二、彼女はヒーロー
「ははははははっ! そうか、浅倉さんを男子だと思っちゃったか。はー、ウケるー」
翌日の昼休み、わたしの話を聞いた雨森さんが教室で大笑いしています。
「そんなに笑わなくていいじゃないですか」
わたしが抗議すると、雨森さんは「ごめんごめん」とあやまってくれました。
昨日はあの後初めてのバレエ教室に行ったんですが、ずっと上の空でした。どんなレッスンを受けたのか全然覚えていません。浅倉さんが女の子だったというショックのおかげでね!
「まあ仕方ないよねえ、浅倉さんかっこいいもんねえ」
「それに、スカートじゃなくてズボンはいてるんですから。男子だと思っちゃいますよ」
実は一乗学園は校則上、女子が制服のズボンをはいても問題がないそうなのです。
「冬場はズボンをはく女子もけっこういるんだけどね。今の季節は浅倉さんくらいかな」
「なんでまた、浅倉さんはそんなことを。スカートをはくのがきらいとか?」
「別にそうじゃないと思うよ。ズボンをはきたい理由があるんだよ。校庭を見てみて」
雨森さんが窓を指さすので、そこから校庭を見下ろしました。多くの生徒が遊んでいる様子が見えます。雨森さんの言い方からすると、どこかに浅倉さんが……あ、いた。
「男子にまざってサッカーやってますね。人数が少ないからミニサッカー?」
「そう。浅倉さん背も高いし運動神経が良いから、男子に誘われて昼休みにサッカーしてるんだよね。スカートでやるわけにもいかないってわけ」
浅倉さんがドリブルで男子をかわしてゴールに近付いていきます。うーん、やっぱりかっこいいな。お、そのままシュート決めた。すごい!
「うちのクラスの
「聞いてます聞いてます。でも、サッカー楽しそうにしてますけど、将棋は? 亡くなったおじいさんがプロの棋士だったって昨日話したんですけど」
「その話は有名だよ。おじいさん、棋士の中でも相当強い方で、名人だったんだって。それに、お兄さんも去年プロになったって聞いたよ」
「へえ……完全に将棋一家なんですね」
「浅倉さん本人も将棋強いはずだよ。あたしは四年生まで浅倉さんと同じクラスだったんだけど、大会で優勝したことが、ちょこちょこニュースになってたもん。新聞にのったりさ」
なるほど、自分で『けっこう強い』と言うだけのことはあるんですね……ああ! 浅倉さん、味方の男子とハイタッチなんてしてる! 浅倉さんからはなれんかい!
「でも最近はあまり将棋で話題になってない気がするなあ。サッカーやり始めたからかな」
浅倉さんを目で追うのに夢中で、雨森さんの言葉はわたしの耳に入ってきませんでした。
初恋っぽいものが始まる前に終わったのは残念でしたけど、そういうのとは別として、浅倉さんと仲良くなりたいと思います。
だけど、別のクラスですしねえ。普通の方法ではなかなかむずかしい。となると、わたしと浅倉さんの接点といえば……やっぱり将棋かな。
なによりも、将棋に少し興味が出てきたんですよね。昨日読んだ本の意味はさっぱりわかりませんでしたけど、なんだか面白そうに思えました。まだルールは知りませんが。
あ、例の将棋の本をお父さんに返すの忘れてました。まあ、いいか。お父さんいそがしそうですし、また今度で。
で、『浅倉さんと仲良くなる』『将棋を覚える』この二つを同時に達成するためにはどうすればいいかといえば……もうおわかりですよね。
「将棋を教えてほしいって?」
「はい、ぜひ! 浅倉さんのおじいさんの本を読んでたら、興味が出てきたんです!」
その日の授業が終わると、わたしは猛ダッシュでとなりの二組の教室へかけこみ、帰る準備をしていた浅倉さんへあいさつもそこそこに話しかけました。浅倉さんは腕を組むと、
「うーん。本格的に習うんだったらやっぱり道場に通うべきなんだろうけど。朝井さんはまったく将棋を指したことがないんだよね?」
「はい。正直言って、始めるにしても何をどうすればいいのかさっぱりわかりません」
「だったら、まずは自分でやるよりも、他人が対局するところを見てみるのがいいかもね」
「でも、どうすれば……」
「毎週日曜日にテレビで将棋の番組やってるんだ。一時間半で一局が終わるから、初心者が見てみるにはいいんじゃないかな。しかも、あさっての放送はちょうどお兄ちゃんが出るんだよ。あ、言ってなかったかもしれないけど、あたしのお兄ちゃんもプロ棋士でね」
