⑤
彼らの居る場所をちらりと見てから廊下を通り、施設を出ようとした時……捕まった。
「あの、レイ」
駆けてきたのは、彼らのうち一人、青年だった。
まだ生み出されてから日が経っていないのだろう。
興奮や薬剤ではどうしようもない疲労が、まだ刻印されていない。
参ったな、と思い、その『九十五』への対応を考えると、後ろから更に数人増えた。
あっという間に、彼らはレイを取り囲み、わいわいと盛り上がり始めた。
その内容といえば、皆示し合わせたかのように、先日の戦いでのレイの活躍ぶりと……力の源である、小夜子の演奏についてだった。
「すごいなあ。あなたみたいに戦いたいですよ。あなたが特別なのは知ってるけど」
「どうやったら、あの人の音楽を聞いて、あそこまで出来るんですか」
質問攻め。レイは言葉を返せない。
それは答えに窮しているからではなかった。
彼らの瞳が、あまりにも純粋すぎたがゆえに、胸が、締め付けられるのだ。
「ほんとうに、あの人は、俺たちの女神サマなのかもしれない」
「きっとそうだ……俺たちを、あんなにも導いてくれるんだから。ねぇ、レイ。あなたから、聞いてくださいよ。どうしたら、あの音楽をもっと理解して、あなたのように強くなれるのか」
小夜子は、暗い自分たちの部屋で呟いていた。
決まりきったものを奏でることの虚しさ。
自分など代替可能な存在でしかないことへの虚無感。
それらを、安酒にも似た快楽で覆い隠してしまうことの罪深さ。
すべて、小夜子が言ってきたことだ。
その寂しそうな背中が、自嘲する笑みが、自分への涙が……脳裏に駆け巡る。
――あいつは、俺と自分が同じだと言った。全くそうだ。そのとおりだ。
しかし、それゆえの苦しみは、今目の前に居る彼らに、伝わりそうにない。
ぼっかりと断絶が足先に走っていて、レイはその手前で、曖昧な笑みを『同胞たち』に返すことしかできなかった。
◇
「やりすぎです、ドクター。秩序の大切さはご存知のはず」
「盲目のままよりはマシだと思うがね、霧崎くん」
ドクターはポニーテイルの男……霧崎にポットから注いだコーヒーを勧めたが、丁重に断られた。
仕方がないので、彼は自分で飲んだ。
「だがあなたは知っている。今が最良なのだと」
キャビネットの縁に腰掛けて、最小限の親しみをあらわしながら、霧崎は続ける。
「この国が成り立つ前の、あの暗黒の時代を知っている。その後に訪れた今の社会構造が、あの頃に二度と戻らないための祈りであることも……だからあなたは、口でそんな事を言いながらも、彼らのための研究を続けている」
「息子が殺されなければ、私はもっと従順に『彼ら』だけを作り続けていたよ」
ドクターは皮肉っぽく笑い、霧崎の隣でキャビネットの上に置かれた写真立てを手にとった。
色あせたそこには、若い頃の彼と、少年が映っている。
彼はどこか、レイに似ていた。
「それでも、『期限』は近づいていますよ。兵器に心は要らないということを知ることになる」
「……」
「はやいところ、諦めてしまいなさい。でなければ、余計に辛くなるだけですよ」
「それは君自身の見解かね。それとも、君の背後にある、がらんどうの玉座を代表してかね」
「何、友人としてですよ……ほんとです」
ドクターには、そう言い残して去っていった霧崎が、ほんの少しだけ皮肉に笑っていたように見えた。おそらくその言葉は、本心だろう。
だから彼は、自分に対してと同じぐらい……レイの身についてもまた、案じているのだろう。
――それでも彼は、その忠告に逆らいたいという気持ちを捨てきることは出来そうになかった。コーヒーは冷めきってはいなかった。
それでもレイはきっと。倦んだこの国に、何かをもたらしてくれる。『彼女』とともに……。
◇
小夜子は、当局に提出する業務レポートのついでに宿題を図書室で済ませていたが、結果として随分と帰りが遅くなった。
レイには夕食は適当に食堂で済ませると伝えていたので、帰宅するときには寝ているか、どこかをぶらついているか、それかまだドクターの検査とやらに付き合っているかのいずれかと思われた。
しかし、実際は違った。
