第二楽章
①
次の日。
夜が明けないうちに、ふたりの部屋に連絡が入った。
仕事だ。
再びの早朝。
二人は無言で朝のルーティーンを済ませた。
それから、外へ出て、向かうべき場所へ向かった。
◇
レイは基地の前で自転車から降りる。
それから少しの間、身を翻さず、その場で足元の雪を蹴った。
今日はほんの少しだけ、粒子のように降っていた。
その場に居続ければ寒い。
しかし彼はジャケットのポケットに手を突っ込んで、俯きながら同じ動作を繰り返した。
「何やってるの」
「……なんでもない」
「……遅刻したら、怒られるよ」
「ああ。たぶんな」
そこで彼は、笑顔を小夜子に向けてきた。
急なことだった。
なんだか無性にドキッとして、顔が赤くなる。
「あ、レ……」
「あのさ。小夜子、昨日のこと……」
「えっと、え、何――」
「悪かったな。俺、もう大丈夫だ。多分、全部――」
そこで、小夜子は乱暴に自転車から降りて。
ガシャンと倒れて、フェンスがたわんで。
「……何も」
手袋をぬぎすてて、ステップするように彼に近づいて、その手を両手で包んで。
「――何も、大丈夫じゃないでしょ」
そう、言った。
「……小夜子」
沈黙。
驚いた顔が、目の前にあった。
一瞬、粉雪の速度すら遅くなるように感じた。
「……あっ、と」
また、顔が真っ赤になった。
どうも調子が乱れていけない。
取り繕うように、小夜子は彼に背を向けて、再び自転車にまたがった。
「じゃあねレイ。寒いから気をつけてねっ」
「お、おう……お前どうしたんだ急に」
「どうしたもこうしたも、あんたのせいじゃない、全部ぜんぶ全部。あんたが居るとね、譜面が無茶苦茶になるのよ。あの子達だけのほうが演奏ラクなんだって。分かんないでしょっ」
言葉が止まらなかった。
「全部あんたが居たから始まったんだから。どうしてくれるの。どうも出来ないんでしょ……」
「小夜子、俺は……」
「だから…………いいよ別に。なんだったら、一緒に、逃げても、いいよ」
言った。口からついて出た。
その次にレイは、言葉の真意について問いかけてくる。
でも、それに答えるつもりはなかった。
だから小夜子はそこで、一気にペダルを踏み込んだ。
「じゃあねっ」
後ろから手を伸ばして、何かを言いかけるレイを感じたが、振り払う。
そうしてどんどん、存在が小さくなっていった。
ぽつんと残された彼は、その後どれくらいの時間をかけて基地に入るのだろうか。
漕ぎまくって寒風と一体になった瞬間にはもう、考えられなかった。
◇
悪臭と煙の立ち込める工場地帯に、荒れ果てた路地に、疲れ切った家屋の群れに。
当局のスピーカーは皆を見下ろすように据え付けられていて、その日の朝七時半、メッセージを流した。
それは働くことと信じること以外何も持たないこの国の大半の人々にすばやく届いた。
――『本日午前八時四十五分より会敵中継開始。敵は翼竜を中心とした強襲部隊』。
日常に忙殺された彼らの目を輝かせるには、そのメッセージだけで十分だ。
人々は互いの顔を見合わせて、その放送の内容を復唱する。
それからおのおの、これから先『中継』を見ることの出来る場所へまっしぐらに散っていく。
気だるい朝の街に、超大規模の見世物がやってきたようなものだった。
同様のメッセージはよりなめらかな文節と修辞を駆使する形で摩天楼の人々にも届けられていた。
その結果として、ビルの合間を縫いながら、今回のお客を乗せた車両が何台も進み、やがて会場であるところの、高等学校に付随したコンサートホールへと集まっていく。
すでに入り口には大勢の賓客が集っており、口々に今回の演奏について予想合戦を繰り広げていた。 演目や曲の進行については変わらないのだから、変わるのは彼らがいかにしてそれを楽しむのかということだった。
ある老人は、年代物の当局のパンフレットをじっくりと読みながら耳を傾けるのだと言った。