「お兄さんもプロだってことは今日聞きました! じゃあ、見てみます。何時からなんですか」
「午前一〇時半からだよ」
あさっての日曜の一〇時半からというと……バレエのレッスンがある時間です。リアルタイムでは見られそうにないですね。仕方ない、録画しましょうか。
でもそうすると、お母さんに何を録画してるか聞かれるかも。ちょっとまだお母さんに将棋のことを話すのはね……。
そのとき、わたしはひらめきました。
「浅倉さん。もし良かったら、日曜に浅倉さんのおうちに行ってもいいですか?」
「ええっ?」
「たぶん、将棋の番組をわたし一人で見ても、よくわからないと思うんです。浅倉さんに解説してもらいながらいっしょに見て、その後で実際に将棋を教えてもらうのがいいんじゃないかと」
「確かに、それはそうかも……」
「ですよね! どうでしょう。浅倉さんの予定さえよければ……」
浅倉さんはちょっと考えた後、笑って答えてくれました。
「その日は特にやることもないし、いいよ。あたしも女の子が将棋に興味持ってくれると、やっぱりうれしいしね」
「本当ですか! ありがとうございます!」
よっしゃあっ! わたしは心の中でガッツポーズをしました。ただ、問題はバレエのレッスンが同じ時間にあることです。わたしの頭は高速でレッスンをサボる算段をつけ始めました。
そして日曜日の朝。浅倉さんのお宅の最寄駅で電車を降りたわたしは、改札口を出てきょろきょろとあたりを見回しました。浅倉さんと待ち合わせしているんです。そんなに大きい駅ではないから、浅倉さんが来ていればわかるはず……。
「朝井さん、おはよう!」
その声に振り向くと、パーカー姿の浅倉さんが立っていました。うん、やっぱり男の子にも女の子にも見えるなあ。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
やりすぎちゃうか、と自分でも思うくらいに深々とおじぎをすると浅倉さんはあわてて、
「そんなそんな! そんなかた苦しくしなくていいから。……うわさでいろいろ聞いたんだけど、朝井さんって本当にお嬢様なんだねえ。なんだか高そうなワンピース着てるしさあ」
「そんなことないです、そんなことないです」
と言いつつ、高いのはほんまなんよ。お母さんが買うてくれたから、なんぼしたんかは知らんけど。わたしやってファッションのことはようわからへんし、友達の家に遊びに行くだけなんやからもっとラフな格好したいんやけどね。
せやけど今日はバレエ教室に行くってお母さんに言って出てきたから、それなりの格好しとかなあかんかったんや。そんで家を出た後で携帯電話からバレエ教室へお母さんのフリして『申し訳ございません、祈理が今日体調がすぐれないようで……』とか言って休ませてもろたんや。
わたしの四十八の持ちネタのひとつ『むだにきれいな作り声で電話するお母さんのマネ』が役に立ったわ。家族限定で確実に笑いを取れるネタなんやけどね。
……と、浅倉さんに全部話せたら楽なんだけどなあ。習い事をサボって来てるとは、ちょっと言い出せませんよねえ。お母さんとバレエの先生にウソをつき浅倉さんに隠しごとをしていることに後ろめたさを感じながら、わたしは浅倉さんといっしょに駅を出ました。
五分ほど歩いた先の、小さな庭がある一戸建ての家に着いたところで「ここだよ」と言って浅倉さんがカギを取り出しました。玄関でカギをガチャガチャと回しながら、
「今日はパ……お父さんもお母さんも夕方まで家にいないんだよね」
パパ、と言いかけたことには気が付かないふりをしてあげましょう。
「だからテレビ見るなら広い部屋で見てもいいし、小さいテレビならあたしの部屋にもあるから、そっちでもいいし。どっちがいい? はい、開いた。ただいまー」
「おじゃまします。じゃあ、浅倉さんのお部屋で。どんな感じなのか、ちょっと気になりますし」
「そう? じゃあ二階になるんで、行こうか」
浅倉さんに連れられて階段をとことこと上がった先に、いくつかのドアがありました。
「浅倉さんのお部屋とお手洗いのほかに部屋があるということは、お兄さんの部屋ですか?」
「そう。でも今は家を出ちゃって、いっしょに住んでないんだ。さびしくないけどね」
