八、勝利のためにできること

「いのりちゃん、真剣にがんばってるねえ」

 夕食後、リビングで本を片手に一人で将棋を指しているわたしに、お母さんがテレビを見ながら話しかけてきました。

「これまでやって、自分の部屋でこっそりこんな感じで指しとったんやで。もう隠す必要あらへんから堂々とやってるだけで。……お母さんも指してみる?」

「ええわ。お母さん全然わからへんもん」

 心から興味がなさそうにお母さんが答えます。残念。わかってはいましたけどね。

 サボりの一件でこっぴどく怒られはしたものの、お母さんはわたしが家で将棋を指すこと自体は許してくれています。将棋&PK戦のことも説明すると、あきれながらも当日見に来ることを約束してくれました。

「どれだけ本気なのかは見せてくれんとね。お母さんも納得できへんからね」

 軽く挑発するような言い方だったので少しムッとしましたが、それも仕方ないです。あとは、わたしのがんばりしだいでしょう。

「でも、いのりちゃんがそこまで将棋にはまるとは思わへんかったなあ。二〇年以上の付き合いやから、お父さんが将棋好きなのは知っとったけど、お母さんにもいのりちゃんにも積極的に将棋の話をしてこんかったしねえ。まったく知識なかったわ、お母さんは」

 わたしが再び盤に集中しようとするとお母さんがまた話しかけてきたので、わたしはそちらを見ずに適当に返事をしました。

「やっぱりそういうものなんやろか、女の人は」

「普通はそうちゃう? 斯波さんの顔と名前くらいは知ってたけどね」

 わたしの場合は斯波さんすら知らなかったんだから、お母さん以下だったんでしょうか。今では、そのすごさが多少は理解できますけどね。

「ああ、あともう一人、あの子は覚えたで。この間いのりちゃんを送ってきてくれた子」

 わたしは反射的に顔をお母さんに向けて、

「浅倉さんのお兄さん?」

「そうそう。あの子はええ子やなあ。かっこええし、しっかりしてるし。その辺の高校生やない、というのはわかったで」

 お母さんがほめてくるので、わたしはなんだかうれしくなり、

「そうやろ? でもそれだけちゃうからね。あの人はあの歳でプロになるだけあって、めっちゃ将来期待されてるからね。二〇歳になるころにはタイトル取るんちゃうかって言われてるんやで! いずれ将棋界はあの人を中心に回るようになっていくで!」

 そこまで一気にまくし立ててから、お母さんがわたしを見てニコニコしていることに気が付きました。

「いのりちゃん、あの子のことえらい楽しそうにしゃべるねえ」

「…………自分の部屋で指す! お母さんがおったらやっぱり集中できんから!」

 顔が赤くなるのを感じながら、わたしは本と将棋盤を持って立ち上がりました。お母さんのホホホ、という笑い声を聞きながら、部屋へ向かいます。

 集中や、集中!


 集中して見ていようとしたのですが、

「ひぃっ!」

 ものすごい速さでサッカーボールが飛んでくるものだから、わたしは情けない声をあげて逆方向へ避けてしまいました。ボールはそのままゴールネットに突き刺さります。

「ちょっとちょっと、よけちゃだめだよ浅井さん! 心配しなくても当てないから! 怖がらずに立ってるだけでいいから!」

 ジャージ姿の赤尾先生が大声で言ってきますが、

「すいません、怖いものは怖いです!」

 みじめな言葉を返すことしかできませんでした。

 放課後、赤尾先生がいそがしい中で時間を取ってくれて、PK戦に向けてわたしを特訓してくれています。まずは何よりも相手のシュートを怖がらないようにするために、ゴール中央にわたしを立たせて、赤尾先生がひたすらボールを蹴る、という練習です。

