リボンの棋士 ガール・ミーツ・ゲーム

平河ゆうき

一、わたしは焼肉屋のプリンセス

朝井あさいさん、今日の帰りはどうするの? 駅まで一緒に行かない?」

 授業が終わると、学級委員の雨森弥生あめもりやよいさんが声をかけてくれました。転校二日目でまだ友達らしい友達がいないわたしに気をつかってくれているのかもしれません。いい人です。でも、

「ごめんなさい。今日この後バレエがあるから、お迎えが来てくれるんです。時間があるから、しばらく図書室で待とうかと思って」

 悪いなあ、と思いつつわたしが答えると、雨森さんは眼鏡の向こうで目をきょとんとさせて、

「バレエ? ハイキュー?」

 そらバレエやのうてバレーやろがーい!

 ……と、つっこみたくなる気持ちをグッとこらえて、わたしは頭の中で一呼吸置きました。関西弁を標準語に変換。お上品に、お上品に。

「バレーボールじゃないですよ。踊るほうのバレエです」

「ああ、そっちね。いいねえ、朝井さんのイメージ通りかも」

「あはは……」

 習いに行くのは今日が初めてなんですけどね。なんて、言わなくていいことは言いません。せっかく『バレエを習ってそうなお嬢様』というイメージを持たれているようですから、そこは守っていきましょう。お母さんにも言いつけられていますし。

 雨森さんと別れると、わたしは六年一組の教室を出て図書室へと歩き出しました。わたしが昨日から通い始めた一乗いちじょう学園初等部の敷地はとても広いです。図書室へ行くためには、教室がある校舎から出て、中庭をてくてく歩き、音楽室や家庭科室も入っている特別教室棟まで向かう必要があります。

 さすがは幼稚園から大学まである私立校です。三月まで通っていた公立の小学校とはずいぶんちがいます。けど、移動に時間がかかるのは一長一短かな。

 ふと、廊下に置かれている大きな鏡が目に留まりました。鏡には、ブレザーの制服を着て長い髪をまっすぐに下ろした女の子が映っています。

 三月まで通っていた小学校は私服でしたし、髪も結んでポニーテールにしていましたから、いまだにこれが自分だという気がしません。……そのうち慣れるんやろか。

 あ、自己紹介が遅くなりました。わたしの名前は朝井祈理いのりと言います。この四月に大阪から東京へ引っ越ししてきました。趣味は読書です。よろしくお願いします。

 ……昨日、始業式の後のホームルームではこんな自己紹介をしたのですが、普通すぎて物足りないですよね、やっぱり。ここはひとつ、わたしが図書室に着くまでの間『朝井祈理物語~誕生編~』をお送りしましょう。


 大阪にある人気焼肉店『三つ盛屋』。そこの二代目店主である朝井政人まさとと、妻の一美かずみとの間に、わたし朝井祈理は生まれました。

 タレの香りの中ですくすくと育ったわたしは、小学校に上がるころにはお店を手伝い始めます。別に強制されたわけではなく、自分から手伝いたいと言ったそうです。もはや自分でもよく覚えてませんけどね。おじいちゃんやお父さんによる焼肉の英才教育(?)のおかげでしょう。

 注文を取って、お肉やビールをテーブルに運んで……という仕事を小学一年生の女の子がするわけですからね、そりゃお客様にも他の店員さんにもかわいがられますよ。いや、当時の写真が残ってるんですけど、エプロン姿でポニーテールに赤いリボンを合わせた幼いわたしは実際かわいいです。自分で言うのもなんですが! 

 え、今? 今のわたしがかわいいかっていうと、どうでしょう。まあ十人並? みたいな? 

 どうでもいいですけど『十人並』というと大量のお肉がお皿に載っている様子をイメージしてしまいます。焼肉屋の娘のサガでしょうか。

 そんなわけで特に習い事なんかもせず、お店を手伝いながら小学校に通うという日々を送っていました。友達がピアノだ水泳だといそがしそうにしているのを見て、ちょっとだけうらやましく思うときもありましたけどね。でもお店の手伝いも焼肉も好きですから、別にいいんです。特にやりたいことがあったわけでもないですし。

 そんなわたしがなぜ六年生になった今、東京に引っ越ししてバレエなんか習うことになっているかというと……。おや、図書室に到着してしまいました。では続きはまた後で。


 図書室、広い! 街の図書館レベルじゃないでしょうか。司書さんと図書委員さんのほか、読書している子もけっこういて、盛況です。読書好きとしてはどんな蔵書があるか見て回りたいのですが、ここはがまんしないと。

 わたしは閲覧スペースの椅子に座り、学校指定のランドセルを背中から降ろしました。図書室に来たのは、持ち込んだ本をここでゆっくり読むためです。お母さんから渡された『ぐんぐん上達するクラシックバレエ』。

 今日初めてバレエ教室に行くので、お迎えが来るまで一時間ほどありますし、本を読んでおこうと思ったのです。予習は大事ですよね。

 わたしはランドセルを開けると、その中からバレエの本を取り出し……あ、あれ? 無い。なんでやろ、昨日の夜、確かに入れたはずなんやけど……? ちょ、ちょっと、わたしが本を探している間『朝井祈理物語~激動編~』をお楽しみください!