「え、そうなんですか?」
「うん。去年の秋にプロになったんだけどね。それをきっかけに、一人ぐらししてみたいからって、出て行っちゃった。別にさびしくないけどね」
二回言いました。本当はさびしいんやろうなあ。わたしはひとりっ子ですけど大阪ではおじいちゃんとおばあちゃんといっしょに住んでいたので、気持ちはなんとなくわかります。
と、「ここがあたしの部屋」と言って浅倉さんが奥から二番目のドアを開けてくれました。きれいに整とんされた部屋の中で、わたしの目を引いたのは本棚でした。約半分のスペースを将棋の本が占めています。この辺り、さすがに普通の女の子とはちがうって感じ。
ちなみに残りの半分は少女漫画の単行本で占められていました。この辺は普通の女の子って感じ。
そして浅倉さんがジュースを準備してくれたりしていると、番組が始まる一〇時半になりました。テレビ画面に登場したのはショートカットのかっこいい女性です。年齢はわたしのお母さんくらいでしょうか。ピンと背筋を伸ばして、テキパキと番組を進行していきます。
「
わたしが質問すると、浅倉さんは「棋士というか、女流棋士ね」と言ってうなずきました。
「ん? 女流棋士と棋士ってちがうんですか?」
「ちがうんだよ。どこがちがうかって言えば……説明すると長くなるから、また今度ね。ただ、この戸川先生はめちゃくちゃ強い人だよ。二〇年近く女流棋士最強だった人だもん」
最強なんて言われると、ますますかっこよく見えてきます。
やがて、対局する二人の棋士が画面に映し出されました。ざぶとんの上に正座し、将棋盤をはさんで向かい合っています。そして、それぞれの駒を盤の上にゆっくりひとつひとつ並べていきます。
二人ともスーツ姿です。一人は眼鏡をかけた、頭のよさそうな四〇代くらいのおじさん。
そしてもう一人の男の人はずいぶん若くて、高校生くらいのようです。そのせいか、スーツも似合っているとは言えないかも。一目見て、浅倉さんのお兄さんだとわかりました。
「この人がお兄さんですね。浅倉……
「うん」
「浅倉さんに似てますね、やっぱり。かっこいいですね!」
「そ、そう?」
おせじ抜きでわたしが言うと、浅倉さんは少しはずかしそうでした。
お兄さんが浅倉さんに似ていると思ったのは、整った顔つきもありますけど……髪型が浅倉さんと同じだということもあるかもしれません。男の人にしてはちょっと長目かな、くらいの。
これはむしろ、浅倉さんがお兄さんのまねをしているんでしょうか……? ふとそう思いましたが、浅倉さんにはだまっておきましょう。
しばらくして、対局する二人のプロフィールが紹介されました。お兄さんは東京出身の四段、対局相手の
「四段と八段ということは、相手のほうが強いということでいいんですか?」
「うーん、そう単純なものじゃないなあ。今の強さと段位は直接は関係ないね。実績によるっていうか。まあ長船先生のほうが強いだろうけど、お兄ちゃんにも勝ち目はあると思う」
浅倉さんの言葉を裏付けるかのように、テレビの中ではお兄さんが長船八段の印象についてたずねられ、「経験豊富な関西の実力者でいらっしゃるし、確実にわたしより強いと思います。ですがのびのびと指すことができれば、勝機はあると考えています」とコメントしています。
「あまり緊張してる様子はないですね」
「そうだね。テレビに出るのは初めてだろうに、よくやってるよ」
浅倉さんはほっとしたようでした。やっぱり、お兄さんのこと心配していたんでしょうね。
対局はすぐに始まりました。お兄さんが駒を手に取り、パチンという音を立てて盤の上に置くと、『先手、7六
「盤の右から七マス、上から六マスの場所に歩を置いたってことですよね」
「……朝井さん、わかるの?」
浅倉さんが目を丸くしています。ふっふっふ、その顔が見たかった。
「駒の種類や動き方なんかの基本的なルールは、予習してきたんですよ。なにも知らない人に教えるより浅倉さんもやりやすいでしょうし、わたしだってその方がわかりやすいですし」
わたしがそう言って胸を張ると浅倉さんは「おおー」と手をたたき、「朝井さんはまじめだねえ」と感心してくれました。へっへっへ……。
「じゃあ朝井さん、『
浅倉さんがわたしを試すように聞いてきます。が、それくらいは余裕余裕!
