六、投了にはまだ早い
浅倉さんたちと別れてお父さんといっしょに家に帰ったわたしを待っていたのは、お母さんのような顔をした鬼でした。まちがえました。鬼のような顔をしたお母さんでした。
「いのりちゃん? さっきバレエの先生が電話くれたんやけど、今日レッスン行ってへんの? しかも、お母さんが『いのりちゃんが風邪ひいたんでお休みする』って先生に電話したことになっとるんやけど、お母さんそんなことしてへん。どういうことかな、これ?」
笑とるで……笑いながら怒っとるで……。
すでにお母さんへ連絡が行っているとは誤算でした。
「ごめんなさい。ウソついてバレエをサボりました! 今日だけやなくて四月にも一度!」
わたしはおびえつつ、お母さんにジャンピング土下座をしてから顔を上げ、
「でも、これにはわけが……」
「どんなわけがあっても、ウソついてサボるなんてやったらあかんことやろがい! ウソつく前に相談してくれれば、お母さんやって考えたかもしれへん。けど、いのりちゃんはそれをめんどうがったのか、怒られるのが怖かったのかしらんけど、ウソついてサボった。人としてずるいんや! そのやり方が気に食わんのや、お母さんは!」
「ご、ごめんなさい……」
お母さんが正しすぎて、何も言い返せません。あやまるしかない……。
「まあまあ一美ちゃん、祈理の話をもう少し聞いてやっても……」
お父さん!
「まーくんはだまっとって!」
「はい」
お父さん……。
この後、わたしは小一時間ほどお母さんのお説教を受けることになったのでした。
「それで、どうなったの」
翌日の月曜日、昼休み。わたしはスカートをはいて一組の教室に来てくれた浅倉さんを連れ出し、中庭にあるベンチに並んで座っていました。さすがに今日は将棋を指す気になりません。人がいないところで浅倉さんに話を聞いてほしかったのです。
「最終的にはお母さんも話を聞いてくれましたし、学校で浅倉さんと指したり、家でお父さんと指すのは自由にしたらいいって言ってくれました。でも、道場に通うのはだめだって……」
わたしはため息をつきました。
「お母さん、女の子が将棋を指すということが全然ピンとこないみたいなんです。そんなのやってなんになるのって。お金払ってまで習うものじゃないって」
「そう……」
「ちょっとは言い返したんですけど、バレエをサボった手前、あまり強く抵抗もできなくて……。道場へ行くの、無理なんでしょうか。中等部に上がれば将棋部はあるみたいですから、それまで一年間がまんするしかないのかな。浅倉さん、どう思います?」
わたしがとなりに座る浅倉さんに問いかけると、彼女は不意に立ち上がり、
「朝井さん、親に反対されてるなら、もう将棋なんてやめちゃいなよ」
…………え? まったく予想外の言葉にわたしはとまどいました。
「浅倉さん、なに言って……」
「将棋なんて女の子が指してても、なにもいいことないよ。あたしも、もうやめようかなって思ってる。この半年くらい、ずっと悩んでた。朝井さんのことがいいきっかけになるかもしれない。いっしょに将棋やめてさ、普通の友達になろうよ」
え? ええ? 浅倉さんはこちらを見ずに話しています。わたしはあわてて立ち上がり、
「なに言ってるんですか。わたしは浅倉さんがいるから将棋に出会って」
「疲れたんだよ」
彼女はわたしの言葉をさえぎりました。
「もう、疲れたんだ。おじいちゃんにあこがれて、幼稚園のころから指し続けてきた。同じようにおじいちゃんを目指してがんばっているお兄ちゃんのまねをすれば、届くって思ってた」
浅倉さんは、下を向いたままで話を続けます。
「けど、おじいちゃんは死んじゃった。病室で、斯波さんから名人の座を取り返したいってうわごとみたいに言ってた。プロになったお兄ちゃんにはそれができるかもしれない。けど、あたしには無理。お兄ちゃんどころか、同い年の女の子にさえ全然届かないんだから」
宇佐美さんのことでしょうか。
「自分なりにせいいっぱい走ってきたつもりなんだけど、前にいる人たちの背中が遠いんだ。追いつける気がしない。だったら、ちがう道を探すのもいいかなって。朝井さんのお父さんの話を聞いて、そう思った」
「浅倉さん……」
ちゃんと聞いたことはありませんでしたけど、これではっきりわかりました。浅倉さんは、やっぱり棋士になりたいんです。でも、それをあきらめかけている。
そんな彼女に、わたしは……なにが言えるんでしょう。将棋やめないで。これからもわたしに教えて。きっとプロになれるよ。そんなこと、無責任に言ってええんやろか?