それでいて、中継の様子は手元の端末で確認する。五感を刺激するのが若さの秘訣とのことだ。
また別の婦人は、当局が作り出した最高品質の合成ワインを楽しみながら聴くのだと言った。
いずれにせよ彼らは、皇国への敬愛にどっぷりと浸かった彼らは、その駆け引きの中で、今回の主役を心待ちにしていた――。
会場のざわめきがさざなみになって、控室にまで僅かに聞こえていた。
小夜子は鏡の前に座り、メイクを黙って受けていた。
入口の前には、何人もの追っかけ生徒たちが集まっていて、生まれ変わった彼女をひと目見ようと奮闘している。
しかしそれらの全てに目を閉ざし、ただ黙って、無機質な仮面のような表情のアシスタントの持つ化粧道具が、肌の上を這うのに任せている。
……しばらくして、小夜子は今回の主役になる。
黒のサテンのドレス。
胸元に、灰色のバラ。
目元には青いアイシャドウ。
アップにした髪は複雑に編み込まれているが、均整が取れていた。
立ち上がると、入り口の近くに先生が居た。
彼女はこちらを見て、どこか困ったような笑顔をしていた。
そんな顔をしないで。もっと笑ってよ。
そんなことはとても言えなかった。
「きれいよ」
先生はそう言った。
小夜子は頷いて、彼女を伴いながら控室を出た。
◇
麦のざわめく基地の敷地の外側。
フェンスを隔てたアスファルトに、沢山の人々が集っていた。
下層の人々。
お仕着せの防寒具を着込んで、互いに身を寄せ合いながら、白い息を吐いて空を見上げる。
粉雪は振り続けていて、彼らの鼻や頬を赤くした後、溶けて消える。
多くは犬を連れていた。耳の垂れた大型犬だ。
職種によっては、貴重な共同労働者なのだ。
彼らもまた息を吐きながら灰色の空を見つめている……。
その時、茶色の枯れ枝のような電柱に、フェンスの縁にとまっていたカラスの群れが、一斉に飛び立った。
ざわざわという音とともに、その黒い羽が皆の視界の上部を覆って、ひとつの雲を創り出すかのようだった。
……誰かが一人、あっという声を上げて、フェンスの内側の敷地を指差した。
皆が一斉に、そちらを見た。
基地の大型格納庫のゲートが今まさに、鈍重な音を立てて開いていた。
内部の闇が拡散し、外に広がる。
そして、その内側から、『彼ら』があらわれる。
禿頭に一生消えない刻印。戦いに短い命を費やす者達。英雄。
その身体は担架のようなものに横たえられた上で運ばれていた。
腕は胸の前で組まれ、目を瞑っていた。
黒い貫頭衣の上にかぶさるようにして、全身をプラチューブで覆った奇妙な防護服が着せられており、さらにその上を拘束ベルトが覆っていた。
彼らを運ぶのは、顔の前面を黒いベールで覆い、裾を尻尾のように垂らしたドレスを着た者達だった。
性別も容姿も、普通の人間であるかも定かではない者達。
フェンスの外に居る人々にとっても周知されていた。
影となって、兵士に仕える者達。
運ばれていく彼らはやがて、基地の広大な敷地全体に対して、俯瞰で升目のような配置に広がり、それぞれ停止する。
停止する……一斉に。
整然と、均整の取れた立ち位置。
どこからか、あるいはスピーカーを通して、その声が大音量で聞こえてくるのはちょうどその時だ。
基地だけではなくフェンスの外側にいる人々に、国中の人々に広がっていく。
誰もが背筋を伸ばし、魅入られたように、その声に耳を傾ける。
繰り返される皇国のテーゼ。
染み渡っていく、染み渡っていく。
皇国の勝利のために。
蛮国のおそろしく、醜悪な怪物たちへの恐怖と憎悪を想う。
彼らに立ち向かうため、若い命が空を舞う……。
そのメッセージの拡散と同時に、定位置で停止した『彼ら』の目の前の空間に、ゆっくりと規則ただしい亀裂が走り、地下の空間からまっすぐに、地上に向けてせり出してくる。