「わかりますよ! 長船さんは飛車をもとの場所から動かしていませんから、居飛車ですよね。お兄さんは飛車を左に動かしてますから、振り飛車です」
「おお、お見事。本当に勉強してきてるねえ」
「あっはっは、それほどでも」
浅倉さんにほめられ、わたしは得意になって笑いました。飛車は縦と横にどこまでも動かせる強力な駒。そのため、飛車を最初の位置から動かすかどうかで『居飛車』『振り飛車』と戦法を分けて呼ぶことになるのです(と、インターネットに書いていました)。
「それじゃ朝井さん、振り飛車も飛車を振る位置によってさらに細かく分けることができるんだけど、今お兄ちゃんがなんて戦法を選んでいるか、わかる?」
「ふっふっふ、それはもちろん……なんですって? 飛車を振る位置によってさらに細かく?」
「ああ、それ以上はわからないんだね。なるほど。オーケーオーケー」
混乱してしまったわたしを見て、浅倉さんは納得したようにうんうんとうなずきました。
「付け焼刃の知識で調子に乗っていたわたしがばかみたいですね……」
「気にしないでいいんだって! これから覚えればいいんだから」
ちょっと落ち込んだわたしの肩を、浅倉さんがバンバンたたいてくれました。
ちなみに、お兄さんが取った戦法は、飛車を左から四番目のマスに振ることから『
対局はお兄さんがやや押され気味のまま進行していったようです。
『ようです』というのは、どちらが押しているのか、対局の様子を見てもわたしにはわからないからです。一手ごとの意味や狙いはなんとなくわかるんです。でも全体の流れはどうも……。解説役の棋士が話している意味を浅倉さんにやさしく教えてもらっても、半分も理解できませんでした。
そんなこんなで約一時間後、お兄さんが「負けました」とポツリと言って頭を下げました。
え? もう負け? さっきから「ダメだなあ」「長船先生強いなあ」などとつぶやいていた浅倉さんが、ため息をついています。
「もう終わっちゃったんですか? 将棋って、王様が取られたら負けじゃないんですか? お兄さん、まだ取られてないじゃないですか」
わたしの疑問に対して、浅倉さんが答えてくれます。
「朝井さんの言う通り、まだ玉は取られてないよ。
「見えちゃう……先が予測できるということですか」
盤の上の駒は、わたしの目にも浅倉さんたちにも同じものが映っています。そして実際に将棋を指したことがないわたしも、駒の動き方は一応わかっています。それなのに、わたしには見えないものを浅倉さんたちは感じることができる……。
「すごいなあ。わたしには、ここからどうやって勝負がつくのか、全然わかりません」
感心するわたしに、浅倉さんが言います。
「その辺は、これから解説してくれるよ。でも、結局は自分の感覚を磨くしかない。見えないものが見えるようになるまでね。じゃあ朝井さん、この後、実際に指してみようか」
浅倉さんに視線を向けられ、わたしは大きくうなずいて言いました。
「はい、お願いします!」
小さなテーブルの上に将棋盤を並べて、わたしたちは向かい合いました。テレビの中の対局とはまるでちがって、将棋盤は小さくてかわいいものですし、足を崩してカーペットの上に座っています(最初はお兄さんたちのまねをして正座してみたんですが、一分でギブアップしたんです、わたしが)。
対局では、浅倉さんが一〇枚落ちという大きなハンデをつけてくれました。将棋はお互い二〇枚の駒で戦うわけですが、強い方が一〇枚落として、数の上では二〇対一〇になります。
いくら初心者のわたしでも、二倍の数の駒なんだから勝っちゃうこともあるんちゃうか? そんな甘いことを考えるわたしの先手で、対局が始まりました。
数の力で浅倉さんを攻めようとわたしなりに考え、前に一マスずつ進む歩といっしょにエースである飛車も前に進めていきます。しかし、
「ひええ、どんどん取られていく……」
思わず声が出てしまいました。わたしの浅い考えのはるか先を浅倉さんは読んでいて、次々と駒がうばわれていきます。ああ、とうとう飛車まで!