 なぜわたしが東京に転校してきたかを説明するには、お父さんが若いころの話からしないといけません。

 『三つ盛屋』はおじいちゃんが始めた焼肉屋です。その息子であるお父さんは、お店を自分の代で大きくするという野望を中学生のころから持っていたそうです。やがて大学で経営の勉強なんかをした後でお店を継ぎ、着々と準備をしていきました。

 わたしがお手伝いをしていたお店が、おじいちゃんが四〇年前に始めた三つ盛屋本店。ちょうどわたしが小学校に上がったころから本格的に三つ盛屋は拡大し始め、五年生になるころには関西全域に五〇以上のお店ができていました。

 なんでも焼肉よりはお安く、牛丼よりは高級感がある焼肉丼を積極的に宣伝していったことが成功につながったとかなんとか。

 こうなってくると「よっしゃ、次は東京で天下取ったるで!」となるのはお笑い芸人と同じ。『株式会社 三つ盛屋』本社の東京移転とタイミングを合わせて、両親とわたしも東京へ引っ越すことになったのです。

 わたしが編入することになった一乗学園は、女子大を頂点とした私立の進学校として昔から有名だったそうです。わたしが編入試験に合格したことを知ったお母さんは、大変な喜びようでした。

「一乗学園いうたら名門中の名門やで、いのりちゃん!」

 お母さんの中では、名門女子大というイメージが強いようなんです。もともと、いわゆるお嬢様学校という雰囲気ではないし、そもそも少子化のせいで一〇年前に男女共学になってるんですけどね……。

 しかしお母さんがそんなことは気にせず、

「いのりちゃんも社長令嬢なんや。恥ずかしくないように、なにか今からでもそれっぽい習い事やろう! バイオリンとか、バレエとか!」

 と、えらく張り切っちゃって困りました。わたしは読書が好きだからか学校の成績はわりと良いほうなんですけど、音楽や体育はからっきしなんです。

「かんにんしてや、お母さん。そんなん六年生になって今さらやりとうないで……」

「でもいのりちゃん、もうお店の手伝いせんでようなったんやで。他にやりたいこともないんやろ? なんかせな、時間持てあますで」

「そらそうなんやけど……。だったら勉強するわ。塾行くほうがええわ」

「ああ、塾行くのは当たり前やからね。それ以外に何か一つ習い事やろう、いのりちゃん」

「うそーん!」

 そんなわけで、本当はどっちも行きたくないけど仕方なくバレエを習い始めることになったのです。バイオリンではなくバレエを選んだのは、運動不足の解消になればいいかな、と思ったからです。おばちゃんみたいやね!


 そして今、図書室に座るわたしの目の前にある本は『ぐんぐん上達するクラシックバレエ』ではなく『ぐんぐん上達する! 鳥居とりい式将棋』。表紙にはバレリーナではなくやさしそうな顔をした着物姿のおじさんの写真がドーン、とのっています。

「なんでやねん」

 思わず関西弁でひとりごとが出てしまいました。いけない、社長令嬢のイメージにはそぐわないからと、お母さんには関西弁を封印するよう言われているのでした。

 なぜバレエではなく将棋の本がわたしのランドセルに入っていたのかといえば、『ぐんぐん上達する』までタイトルが同じだったからでしょうね。まちがえるか普通……。

 この将棋の本は確か、引っ越しのとき大阪の家から送られてきた荷物の中に入っていました。わたしもお母さんも見覚えが無いし、ずいぶん汚れていて、発行日は三〇年も前の日付です。

 きっとお父さんが子どものころに買った本なんでしょう。お父さんに渡してあげようと思いつつ、引っ越しのドタバタで忘れちゃって、わたしの部屋に置きっぱなしにしていたんです。

 将棋ねえ。そういえば、たまにお父さんがテレビで将棋を見ていたような気もします。興味がないので記憶もあやふやです。ルールも全然わかりません。

 バレエの本を忘れたものは仕方がないし、図書室で探してまで予習する気もなかったので、わたしは『ぐんぐん上達する! 鳥居式将棋』をパラパラとめくってみました。

 なるほど、さっぱり意味がわからない。

 この本を書いた鳥居宗和むねかずという人は将棋のプロ棋士で、読者に教えてくれるという形を取っているようなのですが、まず書いている用語の意味がわからないのでどうしようもないです。用語の解説がいちいち書いていないということは、初心者向きではなく、ある程度将棋がわかる人向けの本なのでしょう。

 ん? 表紙をめくったところの厚い紙(後で知りましたが『見返し』というそうです)に、『雲外蒼天』と大きくペンで書かれ、鳥居さんのサインもその近くにあります。サイン本だったんですね。お父さんは鳥居さんのファンだったんでしょうか……?