気付いた人々があっと声を上げ、歓声を上げる。
黒檀の鞘。彼らの翼――翔機。
垂直に、大地に根を張って屹立するように、地下から運ばれてきた。
四枚の羽は、今は機体の側面に収納されており、まさに、いくつものモノリスが敷地内に展開したように見えた。
影たちは、担架を運ぶ。
すると、翔機の内側の部分がやわらかな肉のように裂けて、内部に彼らを誘導する。
運ばれた彼らは一斉に担架からその身を外される。
同時に目を覚まし、一瞬で興奮状態を励起させられる。
影達はにわかに身震いしはじめたその若い兵士たちを支え、鞘の子宮の内側へ、内側へ押し込んでいく。
コクピットは機体の先端に背を向けるかたちで備わっており、飛翔し、横倒しになっているときにはまさに人間の胎内のように膝を抱えて頭部を下にしてうずくまる状態になるのだ。
押し込まれ、影たちの手助けを借りながらケーブルが頭部に差し込まれていく。
同時に、現実の一枚上にあらたな現実が広がり、彼らは機体の内側に居ながら、外の光景をその視界に捉え始める。
それら全てが終了すると、ゆっくりと再び、黒檀の肚は閉じられていく。
そんな高揚の中にあって、レイもまた同様に、鋼鉄の子宮の中に包み込まれていた。
しかし、彼はまだ冷静だった、何かを逡巡する余裕があった……音楽が聞こえるまでは。
膝を抱えて、頭に一瞬異物感と痛みを感じた後、内部を満たす透明な溶液のなまぬるさを浴びたあと、機体と同化した視界で両端を見渡す。
そこには彼らが居る。仲間たちが居る。熱狂している。
これから空を飛ぶことへの。あの憎い敵を、怪物たちを滅ぼすことへの。
しかし、レイは違った。
彼は、戸惑いと疑問を隠せないままだった。そこには思いがあった。
――小夜子の演奏にのって戦うのは、気持ちがいい。
――それだけでいいはずなのに、自分は知っている。
――その裏側にあるもの、戦いの残酷さを知っている。
――自分は、あの同胞たちのような純粋な思いだけで戦うことは出来ない。
――自分は、小夜子のことが好きだ。今日の朝、あらためてそれを確認した。
――小夜子のことを、小夜子のいる世界を守りたい。
――だから戦いたい。生きる気力を与えてやりたい。
――しかし、何もかもを諦めてしまっている彼女に対して、何が出来るというのだろう。
――それは自分も同じで、自分の末路は決まっている。
――試作品として成果が出せなければ処分されて、制式に採用されれば空を飛び続け、やがては、墜ちる。その後は。
――その後、彼女を誰が守るのか。きっと、誰かが。
――しかし、そこに自分は居ない。
フェンスの外側では人々が兵士たちに激励の声を上げる。
彼らは手に持った小さな旗を懸命に掲げ、振り回す。
皇国のあかし。日の丸を背景に、稲穂と鍬が交差している模様。
雪と一緒に舞っているのは、彼らがその場に持ち込んだ紙吹雪だ。
これより空に向かう若者たちを祝福するように、寒空を色づけている。
犬たちが吠え立てる。カラスが空を飛ぶ。
垂直に空を向いた翔機の尻尾が、ゆっくりとリング状に点火する。
熱気が広がり蜃気楼を巻き起こす。
黒い影たちは引き下がっていき、胸の前で腕を組んで、祈りの姿勢をとる。
袋小路が見えているのに、あがくことをやめることさえ出来ない自分を恨む。
教えてくれ、小夜子。俺は、どうすればいい。
……だが、誰も答えてはくれない。宙吊りのまま、がくん、と音がした。
まもなく黒檀の鞘は風を巻き上げて、人々の衣服を、麦畑をはためかせながら、それぞれ空へと垂直に飛翔した。
青い燐光が轍のように広がって消えて、風が収まり始めた頃にはすでに。
『彼ら』は灰色の冬空に、まっすぐに立ち上っていた……十、十五。
まるで、天使のように。
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