こうなると、将棋の特徴である『うばった敵の駒を自分の駒として使える』というルールが大きな意味を持ってきます。浅倉さんはためらうことなく、わたしから取った飛車を打ってきました。
ひええ、これはやばい。でも、まだわたしの駒の方が多いです。
ここから飛車を取り返したるで!
と、飛車にどんどんおそいかかったんですが、飛車と他の駒とのコンビネーションでかたっぱしから返り討ちですよ。なんだかわたしの駒がアニメやゲームのやられ役に、浅倉さんの駒がヒーローみたいに思えてきます。
浅倉さんの様子が気になったわたしは、駒を動かした後で彼女の方をちらっと見てみました。
浅倉さんはただひたすら、盤に集中していました。わたしのへたくそな手を見ても笑ったりバカにしたりせず真剣に、勝つための道筋を考え抜いています。
ああ、駒じゃなくて浅倉さんがヒーローなんや。わたしはそう思い直しました。
それから数分後。浅倉さんの飛車がさんざん暴れ回る中で、どうやって王様を守ろうかとわたしは悩んでいましたが、
「ん? これ……もしかして、どうやっても負けですか?」
「そうだね」
王様が逃げても、王様で浅倉さんの攻め駒を取っても、他の駒で王様を守っても、結局は王様が取られてしまいます。
「こういう状態を『詰み』とか『詰んでる』って言うんだ」
「わかります……。ええと、ま、負けました」
浅倉さんのお兄さんの様子を思い出し、わたしはとりあえずそう言って礼をしました。浅倉さんも、ぺこりと頭を下げてきます。
わたしはしばらく頭を上げることができませんでした。盤の上に意識が飛んでいたからです。
どうして浅倉さんは二倍の数のわたしに勝てたんやろ。どれだけの努力を積み重ねれば、ここまで強くなれるんや……?
「朝井さん? だ、だいじょうぶ?」
「へ?」
浅倉さんの心配そうな声が聞こえて、わたしは顔を上げました。
「よかった、泣いてるのかと思った……」
「えっ? 泣いたりなんかしませんよ。どうして負けたのか考えるのに夢中になってました。将棋、思っていたよりずっと面白いです!」
わたしがそう言うと浅倉さんはきょとんとして、それから「朝井さんは強くなるかもね」と、笑ってくれました。
「本当ですか! じゃあ浅倉さん、これから学校でも将棋を教えてくれませんか? もっと将棋のことが知りたくなりました!」
そう言うと、浅倉さんが「うーん」と考えこんでしまいました。あれ? てっきり引き受けてくれるものだとばかり。
「将棋を勉強するだけなら、道場に通うのが一番だと思う。わたしが通っていたところを紹介してあげるから、そこへ行ってみるとか。それに、そもそもおうちで指せばじゅうぶんなんじゃ……」
浅倉さんが申し訳なさそうに言ってきました。単にめんどくさいからいやだ、という感じには見えません。でも……。
「いや、わたしの家ではそういうの、ちょっとむずかしそうで……」
どこまで話せばいいのでしょうか。バレエをサボったこととか、ちょっと言えないなあ。わたしが歯切れ悪くごにょごにょ言っていると、浅倉さんは察してくれたようでした。
「ああ、普通の家だと女の子が将棋やりたいって言っても、そんな簡単にはいかないか。うちはおじいちゃんが棋士だったし、特別だったのかもしれないね……」
浅倉さんがちらっとわたしを見てきました。
こういう顔、お店の手伝いをしていたときに見たことがあります。入口の外で、店に入ろうかどうしようか悩んでいる人の顔です。
店内からそんな人を発見したとき、わたしは外まで出て行って「どうぞいらっしゃい! おいしいですよ!」と背中を押してあげるようにしていました。たいていの場合、悩んでいた人もそれで店に入ってきます。
今回も、もうひと押し。
「浅倉さん、お願いします!」
と、営業スマイル全開で言ってやりました。浅倉さんは観念したように一息ついてから、
「じゃあ、まずは将棋盤を買いに行こうか。学校に持って行けるやつをね」
と、わたしにつられたように笑って言いました。
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