五、お父さんは振り飛車党

「ぼくはホルモン丼大盛り」とお兄さん。

「石焼ビビンバで」と浅倉さん。

「じゃあ、わたしはハラミ丼。見事にみんなバラバラですね」

 ここは『三つ盛屋』です。どこにお昼を食べに行くか、という話になったとき、せっかくだからわたしのお父さんのお店に行こうということになったのです。東京にある七店舗のうち、千駄ヶ谷からいちばん近い新宿店に来ています。

 十二時より前に着いたのでわりと店内は空いていますが、わたしたちが注文を済ませると、だんだんとお客さんがふえてきました。

「なかなか繁盛してるみたいだね。いやあ、それにしても古い本だねえ。おじいちゃん、若い!」

 わたしが持ってきた鳥居先生の本を手に取り、お兄さんはにこやかに言いました。

「三〇年前となると、おじいちゃんが名人だったころだね。朝井さんのお父さんがちょうど今の朝井さんと同じくらいの歳なんじゃないかな。その頃の本を今でも大事に取っているということは、とても将棋が好きなんだと思うよ、お父さん。お父さんと将棋の話はしないの?」

「全然しないんです。大阪にいたころ、たまにお父さんがテレビで将棋を見ていた気もしますけど。そのころはわたしが将棋に興味ありませんでしたし」

「今は? 晶と出会って将棋を始めたのだったら、話題にしないの?」

 どこまで話したものでしょうか。わたしは少し悩んで、向かいの席に座るお兄さんを見ました。お兄さんはやさしい目でまっすぐこちらを見ています。全部お見通しという雰囲気。そんなはずはないんですけど、棋士という肩書からそう感じてしまうんでしょうか。

 もう、ここは中途半端に隠しても仕方がない気がします。よし、全部言うたろ!

 食事をしながら、わたしは浅倉さんとお兄さんに自分の身の上を包み隠さず話しました。

 『三つ盛屋』が大阪の焼肉屋から外食チェーンになって東京に進出したこと。

 おかげでわたしも東京に引っ越してきたこと。

 お母さんがわたしをお嬢様っぽくしようとしていること。

 将棋のためにバレエをさぼってしまったこと。

 それもあって、両親に将棋を始めた話をできていないこと、などなど。

 わたしが話を終えるのと、全員が食べ終わるのがほぼ同時でした。

「ごちそうさま。おいしかったね! ……しかし、なるほどねえ。いろいろあるもんだね」

 口元を紙ナプキンでふきながら、お兄さんが言いました。

「あたし、朝井さんのことを全然知らなかったんだってわかった。将棋の話ばっかりしてたからかな。……なんだか、ごめんね」

 となりに座る浅倉さんがあやまってきたので、わたしはあわててしまいました。

「そんな! なんであやまるんですか。わたしが自分の話をしなさすぎました。バレエをサボったことを言いにくくて……」

「まあ、サボるのは良くないことだよね」

「ううっ」

 お兄さんが冷静に言うので、今さらながら罪悪感で胸が痛くなってきました。

「大事なのは、なぜサボったか、そしてこれから朝井さんがどうしたいかということだよ」

「どうしたいか……」

「朝井さん自身の気持ちと、ちゃんと向き合ってみるといいんじゃないかな」

 わたし自身の気持ち。と、言われましても、すぐには答えが出てきません。浅倉さんの意見を聞こうと、彼女の方を向きました。

 ……なんだか、浅倉さんが深刻な表情です。そういえば将棋会館で宇佐美さんと会った後から、なんとなく元気がありません。

「ねえ、朝井さん。さっきからずっと聞きたかったことがあるんだけど……」

「な、なんでしょう」

浅倉さんがこちらを見てきたので、わたしは身構えました。

「この店、トイレってどこかな」


 お手洗いに行くため浅倉さんが席を立ったので、その場にはわたしとお兄さんが残されました。

「晶は妙なところで恥ずかしがり屋なんだよね、昔から。友達にトイレ行きたいって言い出せなくて、ぎりぎりまでがまんしてたんじゃないかな」

「あはは……」

 元気がなかったのはがまんしてたからか……。本当にそれだけでしょうか?

 それにしても、浅倉さんが戻って来るまでお兄さんと二人きりになると緊張してしまいます。沈黙が続いても気まずいし、なにか話題、話題。

 共通の話題となると、将棋か浅倉さんのことしかないかな……。と、わたしが考えていると、お兄さんの方から話しかけてくれました。

「朝井さん、ありがとう。晶と将棋を指してくれて」

 そう言ってきれいに頭を下げてくるので、わたしはあたふたしました。

「えっ! い、いきなりなにをおっしゃってるんです!」

「晶は昔から友達が少なくてさ。やっぱり将棋を指す女の子ってあまりいなくて。そして数少ない将棋を指す女の子は、どうしても晶の中では友達というよりライバルという位置づけになってしまうようなんだ。でも、朝井さんが現れた」

