四、眠れる天才

 わたしが銀をぴしっと盤上に打ったのを見ると、浅倉さんは一度うなずき、

「負けました」

「ありがとうございました! やりました、六枚落ち卒業!」

 浅倉さんに頭を下げた後、わたしは思わずバンザイしてしまいました。

「おお、朝井さん勝ったんだ。ひさしぶりなんじゃない?」

 近くの席で学級日誌を書いていた雨森さんが声をかけてくれました。

 わたしと浅倉さんによる昼休みの教室での対局は最初こそ注目されていましたが、しだいに見物人は減っていき、いまやほぼゼロ。みんなあきちゃったんでしょうね。別に見世物じゃないのでかまいませんけどね。そんな中で、雨森さんはわりと対局を楽しみに見てくれています。

「そうだね。朝井さん一〇枚落ち、八枚落ちはあっさりクリアしたんだけど、六枚落ちでけっこう手間かかったかもね」

「浅倉さんが強すぎるからですよ! ハンデはつけてくれるけど、対局が始まるとてかげんなんか全然してくれないんですから」

「指すからには、勝ちたいじゃない」

 そう言って浅倉さんがにっこり笑うので、わたしは何も言えなくなってしまいました。それに、浅倉さんが真剣に指してくれるからこそ、わたしも彼女に勝つために勉強するようになっているんだと思います。

 この一か月で、将棋が強くなっている実感はあります。まだまだ初心者の域は出ていませんが、四間飛車美濃囲いという自分なりの戦い方も固まってきました。

 以前は書いている内容がさっぱりわからなかった鳥居宗和先生の本も、けっこう理解できるようになったんですよ。鳥居先生がすごい人だということもよくわかりました。

「そうだ、朝井さん。この間お兄ちゃんと朝井さんのことをいろいろ話したんだけどさ」

 二人で駒を片付けていると、浅倉さんが話しかけてきました。

「えっ、お兄さんに?」

「うん。おじいちゃんの本のこととか、それがきっかけであたしが将棋を教えるようになったこととか。そしたら、朝井さんに会ってみたいって言い出してさ」

「ええっ!」

「次の日曜日にお兄ちゃんが将棋会館に行く用事があるから、朝井さんさえよければその後でどうかなって。あたしもいっしょに行くから……」

「ああ、それはぜひぜひ、おねがいします! プロと会えるなんて!」

 そう言ってから、浅倉さんのおうちへ行ったときと同じようにバレエのレッスンを休む必要があることに気がつきました。まあ、またずる休みすればだいじょうぶでしょう……。


 浅倉さんに連れられて千駄ヶ谷駅のホームに降りたわたしの目に、巨大な王将の駒が飛び込んできました。「なんですか、あれ」とたずねると、浅倉さんがすぐに答えてくれます。

「水飲み場なんだけど、駒の形をしたモニュメントでもあるんだよ。将棋の町ってことで」

「へええ……」

 日曜日の朝、前回と同じくお母さんのモノマネを使ってバレエをサボったわたしは、浅倉さんのお兄さん……浅倉要四段に会うため将棋会館に向かっていました。

将棋会館は、将棋連盟の本部がある場所です。プロ棋士や、プロを目指す奨励会員しょうれいかいいんの対局が行われる一方で、一般の人も将棋ができる道場や、将棋グッズの販売コーナーなんかもあるそうです。

 お兄さんが将棋会館で待ち合わせしないかと言ってきたのは、自分が用事で来ることもあるでしょうが、将棋に興味を持ち始めたわたしが見学できるようにしてくれたらしいです。ありがたいです! 将棋の総本山を見られるかと思うと、わくわくしてしまいます。

 駅を出て、千駄ヶ谷の街を浅倉さんに連れられて歩いていくと、大きな鳥居が見えてきました。

「へえ、神社があるんですね」

「うん、ここまで来たら将棋会館はすぐそこだよ」

 口ぶりからすると、浅倉さんは将棋会館に何度も来たことがありそうです。おじいさんやお兄さんに連れられて来たんでしょうか? 

