だったら良いな」とか、色々と。そうやって気怠い脳みそをぐるぐる回していると、何故だろう、不意に可笑しさが込み上げてきた。

 わけも分からず、僕は笑った。ただし、万が一にもシノが部屋の外で聞き耳を立てているとまずいから、声はそれほど大きく出さずに。手から伝わる痛みが、一層に横隔膜を強く震わせた。

 どれくらいの間、そうしていたのだろうか。そろそろ呼吸が苦しくなってきて、僕は我に返る。それから何となく左手の腕時計に目をやった。

 息が止まるかと思った。

 反射的にリビングへと走り、そのまま部屋を突っ切って窓を開けベランダへと飛び出す。驚きのあまり他の事など頭から吹き飛んでいた。

 空は、まだまだ明るかった。だが、見上げた先に眩い太陽を見つけることは出来なかった。いつしか渇き始めていた傷口の縁が、一足先に色味を濃くしていた。

 部屋に戻って窓を閉めた僕は、乱暴に掴んだカーテンを勢いよく引っ張ると、薄暗くなった視界に構わずクローゼットの中を漁る。

 ほんの一分ほどの後、雑貨を適当に詰めた箱の中からずいぶんと前に買い置きしていたまっさらの包帯とガーゼを探し出し、消毒もそこそこに水洗いした右手にきつく巻いた。それから痛みを堪えながら靴下を履き替え、さらに首にネクタイを結んだ。結局、ネクタイは黄色を選んだ。

 僕は急いで部屋を出た。片付けなんか帰ってからで構わない。日が暮れるまでには余裕もあるだろうが、それでも焦燥感は湧いてきて、足の動きを速めさせた。

 歩き慣れた道を駆け、見慣れた街並みに振り向くことなく猛進する。

 やがて視線の先に見えてくる洒落た雰囲気の喫茶店。ここからではまだ店内の様子の細部までは確認出来ない。果たして、彼女は今もそこにいてくれているのだろうか。

 遂に、僕はガラス張りになっている店の壁の前まで辿り着く。

 いた。

 いつもの席に彼女は座っていた。途端にどっと疲れが襲ってきたが、喜びと安堵感がすぐにそれを再び忘れさせてくれた。

 僕は、少しの間だけ呼吸を整える為に使ってから、静かに店内へと入っていつも通り席に着いた。勿論、注文するのは彼女が飲んでいるものと同じハーブティーだ。読書に熱中しているのか、彼女は僕が来た事にも気付いていない。それで良い。楽しんでいるのなら邪魔をしたくないし、それに僕はそんな真剣な横顔を見つめている事も好きなのだから。

 見覚えている店員がセットを運んできて、ちらりと僕の右手に視線を走らせて去っていった。僕は気にすることなく、左手を使って爽やかながらも甘い香りを楽しむ事にする。適度に温められているにも関わらず、火照った体が幾分か涼しくなった気がした。カップの向こうには、彼女が座っている。

 細い指でページを繰り、膝上までのスカートからすらりと伸びる足は優雅に組まれていた。三日前に行き付けの美容院でカットされた前髪が、長い睫毛に触れそうだ。と、彼女がカップに手を伸ばし、厚めの唇が陶器の縁に添えられる。だから僕も再びカップに口を付ける。ハーブの香りが鼻腔に広がった。

 空調の整った喫茶店で、心地よい音楽を背景に、美味しいお茶を飲みながら彼女と一緒の時間を過ごす。とても大切で、大好きな時間。

 僕は至福に浸りながら、誰よりも愛しい彼女だけに視線を注ぐ。真っ直ぐ、想いを込めて、黙々と文字を追う横顔を見つめる。時折、視界を横切る店員の姿を疎ましく思いながら。

 あぁ。やはり、彼女は今日も美しい。


〈了〉


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