 サッカーの練習と言うには、レベルが低いんやろなあ……。

「朝井さん、ボールは友達! 怖くないよ!」

 赤尾先生が、どこかで聞いたことのあるセリフでわたしをはげましてきます。それにしては、先生は友達を思いきり蹴り飛ばしていますけど……。

 赤尾先生が女子サッカーをやっていたのはどうやら本当らしく、素人目にもそのキックが強烈なのがわかります。

 しばらくは力を抜いたキックでわたしを慣れさせてくれたうえで、そろそろ本気で蹴ってみるということになったんですが……想像以上のスピードでした。

「だいじょうぶだって! 上下にジャージを着てるし、キーパーグローブだってしてるでしょ。ちょっと当たったくらいじゃ、痛くない痛くない」

「……顔はどうなんですか?」

「ああ、顔はすごく痛いよ」

「やっぱり痛いんじゃないですかー!」

「ええい、つべこべぬかすなー!」

 赤尾先生はそう叫ぶと、足元にずらりと並べたサッカーボールを次々と蹴りこんできます。わたしの「ギャー!」「イヤー!」という叫び声が、夕方の校庭に響きました……。

 シュートの嵐が終わると、わたしはその場にへたりこんでしまいました。ゴールの奥には、一〇個以上のボールがごろごろ転がっています。

 これじゃあかんのや。ボールがゴールに入るのを止めへんと。一本止めるだけで、ぐっと勝利に近付くんやから……。

「お疲れさん」

 赤尾先生がゴール前まで来て、地面に座りこむわたしに声をかけてきます。

「まあ、今日はこれで良いんじゃないかな。ゴールから逃げ出さなかっただけでも上出来だよ。慣れればいいんだ、慣れれば」

「そういうものでしょうか」

 わたしはそう答えながら、赤尾先生が汗をかいているのに気が付きました。蹴るだけとは言っても、あれだけ連続だと大変なんでしょう。

「……先生は、なんでわたしに協力してくれるんですか」

「なに、突然」

「いえ、ほかのお仕事もあるのにって思って……ちょっと申し訳なくて」

 自分からたのんでおいてなんですが、ふしぎに思ったんです。担任だからって、そこまでつきあってくれるものでしょうか。

「そうねえ。単純に朝井さんの企画が楽しそうだからっていうのもあるけど」

 赤尾先生はそこまで言うと地面に腰を下ろし、わたしに目線の高さを合わせてくれました。

「先生がサッカーやってたころは、女子の日本代表がワールドカップで優勝するずっと前でね。今よりもっともっとマイナーだったよ、女子サッカー。女の子がサッカーなんか、ってずっと言われてきた」

「へえ……」

「でも、やめなかった。好きだったからね、サッカー。朝井さんも将棋好きなんでしょ」

「はい」

 それは胸を張って言えます。先生はわたしを見て「うん」と笑顔でうなずくと、

「だから、応援したいのかもね。周りになんと言われようと、やりたいことをやればいいのさ」

 この人が担任で良かった、と思いました。


 PK戦については、守りだけじゃなくキックの練習もしないといけません。そちらは基本的な蹴り方さえ赤尾先生に教えてもらえば、ある程度はわたし一人でも練習できるとして……。

 将棋のほうは、はたして今のままでいいんでしょうか。本やインターネットでの自習と、仕事から帰ってきたお父さんと一日一局指しているだけです。

 戦いの日まで、一〇日と少し。せっかく四間飛車という指し方を覚えたわけですから、今さら別の指し方を勉強するよりは、ひたすら四間飛車で指して地力をつけようとしていますが……。

 それで斎藤くんに、いや、その背後にいる浅倉さんに勝てるんやろか?

 浅倉さんは居飛車も振り飛車も指しこなせると言っていました。どんな戦法を斎藤くんに教えこむのやら。なんせ浅倉さんはわたしの戦い方を知りつくしているわけですから、対策は立て放題。斎藤くんがきっちりと指し方を覚えてくれば、かなりきびしい戦いになるかもしれません。だんだん心配になってきました。

 ああ、斎藤くんがアホやったらええのになあ……。

 そんな失礼なことを考えながら、お手洗いに行くために学校の廊下を歩いていると、突然目の前の教室の戸が、バァン! とものすごい勢いで開きました。

 びっくりしてそちらを見ると、立っていたのはスカートをはいた浅倉さんです。そうか、六年二組の教室だったんですね。

 浅倉さんもわたしと同じくおどろいた顔をしていましたが、「や、やあ」と言って手をあげました。

「ど、どうも」

 わたしの返事を聞いているのかいないのか、浅倉さんは背後を振り返るとあわてたように、

「朝井さん、またね!」

 と言って、教室から走って出て行きました。

「浅倉さん、なにをそんなに急いで……」

「浅倉さん、待って! 試着くらいしてくれてもいいじゃない!」

 わたしの声は、次に教室から出てきた魚住先生の大声にかき消されました。その手には白いドレスを持っています。この間言っていた通り、中等部の演劇部から借りてきたものでしょうか。