 顔を上げたお兄さんがゆっくり話してくれます。

「将棋のことをわかってくれて、ライバルというより弟子に近い、同年代の女の子の友達ができたって、うれしそうにぼくに話してくれるからさ。兄としても一言お礼を言いたくて、朝井さんに会わせてもらうよう頼んだんだ」

「そうだったんですか……」

「朝井さん、これからも晶のことをよろしくお願いします」

 再びお兄さんが頭を下げてきます。浅倉さんがいるところでは言い出しにくいから、タイミングをうかがっていたのかもしれません。わたしは笑って、

「お兄さん、お願いしたいのはこっちですよ。これからも将棋を教えてもらうんですから」

「ははは、それもそうか」

 お兄さんも笑います。

 なんだ、プロ棋士っていっても普通のお兄さんじゃないですか。

「浅倉さんたちのおじいさん……鳥居先生が、わたしと浅倉さんたちを出会わせてくれたんですね。なんだか、ふしぎです」

「おじいちゃんだけじゃないよ。朝井さんのお父さんが、おじいちゃんの本を大事に取っておいてくれたからじゃないかな」

 そう言われれば、そうかもしれません。お父さんに感謝しないと。将棋のこともいい加減に言わないと……。

 そのとき、わたしの視界に見なれた顔が映りこんできました。

 な、なんで今ここにいるんや……! 

 わたしはその人に気付かれないよう、そっと顔をふせました。

「何やってるの、朝井さん」

 わたしの動きを不審に思ったお兄さんが言いました。

「……レジの前に、書類を見ながら店員さんと話しているスーツの男の人がいるじゃないですか」

「ああ、いるね」

「あれ、わたしのお父さんなんです」

「えっ!」

「たぶん、店の様子を見に来たんだと思います。一応社長ですし」

「そうか、なるほど。……で、なんで顔を隠してるの」

 わたしが小声で話すので、お兄さんもつられて小声になっています。

「バレエをサボってることがばれちゃいます!」

 幸い、今のところお父さんはこちらに気が付いていません。やり過ごすしかない!

「そんなにこそこそしなくてもいいと思うけどなあ」

 お兄さんがそう言ったとき、ちょうど浅倉さんがお手洗いから戻ってきました。

「朝井さん、ごめんね。待たせちゃって」

 うわーっ! 名前を呼んだのが聞こえてたら……。

 わたしは人差し指を立てて、ジェスチャーで静かにするようお願いしました。が、浅倉さんはけげんな顔で、

「朝井さん、何やってるの?」

「朝井さん、どうする。晶がわかってくれてないよ、朝井祈理さん」

 この兄妹! 事情を知らない浅倉さんはともかく、お兄さんの方は明らかに面白がってるじゃないですか! さっきより声張ってるし、お父さんの方を向いてるし!

 案の定、お父さんはわたしに気が付いたようでした。びっくりした顔をして、こちらの席に近付いてきます。

「こんなところでなにしとるんや、祈理」

「いやあ、話せば長くなるんやけど……お友達とごはん食べに来ただけやで」

 わたしはおどおどしながら答えました。お父さんと目を合わせることができません。

「友達って……二人とも男子やないか! 君たち、すまないが祈理とはどういう……」

「お父さん! 浅倉さんは女の子や!」

「えっ? ご、ごめんな、きみ。申し訳ない」

「気にしないでください。なれていますから」

 浅倉さんはまったく動じずに言いました。かっこいい。

「ほんなら、そっちの君は? 祈理の同級生やないよね。見たところ高校生……あれ?」

 お兄さんに目を向けると、お父さんは考えこむような顔をしました。

「君、どこかで見たような……ん? さっき浅倉って……ひょっとして、浅倉四段?」

「はい、そうです」

 お兄さんは笑顔で言いました。お父さんは目を大きく開いて、

「去年、一五歳でプロになった? 鳥居先生のお孫さんの?」

「そうです」

「未来の名人の?」

「それはどうでしょう」

「なんで棋士の先生が祈理なんかといっしょにいはるんですかぁ!」

 お兄さんのことがわかったとたんに敬語を使うあたり、お父さんは棋士に敬意を持っているんだな、と思いました。


「そうか、祈理が将棋をねえ……」

 わたしから返された『ぐんぐん上達する! 鳥居式将棋』をぱらぱらとめくりながら、お父さんはなつかしそうに言いました。

 店内で社長とその娘があまり騒ぎ立てるわけにもいかず、わたしたちは店の奥にある店員用の休憩室で座っています。

 そして、わたしはお父さんに洗いざらい話すことになりました。もはや隠しようがありませんからね。お父さん相手に話をすると関西弁が出ちゃって、浅倉さんたちに聞かれるのはちょっと恥ずかしかったですが、やむなし!