ドアを開けて、冷気が部屋に入り込んだ時、彼は窓の傍に居た。
そして彼は裸で膝を抱えてうずくまっていた。
外の闇の中から僅かに漏れる光が、その傷だらけの身体を銀色に淡く縁取っていた。
彼はこちらを見ると顔を上げた。何も言わなかった。
「なんで、裸なの。風邪ひくよ」
「なんか、着てるのが……わずらわしくなって。それで」
「なんで――……泣いてるの」
彼の顔は真っ赤で、何度も鼻をすする音がした。
部屋に入って戸締まりを厳重にして、手早く手洗いをして外套を脱ぎ捨てる。
それから彼の細い身体の傍に寄る。
「何があったの」
「死んだ。いっぱい死んじまった……やっぱり無理だ。慣れたりなんか絶対にしない。俺はあいつらと一緒に戦ってるのに、一緒にはいられない。そのくせにあいつら……こんなもんよこしやがって」
彼は手の内側を開いた。
そこには押し花の栞があった。
紙の端に、『彼ら』の一人と思われるナンバーがサインされていた。
知っている。前回の戦闘で死んだ子だ。
「何が憧れだ。お前らがもし死んだら、俺が、これ捨てちまっても気付かないくせに。ちくしょう、嫌いだ。あいつらもドクターも……」
「レイ……落ち着いて」
肩に手をかけて、ごつごつした亀裂だらけの背中を擦る。
彼は引きつけを起こしたように何度もしゃくりあげる。
月並みな言葉をかけ続けても、止まらなかった。
「大丈夫、大丈夫だから……私がそばにいるから。だから……」
だから、なんだというのか。
小夜子は、自分の言葉の薄っぺらさを知覚する。
だったら、この子に、何が出来る?
答えが出ずに、喉の奥でおかしな音が出て、背中を擦る手が止まる。
するとレイは顔を上げて、懇願するような、ひどく幼く見える表情をしながら、言ってきた。
彼の腕が伸びて、小夜子の肩をつかんだ。動揺する。
「そうだよな。お前は違うよな。居なくなったりしないよな……同じだって言ったもんな……」
「……」
「俺は、お前の音楽を聞いている時なら、飛ぶことが出来る。一つの機械になって、苦しまずに済む。だから、俺から離れないでくれ……頼む」
「大丈夫、だよ」
大丈夫。離れたりしないよ。
だって、一緒じゃない。
嗚咽する彼に、確かに小夜子は言った。
薄暗い部屋の中に、埃の粒子が舞っていて、水道のしずくと、時計の音と、遠くの工場の音がわずかに聞こえる。
小夜子はそれらを聞きながら、レイを布団の中で抱きしめていた。
ワイシャツ一枚だけになって、彼の肉体の鼓動を直接感じ取っていた。
――嘘つき。
そんな言葉が聞こえた。
少し目をやると、部屋の隅に、今日撃った少女の幻影が見えた気がした。
そいつは歪んだ笑みを浮かべていて、こちらに悪意を向けていた。
もっともな指摘だった。
最後の一枚を脱ぐ気にはなれなかったのだから。
彼は今、彼女の胸の中で、子供のように膝を抱えながら、穏やかな寝息を立てていた。
安心しきっていた。何度か、その髪を撫でる。
そのたび、幻影が笑った。それはいつの間にか二人ぶんになっていた。
――この子がこの世界にふさわしくないことを、私は誰よりも分かっているのに。私はそちら側に行こうとしません。
――この子がぬくもりを求めても、私は傷のない肌に罪を感じて、それ以上を拒んでいます。
――本当は、この子のように泣きたいのに。平気な顔をして、二つの顔を使い分けている。名前も知らない消された彼らや彼らのようになりたいのに、今を失うことを恐れている。そのまま進めば、大切にしているいまも、失ってしまうかもしれないのに。
無限の自責が、背中から立ち上って、ぞわぞわと彼女を追い立てる。
では、なら。どうすればいいというのか。
分からない。分からない……だけど、確かなことがある。
それは……自分もまた、レイを失いたくないということだ。
「ねぇ、レイ……変えてよ。私を変えて……お願い。私にも、傷をつけて……」
そう呟いても、レイは答えず、ただ冷たさの中にあたたかさだけがあった。
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