 それにしても、本に書かれている将棋の盤の図を見ると、焼き肉用の網を思い出します。形が似てるんですよね。

 しかし美濃みの囲いってなんやねん。コンロに乗せた網の上でミノを他の肉で囲みながら焼くところを想像してしまいました、焼肉屋の娘的に。えっ、串カツ囲いなんてのもあるの? なにそれ、おいしそう。

 と、意味がわからないなりにどうにか将棋の本を楽しんで時間をつぶそうとしていた時です。人の気配を感じて、わたしは本から顔を上げました。

 机の向こうに、わたしと同じ年ごろの子が立っていました。一乗学園の制服であるブレザーとズボンを着ています。見覚えがないから別のクラスの子か、あるいは五年生でしょうか。

 こちらへメンチを切っ、じゃない、視線を向けていたようですが、わたしと目が合って、はっとしたようでした。男の子にしてはやや長い髪をしたその子の顔はすごく整っていて、目はぱっちりと大きくて……えええっ! 

 よく見たらめっちゃかっこええんですけど! イケメン! いや、その表現はしっくりけえへん。二枚目? ハンサム? ちがう、もっと、こう……『美少年』! そう、美少年や! 

 すいません取り乱しました。

「あのう、なにかご用ですか」

 ドキドキしつつ思いきって声をかけてみると、

「いや、そういうわけじゃないんだけど」

 彼はどう反応するべきか考えているようでした。あら、声もかっこええ。

「ええと、その本。きみが読んでる本」

「これですか」

 わたしが手に持った『ぐんぐん上達する! 鳥居式将棋』を見せると彼はうなずき、

「そう、それ。表紙にのってる鳥居宗和。……おじいちゃんなんだ」

「……だれの?」

 彼はだまって自分の顔を指さしました。

「ええっ!」

 つい大声を出してしまいました。受付に座っている司書さんがこちらをにらんできます。わたしはあわてて頭を下げました。ここでこれ以上会話するのはまずいかもしれません。

「……とりあえず、ここを出て話そうか」

 彼が申し訳なさそうな顔で言いました。


「借りてた本を図書室に返して、さあ出ようと思ったら、目に入ったんだよ。女の子が将棋の本を読んでるだけでもめずらしいのに、若いころのおじいちゃんの顔がでかでかと表紙にあってさ。じっと見ちゃった。ごめんね」

「いえ、そんな……」

 わたしと彼は校門までゆっくり並んで歩きながら話していました。

「それ、ずいぶん昔の本でしょ。三〇年くらい前じゃないの。髪は黒いしフサフサしてるから」

 表紙に写っている鳥居宗和さんは、三〇代か四〇代に見えます。

「となると、今は六〇歳を越えているくらいなんですか?」

 わたしがなにげなくたずねると、彼はちょっと複雑そうな顔をして、

「生きてたら六八歳だったかな? 去年亡くなっちゃったんだ」

 さびしそうに言いました。あかん、だめなところに触れてもうた!

「ご、ごめんなさい! 全然知らなくて、わたし」

「いや、別にいいけど……将棋のこと知ってるんじゃないの? おじいちゃんの本読んでるくらいだし。おじいちゃんが亡くなったこと、将棋好きの中では話題になってたんだけど」

「いやあ、それがですね……」

 かんたんに事情を話すと彼は少し残念そうに、

「なるほどね。まちがいか。将棋が好きなわけじゃないんだね。まあ、女の子だもんね」

「ええ、本はお父さんに返そうと思います。……あのう、おじいさんがプロってことは、将棋好きなんですか?」

 わたしの質問に対して、彼は一瞬だけ無表情になりました。あれ? と思ったのも束の間、

「そうだねえ。けっこう強いほうだとは思うよ」

 笑ってそう言いました。ああ、ほんまにかっこええ……。このときのわたしは彼の笑顔があまりにもさわやかだったので、「将棋が好きか?」という質問に答えていないということに気が付きませんでした。

「さて、じゃあ帰ろうかな。きみはここでお迎えを待つんでしょ?」

 げっ、もう校門に着いてもうた。名前! せめて名前とクラスを聞かんと!

「あのう、わたし、六年一組の朝井祈理っていいます! 昨日から転入してきました!」

 わたしがあわてて言うと、

「へえ、転入生なんだ。となりのクラスだね。あたしは二組の浅倉晶あさくらあきら。よろしくね、朝井さん」

 浅倉晶くんかあ。やわらかい物腰もすてき…………あれ? なんや、この違和感。

「あの、今、なんて」

「え? あたしは浅倉晶って言ったんだけど」

「……『あたし』?」

「あ、ああ! そうか、転入生ならかんちがいしちゃうかもね」

 わたしの言いたいことをさとった彼は、少し照れくさそうに言いました。

「あたし、女子だからね。こんな格好だからよくまちがわれちゃうんだよね」

 ハトが豆鉄砲を食ったような顔というのは、このときのわたしの顔のことを言うんだと思います。『彼』じゃなく『彼女』でしたか……。

 

 これが、わたしと浅倉晶との出会いでした。


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