 そういえば、この一か月は将棋を教えてもらうことに夢中で、そんな話をしていません。もうちょっと仲良くならなあかんなぁ。

 やがて、わたしたちは将棋会館に到着しました。浅倉さんの言う通り、神社からは本当にすぐ近くでしたね。わりと普通の五階建ての建物です。もっとこう、巨大な将棋の駒がどーん! とあったりするのかと思ったら、そんなことはありませんでした。

 外からは、二階にある道場の様子がガラス越しに見えます。たくさんの人が将棋を指しているようです。大人もいますし、わたしよりずっと年下の子どもも大勢います。今日は道場に行くことが目的じゃないですが、いずれ行ってみたいなあ。

「じゃあ朝井さん、中に入ろうか。お兄ちゃんとは十一時に待ち合わせだから、あと十五分くらいあるね。それまで売店でいろいろ見てみよう」

「はい!」

 浅倉さんの後ろについて将棋会館へ入ったわたしの視界に最初に入ってきたのは、

「ぐががががががが、ぐががごごごごごごご」

 長椅子に思いっきり寝そべり、大いびきをかいている女の子でした。ええええ……。

 おかっぱ頭で眼鏡をかけたまま眠っている小柄な女の子は、わたしと同じくらいか、少し年下に見えます。わたしはしばらくぼう然としてしまいました。

「ええと、浅倉さん。これ、どうしましょう……」

 我に返って浅倉さんの方を見ると、彼女は肩を落として深々とため息をついていました。

「なにやってんだ……」

「知ってる子ですか?」

「うん、一応」

 浅倉さんはそう言うと、相変わらず「ぐごごごご」と豪快にいびきをかいて寝ている女の子に近付き、肩をゆすりました。

宇佐美うさみさん! 起きなよ! 怒られちゃうよ!」

「ぐがが……ぐご!」

 するといびきが止まり、宇佐美さんと呼ばれた女の子の目が開きました。

「あれ? 晶ちゃん?」

 そう言って眼鏡を外し、眠そうな目をこすりながら体を起こします。

「久しぶりだねえ。今日って研修会けんしゅうかいの日なんだっけ?」

 などと、のんきに浅倉さんに話しかけます。『晶ちゃん』なんて呼ぶってことは、かなり親しいんでしょうか。

「……ちがうよ。ちょっと友達と来ただけ」

「そうなの? 玉緒たまおは今朝、新潟から出て来たんだ。お母さんが事務の人とむずかしい話をしてるから、ここで詰将棋でも解いていようと思って、たんだ、けど…………ぐぅ……」

「話してる途中で寝るなよ!」

 なんかショートコントが始まっています。

「ええと、浅倉さん、その子は」

 わたしが声をかけると、浅倉さんははっとしたようで、

「ごめんね朝井さん。この子は……」

「ああ~、あなたが晶ちゃんのお友達? 玉緒は、宇佐美玉緒っていいます。晶ちゃんと同じ小学六年生です。女流棋士をしています」

 浅倉さんが紹介してくれるよりも先に、宇佐美さんという子が自己紹介してくれました。子どもっぽく見えるけど、わたしや浅倉さんと同じ六年生か。そして女流棋士……。

「……へ? 女流棋士?」

 この子が? テレビで見た戸川道代さんと同じ女流棋士? 思わず声を出してぽかんとしているわたしを見て浅倉さんが、

「宇佐美さんはあたしたちと同い年だけど、立派な女流棋士だよ。去年、まだ五年生だったころに史上最年少で女流棋士としてデビューしたんだ」

「改めて言われると、てれちゃうねえ」

 宇佐美さんが恥ずかしそうに頭をかきました。し、史上最年少! このゆるい雰囲気の女の子が……。ふと浅倉さんの方を見ると、彼女は下を向いていて表情がわかりませんでした。


 プロ棋士と女流棋士はちがいます。わたしも最初は女性のプロ棋士のことを女流棋士と呼ぶのかと思っていましたが、それは大まちがい。

 プロ棋士の養成機関である奨励会に入会して、四段に上がれば男女の区別なくプロ棋士になることはできます。ですが、現実には女性のプロ棋士はこれまで一人も誕生していません。女性の奨励会員は何人もいますが、プロ棋士への狭き門を突破する女性が現れていないのです。