ルールを覚えて一か月のわたしに、ずっとずっとがんばってきた浅倉さんに対してそんなことを言う資格あるんやろか……?
「昼休み終わっちゃうね、教室戻ろうか」
わざとらしく元気にそう言って、浅倉さんは歩き出しました。
「はい……」
わたしは彼女の後ろをついていきました。教室へ戻るまで、会話はありませんでした。
午後の授業はずっと上の空でした。放課後、わたしは学校を出ていつも通り駅に向かいましたが、まっすぐ家に帰ろうという気にはどうしてもなりません。ふと思い立って千駄ヶ谷へ向かう電車に乗りました。
なにかはっきりとした目的があったわけではありません。ただなんとなく、将棋会館を見ておきたかったんです。
昨日の朝に浅倉さんと歩いた道をたどり、将棋会館の前にやってきました。道の上で立ち止まって顔を上げると、二階の道場の様子が見えます。
もう夕方だからか、学校帰りの子どもが多いです。わたしより小さな子たちが、真剣な表情で将棋を指しています。
そして、四階と五階は対局室になっているそうです。外からは様子がわかりませんが、そこでは棋士や女流棋士、それからプロを目指す人たちがしのぎを削っているはずです。
もしかしたらわたしも、ここへ通っている子みたいに将棋を指していた可能性があったんかな。それで棋士になったりする未来もありえたんかな? もっと早く、将棋と出会っていれば。
ちがう、とっくに将棋とは出会ってた。お父さんが将棋を好きなことはなんとなくわかっていたのに、わたしが興味を持たなかっただけ。お店の手伝いなんかせずお父さんに将棋を教えてもらってたら、変わってたんかな。
それでも将棋を始めることになったのは、浅倉さんと出会ったからや。浅倉さんと仲良くなりたくて、それから将棋に興味を持って……。
やっぱりわたしはもっともっと、将棋がやりたい。
でも、当の浅倉さんが将棋をやる気を失ってしまってる。家ではお母さんに反対される。
なんでうまくいかんのや。やりたいことをやるってことが、なんでこんなにむずかしいんや……。
しばらく将棋会館の前で立ちつくしてそんなことを考えていました。でも、ずっとここにいても仕方がありません。
ずいぶん暗くなってきましたし、帰りましょう。結局は、家に帰るしかありません。帰って、お母さんに将棋はもういいって言おうかな……。
足取りの重さを感じながら、駅へ向かって歩き始めたときでした。
「朝井さん!」
背後から聞こえた男の人の声に振り返ると、浅倉さんのお兄さんが立っていました。スーツ姿で、ぜえぜえと肩で息をしています。急いで走ってきたようでした。
「お兄さん! ど、どうしたんですか」
「朝井さんを見かけて、思いきり、走って、きたから……。ああ、疲れた」
苦しいのか、セリフがとぎれとぎれです。
「どうしてそんな……」
「そりゃ、朝井さんが将棋会館を見上げて泣きそうな顔してるのを見かけたら、放っておけないでしょう」
そんな顔してたんか、わたし。
「なにかあったの?」
「わたし、わたしは……」
うまく言葉にすることができなくて、どうしていいかわからなくて、気が付くとわたしはお兄さんに抱きついて泣いていました。
「落ち着いた?」
「はい。すみませんでした……」
わたしとお兄さんは、近くにある神社のベンチで並んで座っています。
ここまでの道すがら、しゃくりあげながら事情を説明するわたしの言葉を、お兄さんはうんうんうなずいて聞いてくれました。