「絶対似合うから! だまされたと思って、一度だけでも!」

 そんなことを叫びながら、魚住先生は廊下の先を行く浅倉さんを追いかけて走っていきました。あ、教頭先生に見つかって怒られています。そりゃ先生が廊下を走ったらまずいですよね……。

「浅倉は、魚住先生に衣装を着せられそうになったから逃げ出したんだ」

 ぽかんとしていたわたしに話しかけてきたのは、斎藤くんでした。

「あれ、斎藤くんがなんで二組から出てくるの……って、そうか。浅倉さんに将棋を教えてもらっていたんですね」

「そういうこと」

「いいなあ。うらやましいなあ」

「朝井が勝負を持ちかけてきたんだろうが」

「そうなんですけど……」

 斎藤くんの表情がかなり楽しそうに見えました。浅倉さんと向き合って指導されるって、彼にしたら天国なんでしょうねえ、このやろう。

「浅倉のおかげで、ちょっとは強くなった気がするよ。戦い方もわかってきたし」

「ほうほう、具体的にはどんな戦法を教えてもらったんですか?」

「それは……って、言うわけないだろ! その手には乗らないからな!」

「やっぱり?」

 誘導尋問は失敗です。どんな指し方をしてくるかわかれば、こちらも対策が立てられたんですけど。

「油断も隙もないやつだな。……浅倉もおれも、本気で勝ちに行ってるからな。絶対秘密だ」

 本気で、勝ちに。その言葉がなんだかわたしの心に残りました。


 その日の夜、お父さんと対局して負けた後、駒を片付けながら相談してみました。

「浅倉さんも斎藤くんも、勝負事に手を抜く子じゃないんよ。きっと、全力でわたしを倒しにくる。それはわたしやって同じやけど……このまま当日まで普通に四間飛車の勉強を続けるだけでええんやろか。なんか作戦とかないんやろか?」

「そんな都合のええもんあらへんやろ。プロの棋士は対局前に相手を研究したりするんやけどな。今の祈理にそんな余裕はあらへんで。どうせ四間飛車しか指せんし、お父さんにも全然勝てへんのやから」

「うっ」

 お父さんがきびしい言葉をかけてきます。だけど、事実です。

 お父さんと何度か平手で指したんですが、さすがは棋士を目指そうと考えていただけのことはあります。まったく歯が立ちません。一〇年以上まともに指してなかったというのに……。

「だいたい祈理は、指してても自分のことしか考えてない感じがするんやな。初心者にありがちなことやけど」

「自分のことしか……って、どういうこと? どう駒を動かすか、考えなあかんやん」

 お父さんは笑って、

「あのな、将棋は相手がおるんや。自分の思い通りに進むことなんてほぼあらへん。だから、相手の立場になって考えなあかんのや。相手は何を考えてこんな手を指してきたのか、相手なら自分を倒すためにこれからどう指してくるか、ってな。そこまで読んだうえで、自分の指す手を決めなあかん。将棋の基本やで。……いや、将棋に限ったことやないかもな」

「相手の立場になって考える……」

 浅倉さんなら、わたし以上の初心者である斎藤くんを使ってわたしに勝つために、どうするか。勝つために常にベストをつくす浅倉さんなら……。

 頭の奥で、何かがひらめいた気がしました。同時に、わたしが取るべき手段もなんとなく浮かんできます。

 浅倉さんが取ってくる選択が予想通りだったとして、それを超えるためには……?

「お父さん、教えてもらいたいんやけど!」

 わたしはそう言って椅子から立ち上がりましたが、

「お、なんやなんや」

 おどろいているお父さんの顔を見て、考え直しました。

 わたしがなんとなく思いついた作戦について、お父さんに聞けば参考になることを教えてくれるかもしれません。

 でも、それでいいんでしょうか?

 ここまで、いろんな人に助けられたり迷惑をかけたりしてきました。合同ホームルーム当日も、クラスメイトはじめ多くの人に手伝ってもらうことになります。

 だったら、将棋ぐらいは……自分がやりたいことくらいは、ね。

「やっぱり、ええわ! 自分で調べて、自分で作戦を立てる!」

「なんやそれ! ……まあ、ええわ。それも大事なことやろ。がんばりや、祈理」

 お父さんは軽くコケた後で、やさしく言ってくれました。


 戦いの日は、あと一二日に迫っていました。

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