「お父さんも将棋を指してたん?」

 全部話した後で、ずっと疑問に思っていたことをわたしがたずねると、

「ああ。本格的に指してたのは中学に上がる前くらいまでかな。けっこう強かったんやで。地元の大会で優勝したこともあるし。プロになれるんちゃうかって言われたこともあった」

「へえ!」

「それはすごいですね」

 わたしとお兄さんの反応を見て、お父さんはうれしそうです。

「当時名人やった鳥居先生にあこがれてなあ。この本、指導対局の後でサインをもらったんや。ほんまになつかしいわ。けど、プロにはなれんかった。というより、あきらめてもうたんや」

「どうしてなん?」

「京都の大会に出たときに、同い年の斯波さんと対局したんや」

「ああ……」

 浅倉さんの口からため息がもれました。

「それはもう、ひどい負け方や。自信が粉々になってもうた。こいつには一生かなわへんって思わされた。ものがちがうって。たとえプロになれたとしても、同世代にこいつがいる限り名人になることは不可能やってね」

「子どものころからそんなに強かったんですか、斯波さんは」

 浅倉さんが身を乗り出してお父さんにたずねます。お父さんはなんだか楽しそうに、

「強かったねえ。手も足も出んかった。ちなみにその年に斯波さんは小学生名人戦に優勝して、奨励会に入ったんや。わたしはと言えば、すぱっと棋士の夢をあきらめて、店を継いで大きくしようと思うようになった。将棋は趣味として続けてるけどね」

 そこまで話を聞いて、わたしはさっきから気になっていることをたずねました。

「はい、お父さん質問」

「なんや、祈理」

「斯波さんって、だれ?」

「将棋やっとって斯波さんを知らへんのかーい!」

 お父さんはそう叫ぶと、椅子からダイナミックに転げ落ちました。

「うわあ! 見た、晶? これが本場の椅子コケだ! 文枝師匠ばりの!」

 お兄さんがすごくうれしそうにしています。

「浅倉先生によろこんでいただけて光栄です」

 お父さんはそう言いながら起き上がると、

「祈理、斯波さんを知らんのはあかんぞ。斯波和臣かずおみ! 史上最年少で名人になって、一時期は七大タイトルをすべて制覇して、四〇歳になった今でも名人含めて三つのタイトルを持っとる、神様みたいな人やぞ!」

「将棋の指し方を覚えるのにせいいっぱいで、それ以外のことはよう知らんねん……」

 とにかく、プロ棋士のトップに立っている人だということはわかりました。

「まあ、ええわ。もうお父さんの話はええんや。祈理の話をしよう。祈理はどうしたいんや、これから。どれだけ本気で将棋やりたいんか。バレエをサボってしまって、どうするんや。お父さんに話してもらおうやないか」

 サボりを怒るわけでもなく、落ち着いた様子でお父さんが問いかけてきました。さっきお兄さんに言われたことでもあります。

 わたし自身の気持ち。わたしはどうしたいのか。目をとじて、考えてみました。

 最初は『浅倉さんと仲良くなる』『将棋を覚える』という二つの目的があったんでした。浅倉さんに将棋を教えてもらい始めたことでその二つを達成して、これからわたしのやりたいことは。

「もっと将棋やりたい。強くなりたい。浅倉さんと平手で指して勝てるくらい」

 大それたことを言うてもうた! 口に出してから、自分でもびっくりしました。

浅倉さんの顔を見ると、目を丸くしていました。でも、正直な気持ちなんです。

「せやったら今のままではだめやって、自分でもわかってる。浅倉さんと同じレベルに進めへん」

 そう言いながら、わたしは考えます。浅倉さんとの対局と本による独学では限界があります。道場に通わなければ、強くなれません。

 となると、お金のこともあるし、時間にも限りがある以上、少なくとも週三回通っているバレエのレッスンはやめる必要がありそうです。

 先生はとてもやさしい人ですし、見る分にはバレエってすてきだな、と思います。だけど自分がやるとなると別で、レッスンを楽しいと思ったことは全然ありません。運動神経もセンスも興味もないわたしにとっては、レッスンの時間は苦しいだけでした。

 もともとお母さんに言われるままに始めたわけですし、この辺が潮時なのかな、という気はします。

「お父さん、バレエ……やめさせてください。わたし、本格的に将棋やりたい。道場に通わせてください。おねがいします」

 わたしはお父さんの目をまっすぐ見て言いました。お父さんは大きく息を吐くと、

「しゃあないなあ。お父さんはええんやけど、お母さんにもきちんと話をせなあかんぞ。ちゃんと自分で言うんやぞ」

 やさしく言ってくれました。やった!

「ありがとう、お父さん!」

 わたしにそう言われて、お父さんが笑っています。

 もったいつけていたけど、自分が好きだった将棋を子どもが始めるのって、お父さんもやっぱりうれしいんじゃないでしょうか。お兄さんもニコニコしています。でも、

「六年生から本格的に将棋を指すって大変だよ。しかも女の子が。お母さんがどう思うか」

 浅倉さんが心配そうに声をかけてきましたが、わたしは能天気に答えました。

「だいじょうぶですって! お母さんだって、きっとわかってくれます!

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