ああもう、涙と鼻水が止まって冷静になってくると、死ぬほどはずかしい……。男の人に抱きつくわ泣き出すわスーツを汚すわ……。
「本当にごめんなさい。ご迷惑おかけしました」
「いいからいいから。気にしないで」
お兄さんは笑って言ってくれました。
後から聞いた話ですが、お友達の棋士にこの様子をばっちり見られていて、相当からかわれたらしいです。本当に申し訳ない。
「しかし、晶がそんなことをね……。去年、女流棋士としてデビューする直前の宇佐美さんに大会でこてんぱんにやられたのはぼくも知ってたけどね。ぼくが思っている以上に晶にとってはショックだったのかもしれない」
お兄さんは淡々とした調子で言いました。
「確かにここ最近は伸び悩んでいるんだ、晶は。宇佐美さんに負けて、その宇佐美さんが史上最年少で女流になって、ぼくもプロになった。そしておじいちゃんが亡くなった。お葬式のときに『お兄ちゃんはプロになった姿をおじいちゃんに見せることができたけど、あたしはできなかった』って悲しそうに言ってた。いろんなことが積み重なって、将棋をやめようと思ったのかもしれない。晶にとっては、プロを目指すのをやめたら将棋を指す意味もないんだろう」
「……お兄さんは、浅倉さんに将棋を続けてほしくないんですか」
「もちろん続けてほしいよ。妹がぼくと同じ道を進んでくれれば、うれしいさ。でも晶が言ってたとおり、別の道を行ったほうが良いかもしれない、とも思う。この道の先は、はてしないから」
苦しいとかきびしいではなく、はてしない。プロであるお兄さんだからこその言葉なんでしょうか。
そう言われてみると、わたしなんかよりずっと強い浅倉さんが絶望するほど宇佐美さんは強いわけで。その宇佐美さんよりお兄さんのほうがきっと強くて、亡くなったおじいさんはもっと強くて、さらにおじいさんから名人の座をうばった斯波さんがトップにいて、その斯波さんだって負けることはあるわけで……。
確かに、はてしないかもしれません。
「朝井さんはどうなの。きみは晶に将棋をやめないでほしいって思ってる?」
お兄さんがわたしの目を見てたずねてきました。
「もちろんです。わたし、浅倉さんともっと将棋がしたいです。でも……」
わたしは目をそらして、
「浅倉さんがやめるって言ってて、わたしのお母さんは道場に通うことを許してくれなくて。こんな状況だと、わたしのほうも将棋を続けるの無理かもって、思ってます……」
だんだん声が小さくなっていくのが自分でもわかります。わたしはしぼり出すように、
「将棋やりたいのに、できない。認めたくないけど、詰んでるんだと思います」
「そうかな。詰んでないと思うけど」
「えっ?」
あんまりあっさりと言ってくれるので、わたしはお兄さんの顔をまじまじと見つめました。
「敗勢だとは思うけど、投了には早い。まだ逆転の手があるような気がするんだよね」
「ど、どうやって」
「それは自分で考えなよ。頭がいいんだから」
お兄さんはいじわるに笑いました。今そんなほめ方をされてもうれしくありません。
「きみはお店の手伝いをしていたからなのか、状況を的確に判断して、すばやく決断する能力が高いみたいだね。その分、あきらめも早いように思える。でもね、祈理ちゃん」
お兄さんはぽん、とわたしの頭に手を置きました。
「頭ってのは、やりたいことをあきらめるために使うものじゃない。やりたいことを実現するために使わなきゃ」
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