 そこで、女性へ将棋を普及させる目的もあって、プロ棋士とは別に女流棋士の制度が誕生したのが一九七四年のことだそうです。それ以降、女流棋士はたくさん生まれました。将棋をお仕事にしているという意味では、女流棋士もプロです。しかし「女性のプロ棋士」は一人もいない、というのが現在の状況なんです。

「今、女流棋士の中でいちばん強いと言われている人がかけもちで奨励会の三段にも在籍していて、棋士になろうとがんばってるんだ。そして、宇佐美さんも将来的にプロ棋士になる可能性が高いんじゃないかと言われてる」

 浅倉さんが説明してくれました。同い年の女の子が、すでに勝負の世界に身を置いて戦い、お金をかせいでいる。わたしにとってはルールを覚えたばかりのゲームでしかない将棋で。

 それは、けっこうな衝撃でした。宇佐美さんの小さな体が、なんだか大きく見えてしまいます。

「そうなのー、朝井さんは晶ちゃんに将棋を教えてもらってるんだねえ。だったら上達も早いんじゃないかなあ」

 わたしからも自己紹介して、浅倉さんとの話をすると、宇佐美さんは楽しそうに言いました。宇佐美さんはずっとニコニコしていて、最初こそびっくりしたけれど、いい子みたいです。だけど、将棋はめちゃくちゃ強いんでしょう。

 ……史上最年少で女流棋士になるということは、浅倉さんより強いんでしょうか。

 わたしがそんなことを考えたときでした。

「玉緒ぉぉーっ!」

 どなり声とともに、女の人がやってきました。

「何やってるの! なんでこんなところにいるの! 斯波しば先生にごあいさつに行くって言ってたでしょう!」

 その様子から、宇佐美さんのお母さんだとすぐにわかりました。顔も似てますし、宇佐美さんと同じような眼鏡もかけていますし。

「お母さん、ごめんごめん。ここで寝てたら、晶ちゃんがやさしくたたき起こしてくれたの」

 やさしいのかきびしいのか、どっちやねん。

「あんた、またこんなところで寝てたの! 今はそれどころじゃないの! 斯波先生を待たせるわけにいかないでしょう! ……ごめんなさいね」

 宇佐美さんのお母さんはわたしたちにあやまると、宇佐美さんの手をつかんで「ほら、早く!」と彼女を長椅子から立たせました。そのまま宇佐美さんは奥へと連行されていきます。

「ああ~。晶ちゃん、朝井さん、またね~」

 お母さんに廊下をずるずると引きずられながら宇佐美さんがそう言って手を振ってくれたので、わたしもあわてて手を振りました。やがて二人はエレベーターの中に入り、ドアが閉じられます。

「……なんだか、すごい子でしたね」

「……うん。すごいよ。宇佐美さんは本当にすごい子なんだ」

 そう言う浅倉さんの声には、複雑な気持ちが込められているように思えました。そのとき、

「晶、待たせたね」

 入口の方から男の人の声が聞こえたので、わたしと浅倉さんはそちらを向きました。

「お兄ちゃん!」

 浅倉さんの声がさっきより一段高いです。テレビで見た浅倉さんのお兄さん……浅倉要四段がニコニコして立っていました。

 テレビとちがい、スーツではなく青いシャツを着ています。普通の高校生男子の私服姿って感じ。お兄さんはわたしに目を向けると、

「ええと、きみが晶のお友達かな? おじいちゃんの本を持っていたっていう」

 そう声をかけてくれました。わたしはすぐにおじぎをして、

「朝井祈理です。初めまして!」

 その瞬間、ぐぅぅぅぅっっと、おなかの音が大きく鳴りました。

 だれのかって? わたしですよ! 今朝家を出るまで詰将棋の本を読んでたんですよ! 頭を使うとおなかがへるんですよ! 

「ご、ごめんなさい……」

「ははは! お昼前だし、おなかもへるよね。じゃあ、みんなでお昼を食べに行こうか」

 お兄さんはそう言って、笑い飛ばしてくれました。

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